穴 ザク、ザク、ザク。
定期的に音が聞こえてくる。その音を合図に意識が浮上する感覚。どうやら眠っていたようだ。ザク、ザク、ザク。さして大きくもない音が響いている。その音以外は見当たらない。やたらと静かな空間。
そもそも、俺は眠っていたのだろうか。ぼや、と靄のかかったような思考は寝起きのそれだ。だが、何か違和感がある。でも、その正体が掴めない。まぁ、眠っていたんだろう。
ぱち、と。目を開いても視界は暗いままだった。夜なんだろうか。明かりをつけようとリモコンに手を伸ばすが、手が掴んだのはざら、という感触の何か。
いつも枕元に置いているリモコンがない。いや、そもそも枕がない。あろうことか、布団すらない。
どこかでうたた寝でもしていたのだろうか。思い返そうとするが心当たりはなかった。いや、そもそも眠る前の記憶が曖昧だった。
事務所にいたんだっけ、テレビ局にいたんだっけ、男道ラーメンにいたんだっけ。一緒にいたのはいつもみたいに円城寺さんとアイツだったか。プロデューサーはいたか、いなかったか。そもそも、俺は誰といたんだっけ。
混乱は数分だっただろう。じわ、と闇に慣れた視界には木々がまばらに並ぶ。屋外のようだ。先程のざら、とした感触は砂のような、泥のようなものだったんだろう。手を見れば少しだけ黒く汚れている。
アイツじゃあるまいし、なんで俺は外で眠っていたんだろう。思考を侵食してくるような、規則的な音。ザク、ザク、ザク、ザク、ザク。
音のなる方へ視線をやれば、そこには見知った銀髪が見える。きら、というその輝きに釣られるように空を見上げれば、大きな満月が浮かんでいた。
アイツは何をしているんだろう。気になったが、立ち上がるのは億劫だった。見た限り、どうやら穴を掘っているようだ。なんでアイツは穴なんて掘っているんだろう。そして、なんで俺はその横で寝ていたんだろう。
考えれば考えるほど、状況がわからない。
ザク、と何度も繰り返された音を最後に、アイツが動きを止めた。くるりとアイツがこちらを向く。カラン、と乾いた音がした。
アイツはこちらにやってくる。アイツは何かを知っているんだろうか。
「おい」
声をかける。すると、アイツは呆れたような、拍子抜けしたような声を出した。
「はァ?」
アイツは脱力したように肩の力を抜いて、俺のそばまで距離を詰めて、俺の頬をぺちりと叩いた。
「……何すんだ」
「んだよ。生きてんじゃねぇかよ」
「…………は?」
俺の間の抜けた声には何も返さず、アイツは背を向けて、元いた場所に歩き出す。すると、間を置かずにザク、ドサ、ザク、ドサ、ザク、ドサ、みたいな音が聞こえてくる。上半身だけを起こし、改めてそちらを見る。アイツは穴を埋めていた。
大きな穴だ。俺くらいならすっぽり埋まってしまうだろう広さの穴に、アイツはドサドサと砂をかけていく。
何か、声をかけるべきだったんだろうか。俺は何も言えず、かと言ってそこから離れることもできず、ただそれを見ているだけだった。
何分経ったんだろう。アイツがペチペチと地面を叩いて均している。ぺち、ぺちゃ、みたいな音。地面は砂と泥の中間みたいな柔らかさをしていた。
くるり、振り向いたアイツがさっきみたいにこちらにやってくる。腕を掴まれる。ぼんやりとそれを受け入れていたら、アイツは俺の腕を引き上げて、俺を立たせて、一言。
「帰るぞ」
そう言って腕を離して一人歩き始める。そのあとを慌てて追った。
明らかに塗装されてない道を、アイツは猫のようにすいすいと歩いていく。俺は枝や根や泥に足を取られながらついていく。
息が上がるほどの距離ではなかった。明るいほうへ歩いていったら、コンクリートで覆われた道に抜けた。月明かりに威圧されるように、まばらに並ぶ街灯。期待していなかったが、ちらほらと車も通るのが見える。
ただ、ここがどこなのかがわからない。
「……どーやって帰るんだ」
「バァーカ、チビ。そりゃ、こーやって……」
そう言ってコイツは月を見た。まんまるなそれに、何かを呟くようにもごもごと口を動かしている。アイツの瞳に映った月が、金色と混ざり合ってあやふやになる。ふ、と息を吐きだして、その月に腕を伸ばしたコイツは、急に何かに気がついたようにこちらを見る。
「……無理だな」
「はぁ?」
「テメーがいたら、無理」
そう言ってコイツは諦めたように木に背中を預け、タクシーが来たら拾えと言い放って眠ろうとする。
ふざけんな、と叩き起こして、改めて問いただす。
「オマエはどうやってここまで来たんだよ」
「教えねぇ」
「バカなこと言ってねぇで……」
「どーせチビにはわかんねぇよ」
どうやら、アイツの中では結論が出ているようだ。こうなってしまうとコイツはもう何も喋らない。
何だってんだ。目覚めてから、訳のわからないことしか起きていない。頭痛がする、と言いたいが、そんな繊細な頭は持ち合わせていなかった。
ヒッチハイクじゃダメだろうか。そう考えた矢先にタクシーが見えたので急いで身を乗り出す。
運転手は何も言わず、ただ俺たちをタクシーに乗せた。
行き先を告げても運転手はただ頷いただけだった。平時だったら薄気味悪く感じたかもしれないそのふるまいも、奇妙なことばかりのこの夜においてはいちいち気にすることでもなかった。
タクシーは淀みなく進む。車内はぼんやりと薄暗い。手を見ると少し汚れている。横にいるコイツの手を見てみれば、それは爪まで泥にまみれていた。
「なぁ、帰ったら男道ラーメンに行かないか。そんで、チャンプに飯やって、ジョギングするんだ」
覇王な、といつものように返事をして、コイツは続ける。
「こんな夜中にらーめん屋やってるわけねーだろ」
「それもそうか」
会話はそれで終わりだった。どうにかして日常に戻りたかった俺の願望はあっけなく萎んでいく。
俺だって眠ってしまいたかったけど、眠るのが怖かった。今眠ったら、またあの冷たい地面で目を覚ましそうだったから。目を閉じたらきっと、意識がなくなって、そうしてあの音で目がさめるのだ。ザク、ザク、ザク。
ぐんぐんあがっていくメーターを眺めながら、そんな幻想から逃れるように窓の外を見る。
見慣れぬ街は明かりが少なくて、本当にここが日常と離れた場所なんだと思い知る。少しだけ、昔住んでいた場所を思い出す。
運転手は相変わらず何も言わない。眺める景色が見慣れたものになるまで、俺はぼんやりと空の月を見上げていた。