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    pass➡️LOVEbomberの誕生日 ほとんどラギぶり

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    mwmwmj

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    あまねさんから頂きました!
    ラギぶりのハッピービーンズデーリターンズです。

    きみと飛びたい ねじれた王国の薔薇のくに、その中の、もっともっとねじれたところで、とある男女が追いかけっこをしてい──
     「いーから降りてこいって!」
     「や、やだよぉ、あたしこんな散々逃げといて……いまさら捕まるとかできないもん」
     「いい加減にしないとまたビーンズシューター使うッスよ!?」
     いや、追いかけっこというにはちと激しすぎるのかもしれんの。ひょんなことから鬼と同等の力を手に入れてしまったヒトの娘と、娘を捕まえるべく、豆といくらかの補助具だけで娘を追うハイエナの獣人。両者互角のこの争いは、どちらかといえば、鬼ごっこと呼ぶ方が相応しいのじゃろう。
     「アンタに豆当てなくても、こーいう使い方もできると思うんスよ……ねッ!」

     「きゃーっ!? 嘘!?」
     ワシがそんなことをつらつら語っているうちに、男の方が豆を撃ったらしい。撃った豆で木の枝や電線が崩れて……ああ、娘が往生しとる! これは流石の娘も窮地に陥ったということじゃな!? 何処に逃げれば良いのか分からなくなって慌てとる。男のほう、中々の策士とみえるな。
     嗚呼、そうそう、奇しくも今日はツイステッドワンダーランドにおける伝統行事「ハッピービーンズデー」の日なんじゃ。果たしてあやつは、幸運の竪琴の代わりに、娘の頭に生えた鬼のツノを奪還出来るんじゃろうか!? こんな歳ではあるが、血が湧き肉が躍ってしまって仕様がない。身体強化の魔法道具やステルス迷彩服を身に纏い、怪物と農民の戦いが今、幕を「ちょっとオジサン、いちいち喋られると集中できないんですけど!?」「オレ農民なんてガラじゃないんスけど! この迷彩ジャケットの色、見えてるッスか!?」
     ……すまん。少しばかり煩くしすぎたようじゃ。二人から抗議をくらってしまった。後は若い者に任せて、何故こんな鬼ごっこをするに至ったのか、遡ってみようかの。

    ◆◆◆
     ほしがるように空を見上げた。あのアイスキャンデーみたいな青がおちてこなくてもいいから、あの青とおなじところまで高く昇っていけたらどんなにいいだろうと考えた。
     二月の初旬、仕事終わりのかえりみち。通勤用の鞄を持って空を見上げる女性──ユイ・アンブリッジは、小さな頃からずっと、空を飛ぶことに憧れてきた。だが、現実というのはときに不条理なものだ。齢六歳の頃、薔薇の王国で受診の推奨されている検査で、ユイには一ミリたりとも魔力が存在しないという診断結果が出てしまったのである。魔力が無ければ空は飛べない。まだエレメンタリースクールに上がる前の話である。欲しいものが自分にだけ与えられない不平等さに、病院で随分泣き喚いた記憶があった。そしてその診断結果が覆ることはなく二十余年が経過し、ユイは世間には嘆いてもどうしようもないことがあるということを肌で理解していた。
     ユイの頭上を、また一本の箒が通過していった。箒の前にレジ袋を引っかけている。買い物帰りなのだろう。……近頃、ツイステッドワンダーランドの法令が改正されてレジ袋はどの店も総じて有料になった。ラギーくんなら絶対ああいうレジ袋は使わないだろうなあ、とユイは思った。知らず知らずのうちに口許がほころぶ。

     ──ねえ、ラギーくん。箒の後ろ、一生乗せてね。
     いつか自分が同居人に言った台詞が、なんとなく脳裏に蘇った。嘆いても喚いても魔力が降ってくることはないけれど、家賃と引き換えに、好きになった人に身体でもなんでも差し出す勢いで同居を迫れば、美味しいごはんとハプニングの絶えない日常が得られることを、いまのユイは知っている。ユイのすることに時折呆れ返りながらも、なんだかんだユイの手を振り払おうとはしない彼。ユイが、ラギーくんの操縦する箒の後ろに乗るの楽しい! と言えば、それからそこそこの頻度で箒に乗らせてくれるようになった彼。どんなに嘆いたってユイに魔力が無いのは覆らないし空だって飛べやしないと思っていたのに、ひとたび彼に空を飛ぶことの楽しさを教えられてしまえば、どうしたってそれを知らない頃には戻れなかった。だからユイは彼に告げたのだ。ラギーくんの箒の後ろ、一生乗せてね──と。それに対する彼の返答は……まあ非常に彼らしいもので、ロマンチックさとは程遠かったけれど。
     ユイは不意に家の冷蔵庫の中身を思い出す。調味料の残りなどが目立ってきていて、そろそろ買い出しにいく必要があると思われた。
     おいしいものを食べることに心血を注いでいて、マズいものを口にするくらいならそもそも食べなくたっていいという性分のユイである。ひとりで食料品店に行っておいしそうなものを買ってもよかったが、そうすると高確率で彼から返品を求められるので、やはりふたりで買い出しに行くことになるのだろう。
     幸いなことに、明日は休みである。また箒に乗せてもらって、法定速度に則った適切なスピードで食料品店まで赴けるはずだ。

