輪廻の変数この忌々しい輪廻に“気付く”者が、いずれ現れると思っていた。
だがそれがなぜあの男でなくてはならなかったのか。
それは今でも解せない。
「それで、君は一体何が言いたいのかな」
銀糸の髪の男が平淡に問うと、黒髪を遊ばせた男の口角が上がった。
黒髪の男の名はイスカ・イシュタール。
昏い緑の眸は垂れ目がちで、どこか色香のある端正な貌立ち。左頬には火傷のような傷痕がとぐろを巻いていた。
最初は「古代魔術の使い方を教えてほしい」と屈託なく笑ったその男の眸に、いつの間にか捕食者の影が滲むのを、銀糸の髪の男──スキア・アルコニアは見逃さなかった。
スキアは透き通る銀髪の美しい顔立ちの男だったが、それには常に真意を隠す微笑みが湛えられていた。所属寮の蛇の刺繍が施されたやけに派手で威圧感のあるコートを纏い、まるで立ち入る余地を見せないスキアに対し、イスカは何の躊躇もなく歩み寄り、顔を寄せ微笑んだ。
「スキア君、君はこの世界を何度も繰り返してる。違う?」
イスカの放ったそれは、明らかな確信を含んだ声だった。
スキアはそれに微動だにせず、黙って自分よりやや背の低い彼を見下ろしている。
何か気取られるような事をしたかと瞬時に記憶を巡らせたが、特に思い当たる節は無かった。ならばただの動物的勘か、もしくは同じ力を持つ者同士の“共鳴”のようなものか。
この相手から感じる言いようのない確信は、恐らく後者によるものだろう。
元よりこの世界線は異例のものだった。
幾度目かのタイムループの中でも、同じ古代魔術師が同時期に現れるような事態はまだ一度も“経験がない”。
同じ力を持つ者がどこかに必ず存在すると本能的に感じてはいたが、ホグワーツへの入学のタイミングが同じであったり、これほど身近に表れたのは初めてなのだ。
同等の術者ということで警戒はしていたものの、まさかここまで直球にループについて言及されるとは思っていなかった。元より気付かれるはずが無いのだから。それに恐らくどんな建前も虚言も、この男にとっては意味がない。明け透けに核心を突いてくるこの男の目的がタイムループの真相などではないのは明らかだったからだ。
僅かに灰銀の眉が顰められると、それを肯定と取ったのかイスカは楽しげにふふっ、と笑みを零した。
「ああ、やっぱり。それなら話が早いなあ」
イスカの黒い革手袋に覆われた手が首筋に伸ばされる。敵意が微塵も感じられないそれを、スキアは視線を逸らさず黙って受け入れる。
誰にも知られるべきでない事実を握られたことは問題ではない。
ただ、この男の真意は知っておかねばならないと思った。
黒髪の男はまるで彼がそうすることが分かっていたかのように、ゆっくりと、それでも躊躇なく首筋に引かれた古傷を人差し指でなぞった。つ、と触れられただけの筈が、まるで神経そのものに触れられているような感覚に思わず反射的にバシ、と手を跳ね除ける。
男がハハッ、と歓喜の息を漏らす。
「君のソレ、やっぱり感じるんだ…?」
黒髪の男はうっとりと目を細め、叩かれた手を摩りながら興奮した様子で笑った。
まるで触れた指先から何かを流し込まれたかのように、首の古傷がじわじわと熱を帯びる。不快極まりないそれに、スキアは悟られない程度に眉を寄せた。
「ねえスキア君、抱かせてよ。何も分からなくなるくらい、気持ちよくしてあげる」
大抵の人間が恥じらいや雰囲気を含んで言うそれを、イスカはまるで遊びにいこうとでも言うように言ってのける。細められた眸からは隠す気もないであろう欲情が漏れ出ている。
なるほど、色狂いの類か。それも重度の。
セックスは人心掌握の上で手っ取り早い手段だが、いずれにせよこの男と寝る気など更々ない。メリットがない上、逆ならまだしも自分が抱かれるなど論外だ。男に組み敷かれた経験がないわけじゃないが、どれも抹消したい記憶だった。
「済まないが、お断りするよ。…それじゃあまた、学校で」
スキアは素っ気なく返事をし、踵を返した。
利用価値は十分にあるが、面倒なことになるならばいっそ今ここで口を封じてしまう方が手っ取り早い。だが、ここまで目立つ人物を安易には殺せない。それにただの色狂いならばのらりくらりと躱せばよいだけだ。
「この世界はダメなんだ」
ぴたりと足が止まる。まるで呟くように言い落されたが、はっきりと聴こえた。
先ほどとはまるで違う、この世のものではないような声色だった。
「…何?」
表情の見えない黒髪の男は、先刻よりあからさまに低い声色で問うスキアに再び歩み寄ると、銀糸のかかる右目の縦傷をなぞるように指を添える。跳ねる黒髪が妖しく揺れて、昏い緑の眸に影が落ちる。
