怖いさんがお隣に引っ越してきた!③それではまた、とすっかりいつもの調子を取り戻した零くんの笑顔に別れを告げて扉を閉める。視界の隅から完全に天使が飛び去るのを見届けて漸く息を吐き出すと鉄の扉に額をつけた。ひやりとした無機質な温度が身体中の火照りを冷まそうとしているようで心地良い。
この時間を狙ったことは正解だった。喫茶店のバイトも公安の仕事も無い今日、彼のルーティンがいつもと異なる事も考えられた。だが、生真面目なあの子が寝過ごすとはまず思えない。徹夜が続いた翌日は泥のように眠り昼過ぎまで起きないこともあるが、ここ数週間の彼の生活リズムは安定している。
毎朝、夜明けと共に起床し人通りが生まれる前の時間を狙ってごみを出しに行く。いつもならそのあと1時間のジョギングに出るはずなのだが、今日は少し予定を変更したようだ。先程の会話でほどよく彼の猜疑心を十分に煽ることもできたから、おそらく彼の方からも次の行動に移ってくるはずだ。
ドアの前で息を潜めていると隣の部屋の扉が開けられる。まるで周囲に自分の外出を気取られまいとでもするかのように厳かに静かに閉められる扉に、張り詰めた空気の中を音を殺して歩く気配。
──やはりな。わかっていたよ零くん……いや、今は安室くんか。
君が今考えていることは俺が思い描いているものと同じはずだ。
安室君の思考なら手に取るようにわかっているつもりだが答え合わせは必要だ。
片時もよそ見は出来ないと彼の一挙手一投足を探るため神経を研ぎ澄ませる。
扉越しでも伝わるその緊張感に思わず身震いした。
完全に彼が階段を降りてしまったタイミングで、窓わきへと移動した。ここからなら彼が向かう先がある程度までは見渡せる。
カーテンの影に隠れながら眺めていると、先程向かったばかりのゴミ捨て場に手ぶらの安室くんが真っ直ぐ向かっていく。見られる事を意識してなのか時折こちらを振り返る仕草が微笑ましい。周囲に人間がいないことを入念に確かめた彼がその場に屈み込むと道路沿いのブロック塀に阻まれて安室くんの姿は見えなくなってしまった。タイミング的にもそろそろいいだろう。
俺は部屋を出ると、安室くんの待つ場所へと向かった。
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先ほど案内を受けたば所へたどり着いたときちょうど安室くんも仕事を終えた後のようで、右の小指と薬指で器用に物色した戦利品を握りしめながら開封したごみ袋の口を結びなおしているところだった。
「やあ安室くん。また会ったな」
後ろから声をかけられた彼は俊敏な動きで素早くポケットに手にしていた“ナニカ”を着用していた手袋ごと押し込んだ。ふむ、いたずらが見つかった猫みたいな動きをするんだな、君。
「赤井さん。さっきはどうも。どうしたんですか?こんなところに。何か忘れ物でも?」
その綺麗なプラチナブロンドを撫でたなら君はどんな反応をするんだろうか。今すぐにでも確かめたい欲求をグッと抑える。今はまだその時ではない。
「いや、せっかくこの時間に起きたんだ。二度寝するよりは気分転換に散策でもした方が健康的だろう?そういう君は?」
「ああ……、ハンカチを探しに来たんですよ。テーブルに置いてたんですけど、どうやら何かの拍子にゴミ箱の中に落としてしまってたらしくて。そのまま他のゴミと一緒にさっき出しちゃってたみたいなんです」
と安室くんは苦笑交じりに自分のボトムスのポケットに視線を落として見せたのでそれに倣って彼の腰部に視線を向け頷いてみせる。
「それは災難だったな。わざわざごみ袋を開けてまで回収に来るなんてよほど強い思い入れがあるんだろう。見つかってよかったな」
「ええまあ…、お恥ずかしながら、替えの利かないものなので」
蒼い瞳が一瞬揺らぐのを眺めながら脳内で彼が紡いだ言葉を反芻する。替えの利かないもの、か。悪くないな。少しだけ困ったように眉尻を下げてほほ笑む君はどこか儚げで、そんな表情をさせているのが自分だという事実が誇らしい。
「お騒がせしました。では僕はこれで」
安室くんは礼儀正しく頭を下げて見せると真っ直ぐアパートに戻っていった。
その後ろ姿を眺めながら進行方向への歩みを再開する。少々面倒だが散策と銘打った手前、振り返られてもいいようにフリだけはしておかなければならないからだ。
少しメートル歩いた所で先程の安室くん同様周囲を警戒しながらゴミ捨て場へと戻って来る。時間帯が早いこともあり積まれた袋の数は片手で数えられる程度。その中で見るべきものは当然決まっていた。置いた位置は変わらずだ。だが、一度解いた後を結び直した結び目は左右が逆に変わっている。
開封した袋の中身を確かめたところ、消えているものが一つあった。
安室くんが持ち出した黒いビニール袋。中には俺がまさに彼を想って放った精液をたっぷりとため込んだゴムを仕込んでいる。彼ご所望のDNAだ。さぞ喜んでくれていることだろう。
俺はもちろん君を知っているし、君だって本当は俺を知っている。ただ、正面から顔を合わせたのが久しぶりすぎて残念ながら君は俺を思い出せはしなかったようだから。
これからは君にも少しずつ俺を知ってもらおうと思う。離れて過ごしている間、まずは俺がどれだけ君を想い焦がれてきたのか、この気持ちの重みを君に伝えるよ。今は焦れったいと思うかもしれないがどうか今はまだそれで我慢していてくれ。
「愛してるよ、零」
彼の代わりに、彼が捨てたゴミ袋を折りたたみナイフで愛撫する。するすると裂けた隙間から鮮血の代わりにこぼれ落ちては風に舞う紙片たち。刃先で中身を抉るように裂け目を拡げてやれば足元にはたちまち紙溜まりが出来上がった。
数枚拾い上げて文字の断片に目を通し、紙を選別していく。白黒のレシート用紙のような材質に文字と数字が印字されたもののみを絞って収集した。ある程度枚数が揃ったところで小さなビニール袋にまとめ終わればこちらの仕事も終了だ。紙片を袋ごとポケットに押し込んで腰を上げる。
「帰ったらパズルだな。昼までに終わればいいが」
何せかなり細かく破かれていたから、修復にどれくらいの時間を要するかわからない。それでも、これが安室くんから俺に対するメッセージだと思えば俄然やる気が湧いてくる。こちらからは生体情報を、彼からは連絡先を。互いの情報で等価交換が成り立つ関係性。そう、俺たちはお互いに求め合っているのだ。その事実に俺はそっと幸せを噛み締めた。