閉じた家 はいはい、僕しかいませんよー。
葛ノ葉探偵事務所の固定電話が鳴る。事務所で一人待機していた狐は、心の中で軽口を叩きながらデスクの電話を取った。
「お電話ありがとうございます。葛ノ葉探偵事務所、稲荷田です」
大学時代から手伝いをしてきた賜物か、舌の上に乗った言葉が滑らかに出る。
「あの…」
電話の主は小さな女の子だった。探偵業に就いて初めて知ったのだが、未成年からの依頼は珍しいものではない。多くの場合はイジメの証拠集め、友人の人間関係の調査だ。その場合は保護者を依頼人に変更してもらい、引き受ける場合がほとんどだった。
恥ずかしそうな、躊躇うような第一声は緊張のせいだろう。探偵事務所に電話をかけてくる人間は、多くの場合不安で緊張している。この女の子も例に漏れずそうだろうと狐は思った。
「大丈夫ですよ、焦らずにゆっくりどうぞ」
烏がよく使っていた言葉だ。烏は狐にもよくそう言った。早口になりがちな狐は、なるべくゆっくりと一音一音はっきりと口に出した。
「あの、探偵さん…」
少女の声が震えている。泣くのかな、と狐は身構えた。
「すぐに来て!お母さんを…、私達を助けて…!」
狐はすぐに電話の録音ボタンを押した。
乱暴にメモ書きをした住所を地図アプリに表示しながら、狐は日が暮れかけている住宅街を歩いた。
あれからすぐに帰ってきた同僚に留守番を頼み、狐は探偵事務所を出た。
住宅街のせいか、時間帯のせいか帰宅途中の人間が多い。すれ違う人が次々と狐を横目で追う。この銀髪が珍しいのだろうか。せめて染毛剤で染めてくればよかった。しかし、今更染めるのも面倒くさい。
狐は住宅街を見回した。一軒家が立ち並び、そのどれもがまだ新しくセンスが良かった。庭に三輪車があったり、花が植えられていたりと手入れが行き届いている家ばかりだった。
締められたカーテンの隙間から室内の明かりが漏れる。人影が射し、影が踊った。
…家庭というものは密室の1つです。壁に囲まれている事はもちろんですが、他人が安易に足を踏み入れられない聖域です。他人の目に触れない、触れる機会がないという事は、それだけ問題の発覚も自覚も遅れるという事です。
プラトンの洞窟の比喩。大学の心理学の教授の言葉を思い出す。
この住宅街も洞窟が並んでいるようなものかと狐は考えた。家庭の安全を守るために鍵を掛け、扉を閉ざし、壁で囲う。
狐の頭の中にいつもの光景が浮かび上がった。
白いリビング。白いカーテン。音のない時計。もう何も変わらないのに、何度でも思い出せる。
やめよう。狐は頭を振った。
依頼人の事を考えよう。この辺りに依頼人の家があるはずだ。
狐が来た道とは反対の方向から、一人の男性が姿勢良く歩いてきた。年齢は四十代位、白髪の混じる髪を短く揃え、縁無しの眼鏡をかけている。スーツを着込み、しっかりとネクタイを締めた姿は風格があった。
サラリーマンにしては迫力がある。公務員のような人だと狐は思った。
男性と狐は同じ住宅の前で止まった。向かい合うと男性はハッとしたように狐を見る。
「景室さんのお父様ですか?」
男性に聞かれて狐が驚いた。自分が父親に見えた事が驚きだった。
「いえ、僕は景室さんに呼ばれた者です」
「もしかして、むぎさんに?」
景室むぎ。依頼人の名前だ。
狐が頷くと男は名刺を取り出す。藤堂探偵事務所 藤堂和真と書かれている名刺を見て、狐も名刺を取り出した。
「藤堂探偵事務所の藤堂和真です」
「葛ノ葉探偵事務所の稲荷田狐と申します」
名刺の交換が終わると二人は顔を見合わせた。
「どうしましょうか。違う事務所の探偵が同時に入るケースは初めてなので…」
狐が和真に助け舟を求める。自分よりも経験豊富そうな和真の意見を聞きたかった。
「二人でむぎさんにお話を伺いましょう。まずは依頼人の希望に沿う事が第一です」
揺るぎのない声で和真が言う。その重みのある声に、狐の中で何かが揺れた。
この人は本物の探偵だ。
和真に促され狐がインターホンを押す。ピンポーンと軽快な音がした。
二人の探偵の前で鍵が開く音がする。
そして、扉は開かれた。