鬼がくるいつもと同じ能天気な音でチャイムが鳴って、本日の授業はおしまいになってしまった。いつものようにお支度をして、お帰りの会をして、ご挨拶をして、帰らなくてはならない。帰りたくないのに。いつもと違って、家になんか全然、これっぽっちも帰りたくなかった。
二月三日だ。国語のノートにも、算数のノートにも、連絡帳にも2/3と書いた。給食には小袋入りの炒り豆がついてきた。生活科では行事と節句について習った。今日が二月三日であることは、どう足掻いても変えられない決定事項であるらしかった。
古い家柄のせいもあってか、武市家は年中行事を疎かにしない家である。姉の八段飾りは雛祭りが終われば速やかに片付けられるし、端午の節句が近づけば五月人形だけでなく本物の鎧兜まで蔵から出てきて飾られる。当然、節分ともなれば、一家総出でまくのだ、豆を。今朝、升に入った福豆が神棚にお供えされていたのも確認済みだ(どこからか美味しいお菓子をいただくとまず神棚にお供えされるので、半平太にはしょっちゅう神棚を確認する習慣があった)。
豆をまくこと自体は、別に嫌ではない。去年まで通っていた幼稚園での豆まき会は楽しい思い出として記憶に残っている。気が進まないのは、家での豆まきだ。半平太はもう七つになる。もう知っているのだ。毎年節分の日に武市家を襲撃する、幼稚園の鬼より二回りは大きくて屈強な、どこからどう見ても本物にしか見えないあの鬼は――自分の可愛い飼い犬、田中新兵衛が化けた姿であるということを。
「お勉強、お疲れ様でした」
わざとのろのろ校舎を出たのに、新兵衛はいつも通り門のところで主人のことを待っていて、いつも通りビーチボールか何かみたいに軽々と、主人にとっては重たいランドセルを受け取った。マスクごしにもニコッとしたのがわかる。級友たちにはわからないようで、皆怖がって近づこうとしない――こんなにわかりやすいのに。本物の犬みたいに尻尾があったなら、きっとぶんぶん振っているはずなのに。
新兵衛は、半平太の世話係で、ボディガードで、犬だ。物心ついた頃から家にいた。もともとは世話係とボディガードだけだったのだが、最近は犬も兼ねている。犬を飼いたいと父にねだった際『田中君がいるだろう』と却下され、その日から犬になってもらった。もちろん半平太が心の中でそう思うことにしただけで、実際には普通の、いや普通よりちょっと大きな人間である。でも半平太のことを主人だと思っていて、呼んだら走ってくるし、何でも言うことを聞くし、投げたおやつを口でキャッチできるし、一緒に寝てくれる。犬としての機能を申し分なく備えており、特に不都合はなかった。
「……? どうかなさいましたか?」
こんな可愛い犬に対して、行事とはいえ硬い豆を投げてぶつけるなんて、嫌だった。動物虐待という言葉を半平太はまだ知らなかったが、知っていればそう言っただろう。父も母も、自分の犬でないから平気でそんなことができるのだ。いくら家で一番体がたくましく、強そうだからといって、新兵衛にばかり鬼の役をさせて――――。
「……鬼やらいの、豆まき会……」
「ああ……その、私は今年も所用があって出席できないのですが……坊ちゃまも随分と大きくなりましたし、今年はきっと大丈夫です! 鬼など恐るるに足りません!」
「去年の様子なんて知らないだろう、田中君はいなかったんだから」
「! お、お写真を、後で拝見しましたので……」
そう、一年前の半平太はまだ鬼の正体に気づいていなかった。毎年あんまりにも恐ろしげな赤鬼が玄関ホールに現れるのに、その日その時間に限ってなぜか頼りのボディガードがいなくて、豆まき会はただただ恐怖を味わう行事だった。鬼はずかずかこっちに向かってくるし、父も母も守ってくれるどころか半平太を前面に押し出そうとするし、新兵衛はいくら呼んでも来てくれないしで、じっくり観察する余裕なんてなかった。つい先日、隠れんぼの最中に新兵衛の部屋から虎柄の大きなパンツを見つけてさえいなければ、今年もまた大泣きの写真を撮られていたかもしれない。
「……とにかく、勇気を出して豆を投げてみたらよろしいのです。そうだ、近頃はお菓子を放るのもお上手になりましたし、ちゃんと当たりますよ。当たってしまえば鬼はそれ以上寄ってきませんから」
聡くて優しい犬は、何とか主人を元気づけようとしているらしかった。恐怖でぴいぴい泣きじゃくってろくに豆も掴めず、ただそこにいない新兵衛の名を呼ぶばかりの主人のことを彼は毎年真正面から見てきたわけだから、心配してくれているのだろう。……待てよ、あの言い方、もしかしていつも真っ先に半平太を狙って突っ込んでくるようだったのは、豆を当てやすいように近寄ってくれていたのか。鬼の完成度が高すぎて恐怖以外の何物でもなかったが、彼なりの気遣いだったのかもしれない。
そう気づいたとたん、自分が豆まきをやりたくないとぐずっていることが、何とも幼稚で恥ずかしいことのように思われてきた。新兵衛はただ、主人にこの行事を楽しんでほしいのだ。豆を投げて、鬼を退治して、成長した姿を皆に見せて、笑顔でイベントを終えてほしいのだ。主人としては当然、その気持ちに応えるべきだ。立派な犬に恥じない、堂々たる男にならなくては。
「……わかった」
覚悟を決めてそう言うと、新兵衛はほっとしたように頬を緩めた。
