橄欖之苑 第十一幕「元気がないな」
そんな何気ない声かけに応じるのにも、今は気力が必要だった。
「こんな時に、お前は元気でいられるか?」
ようやく返事をすれば、今度は相手の方が口をつぐむ番だった。
「中立のお前には関係のないことか」
「嫌な言い方をするな。君だって、同じ立場じゃなかったのか?」
交わす言葉に棘が混じる。
朝廷の政変は恐れと焦燥を呼び起こし、俺たち二人も含め多くの者から心の余裕を奪ってしまっていた。
目の前には、広い湖面が横たわっている。
順天府の西門である阜城門を抜けて二、三里ほど行くと、玉淵潭という古くからの景勝地がある。玉淵潭はいわゆる大運河の水から生まれた湖で、湖畔には花木が生い茂って天然の園林となり、文人たちが霊感を求めて訪れるほか、清明節や上巳節の折には踏青に出かける市民たちで賑わう場所だ。城壁外と言っても街から遠すぎず、今は特に見頃の花もないため人出もない。「密談」には良い場所だろうと思ったのだった。
湖畔には柳木の合間を縫うようにして、石の腰掛けが並んでいる。俺と子先は湖の方を向き、隣り合った二つの椅子に、それぞれ腰を下ろしていた。
子先の言葉については、確かにそのつもりだった。
しかし正直、魏忠賢がここまでやるとは思っていなかった。追放ならまだしも、楊漣殿の死は党争の結果ですらなく個人的な報復に過ぎない。今や奴は、以前よりはるかに容易く死の刃を振るうのではないか。
趙尚書や存之も罷免され、頼れる人物、いや、まともな臣が朝廷から急激にいなくなってしまった。気が付けば、官職は魏忠賢に媚を売る者と奴の一族で占められているだろう。その割合が増えるにつれ、自分の立場も苦しくなる。それこそ、ただ飼殺されているだけのような状況になるのではないか。今や危機感が目に見える形を取って、俺の前に立ちふさがっていた。
官僚として生き残るなら、一番簡単なのは宦官党に媚びを売ることだ。魏忠賢の言葉を信じるなら、奴は俺を歓迎する気があるらしい。奴の外套の陰に隠れて、俺は何の心配もせず辺境防衛に専念することが出来るだろう。だがそんな手段は論外だ。今となっては決して奴の存在を許すことは出来なかった。
「そのつもりだったんだがな」
膝の間で指を組み合わせ、俺は目を閉じて息をつく。瞼を上げると、迷いなく決意を形にした。
「俺は、奴と戦う」
会話の相手がどんな顔をしているのかわからない。湿った風が柳の枝を揺らし、さわさわと音が立つ。その音が静まりきった頃、子先は平坦な声で呟いた。
「そうか」
そこに何かの感情を読み取ろうとしたが、俺には彼の真意は測れなかった。横を向いて、相手の表情を探る。子先はただまっすぐに、西日を照り返す湖面を見つめていた。
「こんな状況になっても、お前はまだ日和見を続けるのか」
「日和見をしているつもりはないんだけどな」
子先は少し顔をうつむけると、苦笑しながらそう言った。
「僕は方針を変えるつもりはない。党争にはかかわらない」
彼の結論は変わらなかった。その横顔は、相変わらず揺るぎない意志を伝えている。しかし義憤にかられた今の俺には、彼の態度は無慈悲に思えてつい苛立ってしまった。
「そんなことに何の意味がある」
その感情を吐き出してしまうように、俺は声を荒げる。
「朝廷をあの男が掌握している限り、改革の道など開けるわけがない。叶えたいことがあるんだろう?だったら結局戦うか、媚びるかしかない」
「……」
相手が反論しないのをいいことに、俺は湧き出てくる感情を次々と言葉にしていった。それがどんな意味を持つかを考えもせずに。
「身を引くのは結構だ。だが落ち着いたころに顔を出して、上澄みだけせしめるつもりか?」
「礼卿。君は怒りで取り乱してる。もう一度…」
「俺は冷静だ。お前こそ正気なのか?奴の蛮行を何とも思わないのか!?」
「そんなわけないだろう!」
鞭を振るような声が、俺の耳を打ち据えた。
「僕だってあの男は憎い。官職を奪われた。教会も焼かれた。あいつの一派には、何度も痛い目に遭わされた。楊漣殿のような人がむざむざ犠牲になっていくことだって、見過ごせるはずがない。だけど、だからといって何が出来るんだ!?」
子先は首を垂れ、血を吐くような叫びを上げる。
