▽
遠い記憶とともに仕舞い込んでいたノートのページを捲った。
料理の基本は食材の入手から始まる。事前に市場で注文しておいた紙袋を家の前で受け取ったのはつい先程のことだ。普段は個人宅へ配達なんてしていないだろうに、こうして商品を纏めて届けてくれた。
己には似付かわしくない家の名を、たまに利用するくらい罰は当たらないだろう。
国が安定した今、適切な形で食料が行き渡るようになった。こうして、いとも簡単に鮮度のいい食材を手に入れることができるようになったのは喜ばしい。国の復興から発展へと、目まぐるしく変化するトラン共和国を胃袋で感じるというのは何とも不思議な感覚だった。
(道具、食材、全て揃えてから始めるんです)
食材の確認が済んだら、調理器具を取り出す。取り出すと言うほど工程の多い料理でもない。寸胴鍋、包丁、まな板、お玉杓子、杓文字。あとボウル。
エプロンを身につけ台所に立つその姿は幼心に興味を引くもので、やりたいと強請っては周囲を困らせていたものだった。玉葱の皮剥き。馬鈴薯の泥落とし。人参の皮剥き。なるべく危険の伴わない作業から始め、徐々に新しいことを教えてもらった。
実を言うと、調理自体が好きだったわけではない。手伝うと大袈裟なほどに喜んでくれるから、つい繰り返してしまっていた。とうの昔にばれていただろうけれど。
決して上手とは言えない包丁捌きも、ここ数年の根無し草の旅路でそれなりに鍛えられた。よく使う野菜や肉なら、ほらこのように。手慣れたものだろう。
(しっかりと肉に焼き目をつけてくださいね。あまりお肉には触らないようにして──)
オイルを引いた鍋で肉を焼く。並行して野菜を炒めていく。香りを立たせ、甘みを出す野菜から順に入れていくと、キッチンは途端に熱が篭もっていく。
(基本ですがここが重要です。焦がしては台無しですからね)
汗の滲む額を、手の甲で拭う。熱気に負けじと杓文字を動かす。肉の焼き目を確認し、引っ繰り返す。また野菜をかき混ぜる。
料理によって行程は違えど、毎日これを繰り返す。考えるだけで今も頭が上がらない。
焼いた肉を鍋に移し、赤ワインを注ぎ込もうとして、思わず手が止まった。
グラスランド産の赤ワイン。トランでは随分と希少な品だ。確かに注文書には赤ワインとしか書かなかった。まさか料理に使うなどとは思わなかっただろう。
それを遠慮なくなみなみと注ぎ入れ、香草を散らす。灰汁を取りながら煮込んでいく。
食材が立てる心地良い音に耳を傾けながら、僅かに残っていたワインの瓶に直接口をつけた。鼻に抜ける香りと口内に広がる渋み。行儀が悪いと怒る人は、もう誰もいない。
親友と駆け回り、父や従者達と語り合い、保護者の手伝いをして過ごしていたあのときは手狭とすら思えていたこの屋敷が、今はこれほどまでに広い。世界から切り離されたかのように静まり返る屋敷は、酷く居心地が悪かった。
ぐつぐつと、鍋が鳴っている。もう一度、ワインを呷った。
(ここはとにかく弱火で、根気よく混ぜて……)
熱したバターに小麦粉を加え、焦がさないようよく混ぜる。煮汁でそれを伸ばしてから、鍋に投入する。かき混ぜていくと、充満する香りとともに思い出が蘇ってくる。見た目や香りで判断してはいけない。スプーンで一口味見した。
「……なんだ、やればできるじゃないか」
思わず脱力し床に座り込んだところで、聞き覚えのある声がした。
「そんなところに座ってどうしたんですか、坊ちゃん」
振り返ると、頼んでいた焼きたてのパンを持ったクレオが苦笑していた。
「突然お邪魔してしまいすみません。初対面なのに……夕食までご馳走になって」
「気にしないで。君たちが来たってシーナから聞いてたし、ジョウイにも会いたかったしね。それにこれは、僕が振る舞いたかっただけだから」
「すっごく美味しいです!」
「ね、ね、美味しいよね!ティアくんの手料理食べられるなんて思わなかったな~!」
「マクドールさん、ジョウイの皿にはちゃんとにんじん入れてなくって驚きました!」
「ど、どうりで入っていないと思ったんだ……」
「君がにんじん苦手だって、同盟軍の中では有名だったからね」
「……別に、食べようと思えば食べられる」
日が落ちる直前に駆け込むようにやってきた来客は、数時間かけてなんとか作り終えたシチューを本当に美味しそうに食べてくれた。
同盟軍に関わっていた頃よりも身長が伸びていたリアンにちょっとだけ寂しい気持ちを抱きながらも、ナナミやジョウイとの掛け合いを見ているとどうしても頬が緩んでしまう。あの戦いの後、彼らが袂を分かったままにならなくて良かった。偶然にも出会い、トントン拍子に戦争に介入してしまったことを思い倦ねていたが、三人の顔を見るだけで後悔の念が消えてゆく。
「こんなに上手なら、ティアくんから一つくらい料理を教えてもらえば良かったなぁ」
「残念だけど、僕は料理の腕はからきし無いよ」
「ええっ、うそ!だって、こんなに美味しいのに!」
「これはグレ……知り合いのレシピを使わせてもらったんだ。僕伝いで良ければ教えるよ。ただ、一つだけ忘れてはいけないことがあって──」
(坊ちゃん。これが一番大切なことなんですけどね──)
照れた顔を隠さずに胸を張った、グレミオの声が鮮明に蘇る。
「──このシチューの味の決め手は、大好きな誰かと、一緒に食べることなんだ」
口にした言葉がどうにもむず痒くて、つい笑みが漏れた。