バックムーン(2023年7月3日)「久しぶりだね、こういうの。まさかタクシーで来るとは思わなかったけど」
月夜、川沿いを歩くふたり。
青瀬の言葉に、幽玄は少しモゾモゾした。
「さすがに酒飲んでたから…走って行こうとしたら、サダカに止められたから」
「だろうね」
独身の頃、何か困ったり衝動に駆られた時、幽玄は青瀬のアパートまで走ってくることがあった。その頃はまだ近く(走って10分強くらい)にいたので出来たことだが、山の方のサダカの家に婿入りしてからは、郷土資料館に来るついでに話すことが多かった。
「で? 今日はどうしたの」
テレビで、とあるアーティストの歌やライブのランキングを放送していたのを見ていたという。幽玄は、コロナ禍の時に知ってから、そのアーティストの歌が好きだった。
「ゆー、おまえもライブ行ってみたら?」
「うん、行ってみたい。サダカも一緒に行こうよ」
「んー…でも農園があるからなあ。母ちゃんも歳くったから、ひとりで任せるのもしんどいだろうしさ」
それでワーっとなった、らしい。
「一緒に行けなくて、悲しかったのかい?」
「それも少し…けど」
幽玄は空を見上げた。満月。
「ああ、親戚ってこういう時のために仲良くしとくんだ、とか、遅すぎることってあるんだ、とか…そういうのが」
下を向く。足元は暗い。
「そういうのが、つらい」
親族は、奇怪な能力を持つ幽玄と母を疎んだ。疎むくせして、金や労力はせびった。
だから、サダカの家に養子入りして、捨てた。
サダカの養母も、天涯孤独な巫女だった。化け物のサダカに指三本分の人間の身体を分け与え、自分の子供にした。
トマト農園に従業員はいる。近所の人たちとも仲はいい。だが、農園を何日も預けていられる身内はいない。
「あんな奴ら、居なくていいと思ってたけど…仲のいい一族なら、こういう時に助かるのか、って…」
「まあ…わからないでもないけど…」
青瀬の実家は北海道である。しかも一人息子だ。なかなか帰省出来ない両親は、親戚と連絡を密にはしてるらしい。確かに少し安心感はあった。
「でも、君んち農家の人いなかっただろ? 例え仲が良かったとしても、トマト園預けるの無理じゃないの」
「そうですけど…まあ、そうですね。例え農家だったとしても、あれだけ金せびってくる奴らだし…」
幽玄の言葉はまだ煮えきらないが、モゾモゾ動かなくはなった。青瀬は安心感を込めて息をついた。
「落ち着いたかい?」
「はい。すみません、いつもご面倒かけて」
「いいよ」
かつて青瀬を殴ったように、疳の虫に負けて暴力を振るうより、ずっと。
空を見上げる。満月。
「ああ、今日はバックムーンだったね」
「…そんな後ろ向きな満月があるんですか」
青瀬は笑った。
「そっちのバックじゃないんだ、B-U-C-K、で雄鹿。生え替わった雄鹿のツノがガッシリする時期の満月、だって」
生え替わったツノが、ガッシリする時期。
幽玄はもう一度、空を見上げた。
持ってない、出来ない苦しさもあるけど。
「センセ」
「うん」
「俺、前より少しは成長してますかね」
「もちろん」
幽玄はコンビニでお礼の飲み物とツマミを買って、今度はセンセのアパートまで一緒に歩いた。