「…ね、ずっと僕と気持ちいいことだけしようよ」
淫靡な囁きの後、一瞬、黒髪の男の姿がぐにゃりと歪んで見えた。
次の瞬間、まるで噛みつかれるように唇を食まれる。
時がゆっくりとコマ送りになるような感覚と裏腹に、スキアの手は咄嗟に杖を握っていた。
この男は、殺しておかねばならない。本能がそう告げていた。
「アバダケダブラ」
低く冷たい詠唱と共に一瞬の躊躇もなく緑の閃光が奔った。
電流の如く猛スピードで信号を送る生存本能に突き動かされ、イスカは脚の力を逃がしそれをバネに瞬時に後ろに飛び退いた。「ヂッ」と容赦の無い音のする方を見遣ると、髪の端がにわかに焦げている。
先刻までのやり取りなど無かったかのように何食わぬ表情でイスカを見据える翡翠の双眸には、先ほどの死の呪文同様、何の躊躇もない。
唐突に訪れた死の匂いにイスカの身体中の細胞がふつふつと沸騰し、脳が冷水を浴びたように冴えわたる。一気に全神経が叩き起こされ、左頬の傷が熱を帯びズキズキと痛み始める。心臓が「早く彼をどうにかしてしまえ」とせっつくように血を巡らせる。
「あ………あは、……あははは!!やっぱり君って最高!」
頬を切り裂くようにして露になった狂暴な犬歯は、まさに獣のそれを彷彿とさせる。恍惚とした表情でゆらりと佇む男に、スキアはチリ、と肌に違和感を感じた。感じたことのない“圧”だ。
…やはりこの男は此処で消すに限る。
殺した言い訳など、どうとでもなる。
獲物を喰い損ねたとでも言わんばかりにバチ、と閃光を散らす黒杖で空気を裂き、短く詠唱する。
「ボンバーダ、アバダケダブラ」
爆発呪文が天井をめがけて飛び、衝撃で天井が瓦解し容赦なくイスカに降り注ぐ。それとほぼ時を同じくして再び凄まじい速さで緑色の光が空を裂き、バチバチとけたたましく嘶く。
確固たる意志を持った死の呪いの着弾を感じる。
確信的な手応えだった。
場を満たす静寂に、聴覚を研ぎ澄ませる。
瓦礫や、その下にいるであろう男が動く気配はない。
得体の知れない狂気を纏った男だったが、人間の最期などどれも呆気ないものだ。
「“次”は君と出会わない事を祈るよ」
なるべく無用な殺生はしないというのが恩師であるフィグ教授の教えだったが、今回ばかりは仕方ないと息を零し、血振りをする様に杖を軽く振る。
しかしあの肌に感じた刹那の違和感は一体──
「ケホッ」
ガラ、と音がしたかと思うと、確実に殺したはずの黒髪の男が砂埃に軽く咳き込みながら立ち上がり、ボロボロになった衣服をそのままにニタニタと笑みを浮かべていた。
「君ってそんな顔もするんだ?ますますそそられるなあ」
男はハァ、と感嘆めいた吐息を漏らし、歪んだ左頬の傷を撫でている。
死の呪文は確かに命中した。
だが男は確かに生きており、その周囲にはふわふわと意思を持った水銀の残滓のようなそれが漂っている。
古代魔法。それもにわかに紅みを帯びたそれは、感じたことがない程の圧をもって渦巻いていた。
先刻の違和感の正体はこれだったのだ。
先ほどまでとは比べ物にならない危険な匂いに、本能が警鐘が鳴らす。当たり前だ。強大で未知、そして不可抗力の権化であるそれは、自分が持つそれと同等──もしくはそれ以上の力なのだから。
瓦礫による裂傷にすら欲情したように恍惚とした表情で歩み寄ってくる男の姿に、久しく忘れていた感覚を思い出す。出会った当初、恩師に「戦いは恐れるべきものだ」と諭された記憶。
ああ、そうか。
何度も繰り返したループの中で思い知らされる。世界には、決められた数値があるのだ。抗いようのない理が。
「この世界は失敗作なんだ。 だから、僕が君をたくさん気持ちよくして、忘れさせてあげる」
まるで蛇のようにねっとりと舐るような柔い声が、鼓膜に這う。
ただ事実とともに吹き込まれる甘言に、スキアは瞼を伏せた。
“今のスキア・アルコニア”という存在では、この男を斃すには、この輪廻を脱するには足りないと、この男を通して世界が私に宣言している。捕食者は獲物に牙が通るからこそ捕食者足りえる。だが、この男には通用しない。つまり──。
久方ぶりに覚える感覚に、拳を握る。
「…お前は一体何者だ、イスカ・イシュタール」
イスカの緑色の眸が細められると、同時に左頬に渦巻く傷が笑みに歪んだ。
人の形をしていないように見える男が舌なめずりをし、するりとスキアの右手を捕らえる。
黒杖が指から離れ、カラン、と啼いた。
「僕は別に何者でもないよ」
イスカはふわりと銀糸の男を抱きしめると、その首筋の古傷に舌を這わせ、犬歯を突き立てた。
「スキア君。ただ僕は君に、興味があるだけ」
fin.
─────