鍵を差し込んで解錠し、ドアノブを回す音が聞こえてきた。壁を隔てた向こう側の会話の内容までは聞こえないが、笑い声混じりの話し声はこのボロアパートじゃ振動となって伝わってくる。思わずついて出た特大のため息の後、「くそがァ…」と殺気混じりの呟きがこぼれ落ちた。
俺の入居と入れ違いで退去していった角部屋にここ最近新しい入居者が入ってきた。このご時世にわざわざ挨拶に来てくれた時、俺が無愛想だったのにも関わらずにこやかに菓子折りを渡してくれた青年に好感を持ったのが記憶に新しい。
だが、それは幻想だったんじゃないかと思い始めるまでそんなに時間はかからなかった。
『あッ、ああっ…んぅ…ぁっ…!』
「……」
ほーら始まった。帰宅して早々、ぱこぱこぱんぱん。今日も今日とていい加減にしてほしい。残業もなく、定時に帰れたことを祝して買った発泡酒が途端に不味くなる。…いや、嘘です。正直、めちゃくちゃ興奮してる。出会いもなく、花のない生活を送っている俺にとってこんな刺激的な出来事は他にない。漏れないように抑えた声もたまらないけど耐えきれず出た裏返った掠れた声も唆られる。あの好青年がどんな美人を連れ込んでるのかと、何度想像したことか…。
「……はあ………虚しい」
おっと、独り言失礼。手元の缶をあおり中身をあける。そういえば洗濯物干しっぱなしだったっけ。重たい腰をあげ、ベランダへと足を向けた。澄み切った夜風が室内に入り込み、その冷気に身震いしながら冬の訪れを感じる。悪くない。興奮と嫉妬心を自然の香りが和らげてくれた気がした。
「………寝よ」
またしても口から零れ落ちた独り言に返事なんかあるわけなく、本日二回目のため息を吐き出した。
***
清々しい朝日が瞼をかすめ、ゔん…と唸り声をあげながら伸びをした。今日は土曜日。嬉し楽しい休日の始まりだ。何をして過ごそうか。見たかった映画を見に行くのもありだし、衣替えもしたい。少し足を延ばして買い物ってのもいいなぁ…。だがそんな思いとは裏腹に、身体も頭も起きる気配が全くない。こういう日は決まって惰眠コースまっしぐら。それじゃいけないと、重たい身体に鞭を打ちかけ布団を引きはがす。せめてゴミ捨てぐらいしなくては…。溜まりにたまったゴミ袋を両手に、季節外れのサンダルへと足を引っかけた。
清々しい、そう思ったが間違いだった。これは俺の眼を焼き切りにかかっている。登りきった太陽のじりじりした日差しが眼球を刺激して、咄嗟に眼をしょぼつかせる。その時、隣からかちゃりと鍵を開ける音が聞こえてきた。反射的に顔を向ければ、ゴミ袋片手に艶のある黒髪に朝日を反射させた隣人が姿を現した。
「あ、おはようございます」
「…はよ…ざいます…」
これは寝起きだから声が出なかっただけで、決して内心で「昨日はお楽しみでしたね」って思ってた結果の小声なわけじゃない。そんな心の中の言い訳なんかつゆ知れず、お隣さんは絵にかいたような好青年のままにこりと微笑み返してくれた。やっぱりいい人。
大都会東京で、地元を彷彿とさせるマイナスイオンを感じた気でいると、お兄さんの後ろから足音が聞こえてきた。その背中からひょこっと現れた線の細い人物を目にした途端、無意識のうちにひゅっと短く息を吸っていた。
「こーいち」
「あれ、もう行くのか?」
「ああ」
「そうか…朝ごはんぐらい一緒に食べたかったんだけども…」
「すまん、ちょっと時間無い」
揃った同じ顔のやり取りに口をあんぐり開けていた俺の方に、現れた人物が気まずそうな表情を向けてきた。手際よく、肩から流れ落ちた艶やかな黒髪を一本にまとめながら。
「朝からバタバタとすみません」
「えっ!あっ…い、いえ…」
しどろもどろになってしまったのは、この黒髪美人の声がしっかり低かったからだ。お隣さんも、男性にしては可愛らしい顔立ちだなと思っていたけれど、髪が長いってだけでマジで女の子にしか見えなかった。喉仏もある。男だ。
「失礼します」
「あっ、あっ、はい…」
どこぞのカオナシか俺は。ずっと挙動不審じゃん。
コミュ障爆発している俺に一瞥くれたあと端正な顔立ちがぺこりと会釈をした。決してにこやかとは言えないが、顔面偏差値のお陰で様になっている。まとめたローポニーが反動で揺れ動いた。
「気を付けて」
「ありがとう。…ああそうだ、明日も来るから」
「はあ?明日も?」
「なんだよ…嫌なのか?」
「嫌なわけないだろ…」
「じゃあ問題ないな」
今度は勝ち誇った顔で。胸の内の疑問が俺をざわつかせる。
小走りで遠ざかっていく背中を目線で追いかけて、見えなくなった辺りで取り残された方のお兄さんが口を開いた。
「朝から騒がしくてすみません…」
「あ、いえ…」
「弟なんです、双子の」
「あ、はあ…」
曖昧な答えしかできない俺に爽やか笑顔で笑いかけられる。小首を傾げるのはやりすぎな気もするが、好青年の微笑みに心は浄化一歩手前だ。
「ごみ捨てですよね?もしよろしければ一緒に捨ててきますよ」
「あっ、えっ、ありがたいですけどご迷惑じゃ…」
「俺のついでですので気にしないでください」
正直ありがたい申し出である。無言で揃ってゴミ捨て場に行くのは気まずいし、かといって気の利いた会話なんかできるとは思えない。差し出された手のひらに結んだゴミ袋を差し出しながら目を見て……
「あ、ありがとう…ござます」
声ちっさ。自分が情けない。
爽やか好青年が会釈をし、細身の背中が向けられる。ぱたぱたと遠ざかっていくスリッパの音を耳が拾いながら自分の部屋の扉を閉めた。
………お気づきだろうか。考えないようにしていた、いや何も考えらんなかったってのが正解かもしれない。
隣人の部屋から出てきたもう一人の人間が、カノジョではなく弟…男ということに。
今になって早鐘を打つ鼓動に気づかないふりをして、目をつむり、細く長く息を吐き出した。すーっと静かに出て行く二酸化炭素のお陰で脳内がすっきりしてきた気がする。新しい酸素を時間をかけて吸い込んでもう一度吐き出した。うん、正常。
「……黒髪長髪…」
瞼の裏から離れない、ローポニーの下から見えた跡と爽やかな微笑みに叫び出しそうになるのはこの五分後だ。