なりふり構っていられなかった。いつもならタクシーを捕まえるが、今日はその時間すら惜しくてホームに滑り込んできた電車に飛び乗る。
都心の駅前はこれだからいけない。タクシーひとつ、思ったように捕まえられないからだ。タクシーもバスもこんなときばかり長蛇の列で焦りだけが募る。
というのも、潔には一秒でも早く家に帰らねばならない理由があった。事と次第によっては、いま住んでいる部屋から出ていかなければならないからだ。いや、出ていかせてもいいんだけど。どうであれ、早くしないと行くところがなくなってしまうから、急ぐに越したことはない。
「つーか、マジでなんだよ……これ」
適当に突っ込んだスポーツバッグから取り出したのは、今日発売のスポーツ雑誌だった。
先日行われたワールドカップで一躍有名となった日本代表選手たち。その中でも特に若手で名を挙げた選手たちが取り上げられており、第二回の今回は蜂楽廻が特集として組まれていた。ちなみに第一回は潔である。
その記事の中にはサッカーのことだけではなく、プライベートなことまで記載されていた。自分が取材を受けたときにも似たような質問を受けたが『オフの日は何をしていますか?』『最近、ハマっていることは何ですか?』『サッカー以外に、これから挑戦したいことはありますか?』といった当たり障りのない質問で、少なくとも恋愛に関する質問はなかったはずだ。そう記憶している。しかし、蜂楽の記事は潔の質問内容とは打って変わって、サッカー以上にプライベートなことが深く掘り下げられていた。でも、それぐらいならまだいい。問題は蜂楽の返答にあった。
――プライベートについてお尋ねします。交友関係が広いとお聞きしていますが、オフの日によく会う方はいらっしゃいますか?
蜂楽 うーん、ブルーロックで出会ったメンバーとはよくご飯に行ってるけど……でも最近は恋人と一緒にいることの方が多いかな?
――恋人!? それは初耳です。お付き合いされて長いのでしょうか?
蜂楽 うん。長いと思う!
――差し支えなければ、馴れ初めやその方の雰囲気などを教えてください。
蜂楽 馴れ初めは話せないけど……雰囲気なら話せるよ! えっとね、とにかくすっごく可愛い! 普段はしっかりしてるけど、たまーに抜けてるところがあるっていうか、ちょっと隙があるっていうか……。それが悩みどころでもあるんだけど。あとは目が好きかな♪ あ、でも優しいところも好きだし、スタイルも悪くないし……。ちょっと、話し過ぎちゃった(笑)
――いえいえ! 素敵なところがたくさんある方なんですね。蜂楽選手の気持ちが伝わりました。
蜂楽 なんかちょっと恥ずかしいや……。けど、本当に大好きで、近々結婚しようって思ってるんだ〜。
――結婚ですか!? またまたすごい話題が飛び込んできましたね。
蜂楽 実はもうね、婚姻届だけは準備していて、俺のサインまでは済ませちゃった。で、肝心のプロポーズに悩んでて、今もどうしようか考え中です!
――それは大変な悩みですね……。でも、プライベートは順調とのことで安心しました。プライベートで生まれた心の余裕が、プレーの余裕にも繋がっているのかもしれませんね。最後にひとこと、蜂楽選手から皆さんへ向けてメッセージをお願いいたします。
蜂楽 みんな! 俺がもっともっとサッカーを面白くするから、これからも応援よろしくね!
……マジでなんだこれ。前半はサッカーに関する質問がメインだったが、後半からはほとんど蜂楽の恋人自慢になっている。だけど、問題はもっと根深い。自分という存在がありながら、平気で浮気しているという点だ。
蜂楽曰く、恋人は可愛いらしい。可愛いって普通、男相手には使わない表現だろう。それに、スタイルまで良いときた。見た目が可愛くて、スタイルも良くて、おまけに優しい女性。思い当たる人物がいないわけではない。最近、バラエティで共演したという女子アスリートの選手か。はたまた、キャスター業をやっているインタビュアーの女性か。
テレビや雑誌関係で出会う女性は多く、潔自身も過去には何人もの女性から連絡先を聞かれている。気付かないまま合コンをセッティングされることもざらだ。だから、自分の知らない間に、どこかの誰かと愛を育んでいても何らおかしくない。
それにもうひとつ。何よりも引っかかっているのが、"結婚"というワードだ。インタビュアーからの質問をうまくいなすためのカムフラージュして嘘の特徴を並べたのだとしても、結婚だけは潔と蜂楽とではできない。男同士ではせいぜいパートナー止まりであって、婚姻届にサインしたとしてもその行き先がないのだ。だからこそ、蜂楽のいう"恋人"が自分ではない誰かだと確信が持てる。
その事実をこんな形で知ることになったのが許せない。悲しみを通り越して怒りすら湧いてくる。
潔は最寄り駅で電車から降りると、雑誌を握りしめながら蜂楽と二人で住んでいるマンションに向かった。
※※※
