『わたしは逆鱗に触れたのか』――――――――――
ふだんは きわめて おだやかだが その げきりんに ふれると すべてを こわしつくすまで おさまらない。
――暗い岩場を疾駆しながら、一族の住まう地にて『最強』と呼び声の高いそのポケモンの伝承を、女は思い返さずにいられなかった。
奇しくも今、己を追いかけているのも同じポケモンである。その竜は天高く舞い、この卑小な体にでんじはを降らし続けている。……否、違う。
マントの下、背筋に感じるこの粟立ちは、このひりつく感覚はポケモンのわざではない。
これは殺気だ。
あの竜を駆る『彼』のものだ。
くく、と女は笑った。追い詰められる恐怖故に気が触れたのではない。
(やはりあなたしかいない)。そう確信したからだ。
手持ちのガブリアスをボールから出した瞬間、目の前を峻烈な光が閃いた。
遅れて轟音が響き渡る。
土の焦げる臭いを嗅ぎながら走らせたガブリアスの背に乗り込み、女は上空を振り返る。
暗雲蠢くパルデアの空に、雷光を纏う竜がいた。
空の全てを焼き尽くす程、荒れた稲妻を従えて。
君臨する王者の竜。大いなる空と海の覇者――カイリューがその背を許すは、竜の血を継ぎしあのお方。我が一族を率いるべき、最強のドラゴン使い。
ガブリアスにでんきわざは効かない。それでもかみなりを撃ってきたのは、彼の狙いがポケモンにはないからだ。
彼が戦闘不能にしたいのは、このわたし。――或いはそれは、最後の警告だったのかもしれない。
仮にも同郷の人間に対し、その身体を害することに何の躊躇も抱かないのだと。
上空でカイリューが旋回し、此方に向けて突っ込んでくるのを目端で捉えながら、女はガブリアスに停止を命じた。その背から飛び降りるや否や、咆哮が耳を劈いた。背に乗せた者の怒りに共鳴しているのだろうか。これほどまで獰猛なカイリューの鳴き声を、女は初めて聞いた。
怒れる竜が二匹、空気を切り裂き此方に迫る。
「カイリュー、かみなり」
――また『かみなり』?
流石に女も訝しむ。既にガブリアスの背に自分はいない。無意味なでんきわざを連発する狙いはどこだ。
「……ガブリアス、どろかけ!」
土が隆起し、生成された泥が奔流となり迫り来るかみなりを迎え撃つ。バヂッ、と耳障りな音と共に泥は雷気を飲み込んだ。
しかしその泥は、果たして竜を襲わなかった。すでにそこに誰の姿もありはしない。
同時に死角から引き攣れるような肌の痛みを感じた。
振り向けば雷の気配を纏いし竜が、猛然とガブリアスに突っ込んでいくのが見えた。
先程のかみなりは囮。本命は――、
「しんそく」
――後方から低い声が聞こえ、同時にカイリューが腕を振り上げた。
それだけだった。
それだけの動作で、ガブリアスは地に蹲った。
およそ人間には視認不能な、この地に存在するわざの中で最も速く重い一撃を食らい、断末魔をあげる暇すら与えられず、戦闘不能に陥った。
エースポケモンが完全なる死を迎えぬ内にボールに戻し、女は次の手を打つべく二匹目のボールに手を掛ける。
そして――それは、全くの防御本能だった。
(……寒、い)
異様な冷気に背を撫でられて女の総身が毛羽立った。
咄嗟に、本来ならばカイリュー目掛けて放るべきボールを『自らの背後に』振り向きざまに投げつける。
纏い付く冷気を振り払うように女は飛び退り、冷気の出処と距離を取る。押し寄せる冷気と己の狭間に現れたるはドラパルト。しんそくの効かないゴーストタイプのドラゴン。
これが単なるポケモン勝負であったなら、それは最善手の筈だった。
だが今は。
「ご苦労なことです。遠路はるばるこの地には無いわざマシンを持ち込み、本来ならば覚えるべくもないポケモンに『あくむ』を習得させるなど」
