『いま駅に着いたとこ、何か買って行くものある?』
電車を降りて改札へ向かいながら、すっかり見慣れたアイコンのトーク画面を開いて文字を打ち込む。数秒もせずに既読が付いて、ファルガーからのメッセージが届いた。
『特にないな。雨が降ってるし、やっぱり迎えに行こうか?』
『ううん、まだそんなに強くないし大丈夫だよ』
大切にされていると分かる優しさに、浮奇の頬が自然と弛む。スマホを上着のポケットに入れてお気に入りの傘を広げ、空から降り注ぐ雨がゆっくりと濡らしていく地面へ踏み出した。一ヶ月ぶりに取った数日間の休暇をリラックスして過ごすべく、浮奇はファルガーの家へと向かっている。「ふーふーちゃんの家で休暇を過ごしたい」と半ば思い付きで伝えた浮奇を、コラボも含めて配信の予定が入っているが、それでも構わないなら、とファルガーは快く受け入れてくれた。
もう何回も通って慣れていることは分かっているはずなのに、ファルガーは毎回駅まで迎えに行く、と言ってくれる。ファルガー曰く、駅の周辺は何もないから危ないことはないだろうけれど、家へは駅から歩いて数十分は掛かるから、だそう。心配してくれていることは分かっているが、浮奇はこの街の空気を肌で感じたくて、ほとんど毎回丁寧に断りを入れていた。
「あ、ここの花咲いてる」
ファルガーはこの街を不便な田舎だと言うけれど、浮奇は穏やかで静かなこの街を気に入っている。浮奇の住む町中と違って時間の流れがゆっくりに感じるし、季節を感じさせてくれる植物がそこら中にある景色は浮奇の心を落ち着かせてくれた。それはファルガーにとっても同じようで、ドッゴとの散歩で通るたびに生い茂った植物が蔦を伸ばしたり花を咲かせていくのを見るのが楽しみなのだと、初めて一緒に行った散歩の時に嬉しそうに話していたことを今でも鮮明に思い出せる。普段ならその場で写真を撮って送るのだが、今日はあいにくの雨で手が塞がっておりスマホをポケットから出すことは叶わない。後で見にいくことを口実に散歩に一緒に行こうと頭の端で考えた。
とっくに片手の指では足りないほどの回数を歩いたおかげで、迷うことなくファルガーの家へと到着する。少し跳ねる心臓を落ち着けて、インターホンを鳴らして数秒。ガチャリとドアが開いてファルガーの姿を見たと同時に、浮奇は半ば無意識に叫んでいた。
「いらっしゃい、浮奇」
「どうしたの!?」
「...おぉ、どうした」
玄関を開けたファルガーは頭からしっとりと濡れており、髪の先からポタポタと水滴を垂らしていた。服も濡れているところを見る限り、雨にでも降られたらしい。
「お邪魔します!」
「...いらっしゃい?」
浮奇が驚いたことに驚いたファルガーにやや引き気味に問われるのを聞き流して、形だけの挨拶を交わしながら雑に荷物を床に置いた浮奇は、ファルガーの腕を掴むなりバスルームへと向かう。
「どうしてこんなに濡れてるの!?」
「いや、その、」
勝手知ったる棚からバスタオルを取り出して少し雑に髪を拭き始める浮奇に、ファルガーはもごもごと言葉を濁す。
「浮奇からメッセージを貰った時はドッゴの散歩中で、さっき帰ったばかりで...」
「傘を差してたならこんなに濡れないでしょ?どこを散歩してきたの」
問いかけながらまるで母親のようだなと頭の片隅で考えていると、タオルの隙間からこちらを伺うように見つめてくるファルガーに「浮奇ママだな」なんて言われて、怒られている自覚のなさに対する呆れと同じことを考えていたことへの嬉しさが込み上げて、誤魔化すように小さく息を吐き出した。