豆まきをがんばるために、車を降りたときに一回、彼が『所用』に出かけてしまう前にもう一回、腹にぎゅっと抱きついて、顔を押し付けて深呼吸をした。そうすると気持ちが落ち着くのだ。大きな手が背中をぽんぽんしてくれて、半平太が自分から離れるまで何も言わずに待っていてくれる。犬を飼っている友達も、こういうことをしているんだろうか――でも本物の犬はきっと、背中をぽんぽんはしてくれないだろう。
新兵衛の腹からは、いつもと同じ新兵衛のにおいがした。
豆まきが終わるまで、しばしの別れだ。
◆
鬼はゆっくり、準備体操をするみたいに首を横に倒して、反対に倒して、それからぎろりと周囲を見回した。顔は古い朱塗りの鬼面で覆われていて、視線は拾えない。大きな口にぎざぎざの牙を剥き出して食いしばった、怖い面だ。元はといえばこの面が怖すぎたせいで、小さかった半平太は鬼をまともに見ることもできなくなったのだ。
あれは自分の可愛い犬なのだとわかっていても、新兵衛の鬼にはやはり大変な迫力があった。小さなころからの刷り込みもあるのだろうか。玄関ホールに現れた赤鬼はさっき別れた新兵衛よりずっと大きく見えたし、禍々しい空気を放っているようにさえ感じられた。本能的に、近寄りたくない、この場を離れたいと思ってしまう。もしかしたら新兵衛には、すごい役者の才能があるのかもしれない。
一歩。もう一歩。鬼が近づいてくる。去年までの自分だったら、とっくに逃げ出しているだろう。でも今年は逃げないと決めた。もう約束した。絶対に後ろには下がらない。心臓がどくどく暴れている。震える指が、升いっぱいの福豆を掴み損ねて、何粒かが床に転がった。構わずざらりと掴む。息を吸い込む。胸があまり広がらなくて、少ししか吸い込めなかったけれど。
「おにはそとおおぉぉ――――!!!!!!!」
ありったけの声を全部出して、豆を投げつけた。目を瞑ってしまって、ちゃんと当たったのか、豆がどうなったのかは見えなかった。でも、声が聞こえた。
「ぐっ……!」
急いで目を開けると、なんとあの大きな大きな鬼が、のけぞって膝をつきそうになっているではないか。豆が当たったのか。自分がやったのか――――しかし、喜ぶのはまだ早かった。
「……なんの、まだまだぁっ‼」
床が抜けるのではないかと思うほどのものすごい音を立てて足を踏み込み、鬼はぐわりと体を立て直した。さすがに強い。一発では足りなかったらしい。でも大丈夫だ、豆はまだある。半平太はいつのまにか、怖いのを忘れていた。将棋を指すときみたいに集中して、勝負のことしか頭になくなっていた。升の豆を思いきり掴み取る。今度は目を瞑らないで、まっすぐ、鬼に向かって投げつけた。
「ふくはうちぃぃ――――!!!」
「がふッ……」
鬼は胸を押さえて、その場にたたらを踏んだ。それを見た瞬間、えもいわれぬ興奮が半平太の背を駆け抜けた。雷に打たれたみたいだった。あんなに大きくて強い鬼が――新兵衛が――自分の攻撃によって、ダメージを受けている。これは本来いけないことのはずだ、犬の十戒にだって犬を叩いたりいじめたりしてはいけないって書いてある。犬は鋭い牙を持っているけどあなたのことを噛んだりしない、だから叩いちゃだめって。半平太だってそう思っていた。だから豆まきなんかしたくない、はずだった。なのに、なのにどうして――――
「おにはぁそとおぉ――――!!!!!」
「ぐはぁ……‼」
すっごく、いい。たまらない。だめなのに、かわいそうなのに、そういうお利口な理屈では説明できない、何かがあるのだ。
夢中で豆を投げた。投げて投げて、升が空っぽになったころ、鬼はよろよろと逃げだした。豆をしこたま食らったせいか足元がおぼつかず、ふらふらして柱にぶつかったりしていて、それもすごく、よかった。半平太は肩で息をしながらそれを見送った。頑張ったなあ、えらかったわねえと褒められているのもほとんど聞こえないまま、ただぽうっとなって鬼の消えた夜闇を眺め続けていた。
◆
ほどなくして『所用』から帰ってきた新兵衛は、家じゅうで半平太の勇姿を聞かされ、そのたびに嬉しそうに眉尻を下げた。半平太が豆まきをがんばったことなんて、豆を投げられた新兵衛が一番よく知っているはずなのに、何度聞かされてもにこにこしていた。半平太は少し恥ずかしかった。
「今日は本当にお疲れ様でした」
灯りを消した部屋の中、ベッドの脇のナイトランプをつけながら新兵衛が言った。ふわふわの布団を顎まで掛けられる。とん、とん、と心臓と同じ速さで、布団の上から優しいリズムが降ってくる。半平太が眠りに落ちるまで、新兵衛は毎晩こうしてくれる。
とん、とん、拍を取る分厚い手のひらを眺めていると、すぐに眠たくなってくる。体がリズムを覚えてしまっているのだ。頭がとろけて、夢を見る準備をし始める。瞼が重くなる。目を開けていられなくなる。まだ起きていたいのに。新兵衛と一緒にいたいのに。とんとんされると眠くなっちゃう。
とろけた頭が、夕方の豆まき会のことをぼんやり思い出す。豆をぶつけられて呻く新兵衛。胸を押さえて苦しむ新兵衛。自分がやったのだ。自分がこれにひどいことをしたのだ。こんなに可愛い、優しい、半平太のことを大好きな犬に。自分が――この手、とんとんするこの手を捕まえて噛みついたら、新兵衛はどんな顔するだろう――そんなこと、絶対にしないんだけど。
その夜、半平太は夢を見た。
翌朝、半平太は生まれて初めて、新兵衛に夢の話をしなかった。