Nムルヒス『口内』 ある日の人気のない殺風景な廊下。
そこに、一人だけでポツンと立ち尽くしているヒースクリフをムルソーが見つけた。
天井からぶら下がった小さな電球がチカ、チカ、と点滅しているせいで彼の表情はよく見えなかったが、片頬がひどく腫れているのを深緑色の瞳が捉える。
ヒースクリフの話を聞くに、今日の読経がまともにできていなかった罰だと殴られたそう。
運悪く、同じ箇所を続けて何度も殴られたことで内出血を起こした頬は赤紫色に腫れていた。それだけでは留まらず、腫れた頬が下瞼を持ち上げてるせいで片目もまともに開けれないのが余計に痛々しい雰囲気を漂わせている。
部屋の角に溜まった埃を釘でつつくが如く、効率良く浄化出来ていなかった、先輩に対する態度がなっていない、とあれこれと難癖をつけては"教育"と称した暴力を振ってこなかった日はほぼ記憶にないぐらい、ヒースクリフは惨めな日々を今でも送らされていた。
そんな彼へ密かに同情心を向けていたムルソーはマスクに似た機械の下で小さくため息をつく。
不意に聞こえた呼吸音にヒースクリフはヒッ…と身を縮こませた。
光を失った紫色の瞳が左右に揺れる。
「ひっ…あ、あの…わたくし、大槌様の邪魔を……」
「…いや、大丈夫だ」
怯えに近い表情で震える肩に手を置いて静かに宥めるムルソーの深緑色の瞳はヒースクリフの大きく腫れた頬を捉えたままだった。
肩へ置いていた手を相手の顎へ移しては、乾いてヒビだらけな下唇を親指で押さえる。
続いて、ムルソーは口を開けるよう指示をした。
前触れもなく触れられたのに加え、指示の意図が汲み取れなかったヒースクリフは当然戸惑う。
他の中槌や大槌が相手だったら、続けて暴力を振るわれるのを覚悟の上で抵抗したかもしれない。
ただ、目の前にいる男は言うことを聞くまで何度も拳や罵声を浴びせるようなことを決してしてこないのを薄々察しているからこそ、素直に従っていいかどうか迷った。
「口を開けなさい」
「は、はいっ…!」
様子を伺うのに夢中で動けないヒースクリフにムルソーは先程より強めの口調で促す。
ビクッと大きく肩を震わせ、上目遣いでこちらの様子を伺いながら口を開ける姿は中槌大槌が自ら教育したがるのも納得な弱々しさを身にまとっていた。つまり嗜虐欲を煽る姿ともいう。
(いつ壊れてもおかしくない程、徹底的に痛めつけようといった発想には…正直同意しかねるが)
嫌というほど見慣れてしまった赤黒い汚れが白い歯にこびり付いているのに気づいたムルソーの眉間に寄せられた皺が更に深まる。
その直後、顎に触れていない方の手のうち、人差し指と中指を相手の口の中へ突っ込んだ。
「はっ…!は、はへ…ふび…ほ…」
突然の行動に何かを言いたげに舌が上下に揺れる。
しかし、指で舌を押さえつけられているせいで上手く発音ができていない。それでも「何故、指を突っ込んできたのですか」と訴えていることは困惑で揺れる目を見ただけで十分に伝わった。
「…確認したいことがある」
手袋越しに伝わる舌の熱さを指の腹で感じつつ、ムルソーは遠慮なく手を進めると同時にえずく声がヒースクリフの喉から漏れる。
彼がえずくたびに喉仏の位置が上下に動く。そして指で押さえつけられている舌が波打つ様子は、偽りの肉体で生きる異端にはない"生命”を感じた。
「う゛っ…お、ぇっ……」
舌を濡らす唾液の量が増えていき、ムルソーの指を濡らす。
成人した人間の歯は、親知らずを除いで28本ぐらいあると言われている。
端から順に目視で歯の本数を数え、指で1本ずつ丁寧に歯の形をなぞる作業にムルソーはひたすら集中する。
その間もヒースクリフは律儀に口を開け続けていた。
否、許可なく口を閉じてはいけないと本能で理解しているがゆえ、大人しくするしかないのが正しいだろう。
指で舌の付け根を押される度にえずきそうになるのを必死に耐えるヒースクリフをよそに、どこか真剣な目つきでムルソーは中を覗き続ける。
「…どこも欠けてるらしき部分はないな」
痛々しい見た目に反し、歯が欠けてしまう程には至らなかったようだ。
白い粥に似た中身の詰まった経験缶しか食わせてもらえない彼がいつ固形食にありつけるかはわからないが、後で食事に困るような怪我を負っていなければ十分である。
ムルソーの太い指がヒースクリフの赤い舌をなぞりながら、ゆっくりと離れていく。
その時、指を濡らしていた彼の唾液が銀色の糸みたいに細く伸びては呆気なく切れたのに何となく寂しい気持ちを覚えた。
「…その腫れ物には無闇に触らないように」
テカテカとした独特の光沢感を放つ人差し指と親指を擦り合わせてムルソーは呟く。
「あ…は、はい…」
嘔吐寸前の不快さに無意識で顔を歪めたまま、ヒースクリフは掠れた声で返事する。
(他の大槌様と違って立場に物を言わせるようなことはしてこないって分かってはいるんだけどな…)
どうしてここまで俺を気にかけてくるのか。
初めて出会った時からずっと抱えている疑問を脳内で反芻し、ヒースクリフは顎に伝う唾液を手の甲で拭った。