「どったの潔、そんな怖い顔して」
玄関で靴を脱ぎ捨て、ドスドスと足音を響かせながらリビングに入った潔に、蜂楽はいつもと変わらぬゆったりとした口調で話しかけた。
ソファに身を投げ出した状態の気が抜けた蜂楽の態度に、怒りのボルテージがMAXまで跳ね上がる。このままメーターを振り切ってしまいそうだ。自分の中に、これほどまでの暴力性が眠っていたのかと感心すらしてしまう。握り締めていた雑誌が、ぐしゃっと音を立ててさらに曲がった。
「言いたいことはそれだけかよ」
「えっ……なに?」
「とぼけんなよ。これ、見たんだからな」
「ん……? あーー! その雑誌、読んじゃったの!?」
「当たり前だろ!? 俺もこの前、取材うけたんだから」
「確かに……そうだよね。でも、潔には最後までバレたくなかったなー」
へぇ……そう。バレたくなかったんだ。と相槌を打つ声が足元を這う。
この期に及んでバレたくないと申すのか。さっきは怒りが悲しみを凌駕したが、ここまであっさりと、そしてはっきりと認められてしまうと、逆に惨めな気持ちになってくる。潔は、そうかよ、と呟くと、くしゃくしゃになった雑誌を蜂楽に突き出した。
「俺、出て行くな」
「なに言ってんの、潔」
「他に相手がいるのに……結婚したいほどの相手がいるのに、いつまでも俺と一緒ってわけにはいかないだろ…………」
「んん? ちょっとよく分かんないんだけど」
「だから! 蜂楽には可愛くて、スタイルも良くて、優しい恋人が他にいるんだろ! おまけに結婚したいほどの!!」
自分で言っていて悲しい。
だって、何一つ合致してなくね? 蜂楽の言う相手に。可愛くもなければ抱き心地だってよくない体、優しいとは言われるが、サッカーをしているときはどうしてもイキったことばかり言ってしまうこんな自分なんか。
「あのさ、潔」
「……っ、こっち来んな!」
「なんで? 大好きな恋人を抱きしめにいくだけだよ」
「だから、」
俺じゃないんだろ、という言葉が引っ込む。ふわっと優しく抱きしめられて、柄にもなく涙が滲んだ。
「聞いて、潔」
「……聞きたくない」
「じゃあ、勝手に話す」
ぽんぽんと宥めるように背中をたたかれて、少しだけ体から力が抜ける。張り詰めていた気持ちも不思議と落ち着いてきた。潔、と優しく名前を呼ぶ声が心地いい。ほんの少しだったら話を聞いてやってもいいかなと思わせる、柔らかくてまるい声音だった。
「俺から見た潔はすっごく可愛いよ。こうやって一生懸命なところとかすっごく可愛い」
「どこが……」
「見た目の話じゃなくって、潔のうちがわの話ね。あと、あそこに書いてあることはぜーんぶ本当のこと。サッカーをしてるときはピリッとしてるのに、普段はちょっと隙があるところとか本当はすっごく心配。だけど、そんなところも可愛いって思うよ」
「じゃあ、スタイルっていうのは……」
「体つきは悪くないでしょー? だって、サッカーをするために鍛えてるんだし」
するりと背骨を撫でる指先が腰まで降りてくる。どこに触れても骨ばっているし筋肉質だ。サッカーをするために鍛えてきたから。
「サッカーのために鍛えられた体も好きだし、何より潔の優しいところが好きだよ。これだけじゃあ足りない?」
「……足りなくない」
「だったら、俺のいっちばん好きな潔の目、見せてくれる?」
「それは嫌だ」
「なんで?」
「なんでも……」
泣きそうになっていることがバレたくない。だが、その気持ちすら蜂楽には筒抜けになっているのだろう。蜂楽は楽しそうに笑うと、いいの? と耳元に唇を寄せた。
「俺がサインした婚姻届、今すぐ見たくない?」
「はぁ!? 本当にサインしてあるのかよ!?」
思わず体を引き剥がし、蜂楽の顔を見てしまう。蜂楽はしてやったりといった表情で潔を見ると、ちょっと待ってて、と言って寝室に行ってしまった。
ほどなくして戻ってきた蜂楽の手には、本物の婚姻届が握られている。
「ね、言った通りでしょ?」
「マジかよ……」
「実はさ、あのインタビュー、完全にオフレコだと思って喋ってたんだよね。だから、終わったあともちゃんとカットしといて欲しいって伝えたんだよ。なのに、こんなことになっちゃってさー」
俺が考えてたプロポーズ大作戦も意味がなくなっちゃった! と蜂楽が残念がる。本当はもっと格好良くキメたかったのに〜と唇を突き出して拗ねる蜂楽の方が、潔からしたらよっぽど可愛く思えた。
「で……さ。婚姻届なんだけど、ここにサインしてくれる?」
空白の箇所。そこをトントンと蜂楽が指差す。
もう答えなんて分かり切っているだろうに、それでも不安と緊張が押し寄せてくるのか蜂楽の視線が心許なく揺れた。その緊張が潔にも伝わってくる。
きっとここに名前を書いたって、何処にも届かない。だけど、互いを愛している証として、これから永遠に残り続けるだろうから。
潔は静かに婚姻届を受け取ると、空白が埋まる瞬間を今か今かと待ちわびているそこにペンを走らせた。