「日和見だって?君と一緒にしないでくれ。選択の余地すら僕にはないんだ。力も後ろ盾もなければ、おとなしく身を引くしかないだろう」
それは悲しい嗤笑だった。
「伝教士たちも、迫害から守れなかった。上奏しても音沙汰がない。練兵も邪魔されて越権行為と責められる。誰もやらないから、僕がやるしかなかったのに。正しいことをしてるはずなのに。どうして……どうして何も出来ないんだ!!」
子先は拳で膝を強く打った。まるで自分を罰するかのように。
最早彼の言葉は、党争とは何も関係がなくなっていた。彼はただ気の高ぶるままに、今まで抑圧してきた感情をぶつけていた。彼の抱えていたものの一端が、ようやく垣間見えたと思った。やがて子先は呼吸を整え、行き場を失ったように両掌で目元を覆った。
正しいことをしているはずなのに。
子先の悲痛な叫びを、俺は頭の中で反芻していた。
治世であれば、それは報われるかもしれないが、今の世はそうではない。
奸臣の跋扈。外敵の侵入。それを乗り切るために必要なのはもっと別のものだ。
その事実は、認めて乗り越えなければならない。――俺とお前が、生き残るために。
だから、冷たいとは思ったが、俺はあえてそれを口にした。
「……お前の正しさは、所詮お前の正しさでしかないってことだ」
言い終わるやいなや、矢のように反論が飛んでくる。
「民の生活をよくする、外敵を防ぐ、正確な暦を作る。いったい何が間違ってるんだ」
「いくらそれが道理の上で正しくても、道義の上で正しくても、それをどう解釈するかは結局、そいつの価値観でしかないってことだ。形はどうあれ、誰もがそれぞれの『正義』を掲げて動いている。だから、正しさで他人は動かない」
子先はぐっと唇を結ぶ。何か言いたげに、紫檀色の瞳が揺らいでいる。
「人を動かすのは、結局力だ」
魏忠賢との対話。東林党の粛清。そこから得た答えだった。子先の眼差しには抗議の色がありありと浮かんでいるが、それをしり目に、俺は淡々と続ける。
「それは権力でも、武力でも、数でもなんでもいい。そして、そうして成し遂げられたものこそが正しいんだ。少なくとも、今の世においてはな」
俺は顔を横に向ける。
「分かるか?あくまで望みをかなえたいなら、あの男の「正しさ」を上回る力が必要だってことだ」
「…………」
渋々と言った態で、子先は頷く。納得はしたくないが理解はした、そんな顔だ。
「だけど、もうどうすることも出来ない。陛下だって、今は頼りにならないんだ。それなら雌伏してやりすごすしか…」
「いいや、まだ使えるものはある。楊殿にはなかったが、俺はそれを持っている」
子先の目が丸くなる。彼はすぐに意図を理解したようだった。
「奴を、討つのか?」
低い声が返ってくる。俺は頷くと、湖面に目を向けたまま言葉を継いだ。
「巡撫時代に連携を進めたおかげで、各地の軍には伝手がある。前線を当たれば動かせる味方はいるはずだ。事が済んだ後、帝を説得できる可能性も人よりはあるだろうしな」
「でも、前線の兵を割いたらまた土地が奪われる」
「だったら、取り戻せばいいだけの話だ」
俺にとっては、満州族との戦に勝つのは、朝廷で魏忠賢を相手に立ちまわるよりよほど容易いことだった。
「だけど、もし失敗したらどうする?叛臣として永劫汚名を被り続けるんだぞ」
「そんな仮定は必要ない。奴を除くことが出来るのなら、叛臣の烙印など知ったことか。後の世に、名など残らなくても構わない」
子先はしばらく黙っていた。やがて彼の口から出てきたのは、勝利を期待する言葉ではなかった。
「……君は強いな。だけど、僕は…」
「子先」
その先を封じ込め、俺は卑屈に身を縮めている友人の名を呼んだ。
不安げな瞳がこちらを向く。それを確かめて、俺はようやく、ずっと言いたかった言葉を口にした。
「俺はお前の力になりたい」
先程より冷たさを増した風が頬をかすめ、水面を騒がせる。それは音をも運び去ってしまったのだろうか。その場には長い間静寂が満ちていた。
子先は驚いたように目を見開いていた。何かを言おうと、口が何度か開閉する。
「……どうして」
やがて彼は、ぽつりと呟いた。
「僕のことなんか、君には関係ないだろう」
逃げるように、子先は顔を少し傾ける。