「いいから、俺の質問に答えて」
「...傘は差してなかった」
予想外の言葉に思わず絶句して手を止めた浮奇を前に、流石に気まずいのか視線を逸らしたままでファルガーが言葉を重ねる。
「でも、俺の髪は人工毛だから傷まないし、サイボーグパーツは錆びない加工がしてあるし、服は帰ってから洗えば良いし、家に着いたら熱いシャワーを浴びれば風邪を引くこともないだろ。...浮奇、大丈夫か?」
ようやく取り戻しかけた思考を、頭に掛けられたタオルをそのままに首を傾げて浮奇の顔の前で手を振るファルガーの可愛さに心を持っていかれそうになって、浮奇はぶんぶんと頭を振った。
「オーケー、ふーふーちゃんの言いたいことはよく分かった」
「そうか。浮奇も濡れたくなることあるだろ?」
「そうじゃないんですけど!」
何か勘違いしているらしいファルガーはニコニコと嬉しそうで、浮奇はなんだか痛む気がするこめかみをさすった。
「よく聞きな、ビッチ。あのね、外側は人工物かも知れないけど中身は人間なの、すぐにシャワーを浴びたって風邪を引くことはあるから!それにふーふーちゃんの持つ人工物がどれだけ優れた技術で作られてるとしても、もし調子が悪くなったらこの時代に直せる技術はないんだよ?」
浮奇の言葉に何か言いたげに口を開いたファルガーは、けれど素直に黙ってこくりと頷いた。産んだ覚えも育てた覚えもないが子供を叱っている気持ちになった浮奇は、ひとまず浮奇の言葉を受け入れることにしたらしいファルガーの頭をそっと撫でる。
「心配かけて悪い」
「分かったならいいよ。絶対にやめてとは言わないから」
「...ん」
しょんぼりとしたファルガーの様子に項垂れた耳と尻尾が見えて、浮奇は苦笑した。水分を含んで重みを増したタオルを洗濯機に放り投げて、しっとりと濡れたシャツが張り付く体をシャワールームへと向ける。
「ほら、風邪引く前にシャワー浴びてきて。お望みなら洗ってあげるけど?」
「あッ、」
問いかけながら指先で背骨を辿る浮奇に、ファルガーはビクリと背中をしならせて思わず声を上げる。自分でも驚いたのかパッと自分の口を掌で塞いだファルガーは思わずにやついた浮奇を鏡越しに睨んだ。
「自分で洗えるから、早く荷物を片付けて来い!」
耳まで真っ赤になっているのを笑いながら、浮奇はようやくバスルームを出て玄関に放り出していた荷物を拾い上げる。
「ふーふーちゃんってば、本当に可愛いんだから」
いつものようにリビングへ荷物を持って行こうとバスルームの扉の前を通ると、完全に納得はしていないファルガーがなんだかブツブツと文句を言っているらしい声が聞こえてくる。
「すぐ行くから、いい子にしてて」
わざと大きめに声を掛けた途端にどこかに何かをぶつけたような物音がして、浮奇は笑いを必死で噛み殺した。本当に、恋人が可愛すぎて困る。必死に声を抑えながらリビングへ入った浮奇を不思議そうに見つめるドッゴに挨拶をして、ファルガーがすでに出してくれていたルームウェアを持ち、荷物の中から入浴セットを取り出す。どうせ後でシャワーを浴びるのだから、今ファルガーと一緒に入っても問題ないだろう。
ふと、どちらかといえばスマートに決めたがるファルガーが浮奇の前で明らかな失敗をするのは珍しい、とさっきの様子を思い返した。けれど、うっかり普段の調子でやらかすファルガーが見れるのも、心を許している証拠と思えば愛おしい。ファルガーの家で過ごす三日間は、きっと特別なものになる気がした。
「今、手を入れなかった!?その鍋、沸騰してるんだけど!?」
「あー、えっと、気のせいだ」