いつか僕らは屋根より高く　青空を、気持ちが良さそうに鯉のぼりが泳いでいる。布が空気をはらんで、風に翻ると音をたてて、勢い良くその尾が青を往く。
　雲一つない快晴である。遮るもののない青空はさぞ泳ぎやすかろう。平屋の民家、その庭先に鯉のぼりはあった。風にはためくのぼりに、視線は吸い寄せられた。
　行事としては知っているが、こはくにとっては見慣れない風景である。男児が健康に生きながらえていることを隠さねばならなかった家だ。縁遠いものであった。
　ロケバスの中から見えたその光景は、夜になってもどういうわけか頭から消えなかった。スマホの検索画面に「鯉のぼり」と入力して、その由来などを調べてみてもピンと来なかった。
（真鯉、緋鯉、青鯉……揃って家族を表す……）
「すんまへん」
　寮に戻る途中だったタクシーの運転席に声をかける。信号待ちをしていた運転手がミラー越しにこちらに視線を向けた。
「行き先、変更してもらいたいんですけど」

　合鍵を使ってドアを開けると、かすかにシャワーの音が聞こえた。足元には靴が一足、きれいに揃えてある。
　それを見たとき、何故かホッとした。けれどホッとした自分に少し腹が立って、一つ深呼吸をした。
　バスルームにまで聞こえるように「ただいまぁ」と大きな声を出すと、中から上機嫌な「おかえり」が返ってきた。そのままリビングに直行して、適当に荷物を置いてソファーに身を沈める。
　そうして大きくため息をついたとき、こはくは、自分が慰めを求めているのだと気がついた。
　ずるずるとソファーに深く身を預け、下へ下へと滑りながら重いため息をつく。別に、今さら家族にどう愛されたかっただとか、望まれた子どもがどうだとか、そんなことは気にしていないけれど。
　気にしていないけれど、これはきっと心の裏側に染み付いた汚れのようなものだ。いつもは見ないところだから気が付かないのに、ふと目に入ると気になって仕方がなくなるし、ずっとずっと消えてくれないようなもの。洗い落としたはずなのに、水に濡れたらまた色濃く浮き上がってきて、二度と元には戻らないような、そんなようなものだ。
　ずり落ちすぎて、床に尻がついた。仕方がないのでのそのそとまたソファーに這い上がった。今度は背もたれに思いきり首を押し付けて、ぐりんとそり返って背後の景色を見た。
　衣装箪笥の上には、Double FaceのCDやグッズが申し訳程度に並んでいる。どちらが先に並べ始めたかは忘れた。なんとなく解散してからもそのままになっていて、その場所を見るたびにあの時間は夢ではなかったのだと実感できる──そこに、一つ小さなオブジェクトが増えていた。
「おかえり、こはくさん！　今夜はこっちに帰ってくる予定だったかあ？　まあ俺は嬉しいが……ん？」
　首にかけたタオルで髪を拭きつつ、洗面所から出てきた斑がこはくの視線の先に目を向ける。そして、少し息をつまらせたあとで、明るく言った。
「あの子の、健やかな成長を願って」
　小さな置物である。風などない室内で、白い壁紙の背景を、しかし心地よさそうに泳いでいる三匹の鯉だ。
「ほっか」
　変な体勢だから、変な声しか出てこない。そういうことにしておこうと思った。
「そやなぁ。コッコッコ♪　三匹揃って、間抜けな顔して泳いどるわ」
「なはは、そうだなあ。似たような顔をしているだろう」
　もう上手く言葉が出てこなくて頷くことしかできないこはくの隣に、斑が静かに腰を下ろした。喉の奥に飲み下せない何かがこみ上げてきて、鼻がツンとして、こめかみがじんわりと熱を持つ。膝に置かれた斑の手があたたかかったから、こはくはそれを我慢しなくても良いことに気がついた。
　これから何色にも染められる白い空を、力強く泳いでいく青い鯉の尾が、ひらりと軽やかにひるがえった気がした。