「俺はそうは思っていない。兵器。軍略。俺はずっと、お前の持っているものを評価している。だから共に戦って欲しい。そうすれば、お前の望みだって叶えられる」
「だけど」
歯切れ悪くそう言って、子先は袖を握りしめた。そのしぐさには迷いが感じられた。
「僕は、生き残らないといけない」
「そうだ。生き残るために戦うんだ」
俺は思わず身を乗り出す。威圧的に感じたのか、子先は少し身を引いた。
何も言わず、彼は今度は胸元で手を握りしめる。縫い取られた竹の模様――高潔な意志の象徴が歪む。
「……それでも、危険は冒せない」
煮え切らない彼の態度に、俺はまた苛立ってしまう。
「伝教士どもの面倒を見るためか?そんなことのために、なぜお前が一人でそんなに苦しむ必要がある」
その発言は思考を通さぬ、ほとんど本能的なものだった。彼らの名を出した途端、子先の顔色が変わる。消えかけていた灯火に、急に油が注がれたようだった。
「これは僕の意思でやっていることだ。彼らの技術は先進的で正確だ。国を強く、豊かにするために必ず役に立つ」
「違う。お前は彼らが中華に居つくのに利用されてるだけだ」
「君に何が分かる!」
子先は再び声を荒げた。水面にさざ波でも立ちそうな勢いだった。
「彼らのことも…あの人のことだって、何も…何も知らないくせに!!」
子先は立ち上がり、眉を逆立てて俺を見下ろしていた。
強くなり始めた光が、彼の半身を縁どっている。その姿は、あの時――牌坊のたもとで初めて彼の姿を見た時を思い出させた。
そう、これはあの時と同じ――愛する物を脅かす存在に立ち向かう姿だ。
それは俺と彼の間の、決定的な断絶を示していた。
「もういい」
突き放すようにそういうと、子先は話は以上というように、くるりと背を向けた。
「政争に利用されるのはまっぴらだ。申し訳ないけど、君の助力は必要ないし、僕も君の力になれない……だけど」
肩をすくめ、彼は続ける。
「気にかけてくれて、感謝はしている。……どうか、無事でいてくれ。君には、楊殿のようになってほしくはない」
「心配するな。命の危機くらい、何度も切り抜けてきた。いざとなれば呂仙人が守ってくれる」
「馬鹿か君は。そんなもの…」
子先は顔をさらに俯け、両掌を握りしめる。消え入りそうな語尾は、かすかに震えていたように思えた。
「子先」
寄る辺ない背中に向かい、俺はいつかと同じ言葉をかける。
「無理はするなよ」
「……」
今度は答えは帰ってこなかった。決して振り向くことはなく、子先はそのまま逃げるように去っていった。
……馬鹿なことを。本当に馬鹿なことをしたと思う。
痛みをこらえるように、俺は額に手を当てて俯いた。
大体、矛盾している。
わが身を犠牲にして孤独に戦い続ける彼を、支えたいと思うのは確かだ。
だが、天主教、伝教士、西洋の技と学問。彼を彼たらしめている聖域。今やどうしても、俺は「それ」を受け入れることが出来なかった。
それを措いて、彼の望みなど叶うはずがないというのに。彼の力になどなれるはずもないのに。
だいいち、そう思っていたとしても、わざわざ彼にそれを言う必要などなかったはずだ。そうすれば、少なくともあんなことにはならずに済んだ。
おそらく、俺は焦っているのだ。
魏忠賢と戦う決意をするということは、彼と道を分かつことでもあった。だから、無理に彼を自分に同調させようとしたのだ。
彼の意志など考えもせずに。
だから結局、そうして得られたものと言えば、俺とあいつが生きる世界は違う、その事実が明白になったことだけだ。そしてこの違いは、おそらく決して埋まることはないだろう。
……いいや、これでよかったんだ。
一つ、大きなため息をつく。
頑なで、どこまでも理想に忠実。あれが徐子先という男なのだ。
それに……友人を一人失ったところで、国難には及ばない。
戦うと決めたのなら、後顧の憂いなどない方がいい。せめて彼には、生き残ってほしかった。
軍略。兵器。才能。知識。そんなものはどうでもよかった。
彼の持つ光はそんなものではない。
俺はただ、それを絶やしたくなかったんだ。
だが。
――「お友達は、ちゃんと選んだ方がいいぜ」
魏忠賢のその言葉を、俺はもう少し深刻に考えるべきだったのかもしれない。
――「十字架に掛けられる直前、最後の夜に、『救い主』はただ一人神に祈りマシタ」