     自然と眦が緩む。「はやく帰ろっ」と呟いて、ユイは肩に掛けた鞄の紐を握り直し、空を見上げていた視線を元に戻した。鼻歌でも歌ってしまいそうな勢いで、足取りも軽く厚底ブーツを一歩先に出すと、
     「ん……? なにあれ」
     それまでには見かけたことのない露店が、いつものかえりみちの端っこに、滲み出すようにして設営されていた。鉄の柱を何本か適当に組み合わせて、上からモスグリーンの襤褸ぼろを被せた其処は、店というよりあばら屋というほうが相応しいような佇まいだった。だが、店にはいくつかのカゴが並び、色とりどりのモビールのような何かが吊るされている。ユイはぱっと喜色を浮かべて耳朶を触った。そこにはお気に入りのピアスが嵌まっている。ショッピングモールの中に入っているふつうのセレクトショップよりも、案外ああいう露店に掘り出し物のアクセサリーが置いてあったりするのだ。
     ちょっとだけ見ていこ〜、とユイは露店に駆け寄った。新聞に目を落としていた店主らしき老爺がちらりと目を上げて、──すぐに戻す。客が来たというのに随分薄い対応だが、別に構わなかった。ユイは嬉々としながらキラキラ光る小物を詰めたカゴを手にとった。じゃら、と小銭を傾けたときのような音が鳴った。
     ……そして、それまでに見たことのない怪しげな露店に深く疑いを持たずに駆け寄ってしまったことで、その後のユイはちょっとした騒動に巻き込まれる羽目になる。

    ◆◆◆
     カゴの中をあれこれと物色していたユイだったが、やがて見慣れないものが指先に引っかかった。ユイは眉を寄せながらそれを取り出した。
     「ん……? 何コレ」
     それは、黄土色と明るい黄色の中間のような三角錐だった。サイズはだいたいユイの人差し指の爪先から第二関節くらいまで。ピアスのように二対になっているのだが、どちらかといえば素焼きの粘土みたいな質感と軽さがあった。三角錐の側面ともいえる部分に何本も溝が刻まれている。なんだか見たことがある、ような気がする。たとえばそう、この時期に塗り絵やお面のかたちでよく見かけるような──。
     ユイは口を開く。自分の予想が正しいかどうか確かめたかった。「オジサン、これ……」と店主の男性に向かって言おうとしたその瞬間、指先で挟んでいたふたつの三角錐が急激に光り始めた。とても目を開けていられないようなまぶしい光。さすがに「これを持っていたらマズい」という強い危機感が生じ、「うわっ!」と叫びながらそれを手放そうとしたユイだったが、既に手の中の商品は消えており、光も収まっていた。そんなユイのことを、新聞からちらりと目を上げた店主が胡乱げな視線で無遠慮に眺めてくる。ユイを驚かせた元凶である三角錐のアイテムは既に消え失せている。店主の彼からしてみれば、ユイは「なんの脈絡もなく叫んだ変な女」に見えているのだろう。彼女と店主の間に、どう取り繕えば良いのか分からない奇妙な沈黙が流れる。ユイは取り敢えず愛想笑いを貼り付けた。しかし内心ではいくつもの疑問符が飛び交っている。
     さっき、あたしは確かに三角形の何かを持っていたはずなのに──どうしてそれが消えてしまったのだろう。昼間の幻覚? んなバカな。でも事実としてあの商品は、手の中には無い。
     どういうことなのか、ちっともわからなかった。店主に向かって、あはは、と意味もなく笑いながら、ユイは誤魔化すように頭に手を伸ばす。すると、何か硬い感触が指先に当たるのを感じた。明らかに髪の毛の触感ではない。異物感に表情を変えながら茶髪に指を突っ込むユイを認めて、店主も彼女の頭に視線を送って──さっと顔色を変えた。
     彼女の頭上には、黄色いコブのようなものがふたつ、ぽっちりと生えていたのである。
     店主が品物である鏡を渡すよりも早く、鞄に入れていたスマホの内カメラを起動して自身の頭を写したユイは、「なっ……何これぇ……!?」と叫んで青褪める。頭に生えたツノふたつ。こんなのまるで──ハッピービーンズデーの頃に塗り絵やお面でよく見かける、鬼そのものじゃないか。自分ひとりじゃ空も飛べないただの一般人なのに、どうしてこんなことに。身体が後ろにふらりとよろけそうになって、そのとき、やけに風が冷たく肌を撫でていくことに初めて気がついた。ユイは慌てて自分の身体を見下ろす。その瞬間、きゃあっ!? と家で虫を見つけたときのような悲鳴が迸った。
     あろうことか、ユイはそれまで着ていた服を一枚も着ていなかったのである。お気に入りの厚底ブーツも含めて、すべてが溶けるようにして消え失せていた。鞄だけは残っている。その中身も。同居人の前では抱いて欲しいが故にぽんぽん服を脱いでしまうこともある彼女だが、こんな野外で、しかも彼が居ないところで意味もなく脱ぐような露出狂ではない。明らかに、先程手にした謎のアイテムが原因だった。
     頭から二本のツノを生やしたユイは、虎柄のブーツを履いていた。その身体は同じく虎柄の布のようなもので覆われ、腕や首許にも同じ模様のものが巻かれていた。布で隠れている部分よりは肌が露出している部分のほうが多く、あたかも真夏に虎柄の水着を着ているかのようだった。だが、ここは真夏の海ではなく、まだまだ厳しい寒さの残る二月の路上である。ユイは腕を抱くようにして肩を竦めた。
     「どっ……どういうこと……?」
     「それは……! 遥か東方の島国に伝わるとされる呪いのアイテム・『鬼のツノ』じゃ……!! ワシも実際に呪いが発動したのを見たのは何年ぶりか……感涙で視界が見えん!」
     いつのまにか新聞を放り出した店主が、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がって、姿の変貌したユイを見つめていた。しょぼしょぼと瞬く瞳は、確かに彼の言葉通り僅かに赤く染まっている。だが、勝手に感動されたところで。ユイは眉を寄せながら首を傾げた。
     「な、なんでオジサンいきなりそんな……というか誰?」
    