――宵闇の向こう側から聞こえた、こごえるかぜのような冷たく乾いたその声に、ドラパルトは何よりの悪手だったと、女は悟る。
寒い。――ひどく寒い。
脊髄が凍り付いたかのような、芯からの震えが止まらない。
ぞわり、ぞわりと寒気が、怖気が、己の罪を苛むように、背筋を下る。
空を駆け巡る稲妻とは全く異なるプレッシャー。
ドラゴン使いが本能で忌避すべき脅威が、明確な形を持って、そこにいる。
脅威の名はセグレイブ。ドラゴンポケモンが厭う筈の、極低温の冷気を従える氷の竜。
だがこの寒気の正体は、それだけではない。
「そのドラパルトを殺せば、あの子は……アオイくんは、悪夢から救われるのでしょうか」
セグレイブの向こう、闇の中で炯々とかがやく瞳を認めた瞬間――叫んでいた。
「ド……ドラパルト! ふいうち!」
恐怖を呼び水に生まれた焦りが、女の判断力を曇らせる。
すばやさで勝るドラパルトならば、ふいうちを使うまでもなく先制が可能だった筈だ。頭ではわかりきっていたのに、女は「確実に先手を取る」事に固執してしまった。
(先に動かなければ、)(倒される前に倒さなければ、)(あの暴君が動き出す前になんとしても落とさなければ、)(でなければ待ち受けるのは、『ひんし』などという生易しいものではなく――、)
――夜闇に体を紛れさせたドラパルトのふいうちは、確かにセグレイブを捕えた。だが、
「浅い」
戦いの中で聞こえた、その一言が全てだった。タイプ一致でもない先制技で落ちるほどセグレイブは脆くない。
多少外皮を裂く程度の傷を与えただけ。
そして落とせないのなら、次は向こうの攻撃が来る。
「せめてドラゴンアローなら、まだまともなダメージが入ったでしょうに。あなたもドラゴン使いの端くれであるならば、誰が相手だろうと動揺せず常に全身全霊で戦いなさい。ましてや……」
とん、とん、とこめかみを指で叩きながら、彼は言った。
語気を荒げている訳ではない。それなのに、その声には肺が潰れそうなほどの威圧感が宿っていた。
「――今あなたの目の前にいるのは、『小生』なのですよ」
その言葉は、彼と同郷のドラゴン使いにとっては死刑宣告も同義だった。
「きょけんとつげき」
悠然と掲げられた右腕が、制圧の意志を以て突き出される。
世界が揺れた。そう錯覚する程の金物めいた咆哮が、夜の帳を切り裂いた。
指示を出そうにももう遅く、女はただ、己のポケモンが氷の刃に刻まれ蹂躙されるのを見届けることしか出来なかった。
だが女は、笑った。
「ふ」
はじめは、踏み潰されそうな重圧で押し出されただけの吐息が、たまたま笑みの体をなしていただけかもしれない。
しかし、一撃で圧殺され虫の息になったドラパルトを見据えながら、女は確かに己の意思で笑っていた。
ドラパルトはひんしだ。はやくボールに戻さねば命そのものが消えてしまう。
それを遮るように、セグレイブがドラパルトの前に立ち塞がった。
そう彼が命じたのだ。
「さっさとあの子のあくむを解きなさい。でなければどうなるか、……わかっておりますね」
ドラゴン使いの一族が、手持ちではないとはいえドラゴンポケモンの命を踏み躙ろうとしている。いいや、踏み躙られるのはドラパルトだけでは済まされないかもしれない。
その非情さ。
その苛烈さ、獰猛さ。
己の大事なもののためなら、他はどうなっても構わぬという傲慢さ――。
「ふふ、……ふふふふふっ……」
「何が可笑しい。こごえる息吹に頭がやられて、狂いましたですか」
「とんでもない。わたしは正気ですよ、ハッサクさま。……あなたのお父君は御慧眼にあらせられる。我らが次代の長はやはり、あなた以外にはいなかった!」
内から光を発するように夜闇にかがやく魔性の瞳が、侮蔑を孕んでわずかに曇る。
彼を里へ連れ戻すという使命の崇高さと重責を噛み締め、女はまたしても、笑った。