 「ワシはしがない露店の店主じゃよ」
     そう言いながら、店主は商品を並べていた机の下をごそごそと弄まさぐって、ブランケットを取り出してくる。ユイは困惑しながらも渡されたブランケットを受け取って、肩に掛けた。
     「それで多少は寒さも凌げるじゃろ。まあ根本的な解決には別の手段が要るんじゃが……」
     「別の手段って何!? あたしの服は!? この鬼みたいなツノ、取れないんですけどぉ!?」
     店主の持って回るような言い方に痺れを切らしたユイは、矢継ぎ早に訊ねてしまう。店主は、まあまあ落ち着いて、と言いながら椅子など取り出してきた。ユイは思わず頭を抱えそうになる。あたしがこんなに困って訊いてるのにどうしてこんなにのんびりしてるんだ。
     不精不精といった様子を隠しもせずに椅子に腰を下ろしたユイの目を覗き込むようにして、店主は唇を横に引き伸ばした。
     「お前さんが触ったアイテムは、『鬼のツノ』。ある特定の条件を満たした女がこれに触れると、アイテムにこめられた呪いが発動して、女にはツノが生え、服装が変貌し──鬼になってしまうんじゃ」
     お前さん、とユイのことを呼ばわって、店主は皺だらけの瞼をニッと細めた。
     「片想いをしている男がいるじゃろ」
     何か抗議してやろうと意気込んでいたユイは、あまりにド直球かつ図星な問いかけに、「なっ、」と言葉を詰まらせた。頭の中にはもちろん同居人の彼の顔が浮かんでいる。……あたしって、そんなに分かりやすいのだろうか? 唇をわななかせながら金魚みたいに口を開けたり閉じたりするユイに、「うむ。心当たりがあるようじゃな」と店主が深く首肯した。悔しいが反論ができない。
     「『鬼のツノ』に触れた女が鬼になるための条件。それは『女が片想い中であること』なんじゃよ」
     「なん……何、それ!? というか呪いて! なんか解除薬とか……無いの!?」
     インターネットの通販で懲りずに媚薬を購入しては彼に飲ませようとして、そしてそれに毎度失敗するユイにとって、魔法の打ち消し薬や解除薬は馴染みのあるものだった(あり得ないほど不味いそれをスムーズに飲み下せるかどうかは別として)。だから今回もそれで、と一縷の希望を持ちながら訊ねたユイだったが、眼前の店主は重々しく首を横に振った。
     「残念ながら、呪いを解除する方法はひとつしかない。勿論薬などではない。……それは、お前さんが惚れた男と鬼ごっこをして、捕まえてもらうことなんじゃよ。奇しくも今日はハッピービーンズデー。季節に合った善い鬼ごっこになることじゃろうな」
     「お……鬼ごっこって。ハッピービーンズデーって」
     先ほど鏡代わりにしたスマートフォンを取り出してきょうの日付を確認すると、たしかに店主の言う通り、二月三日──つまりハッピービーンズデーであることが示されていた。
     言うまでもないことではあるが、ハッピービーンズデーとはツイステッドワンダーランドに古くから伝わる伝統行事である。豊かな自然に肥沃な大地を有する幸福の谷にあった魔法の竪琴を盗んだ怪物を、魔法の豆であるハッピービーンを用いて農民が退治し、無事に竪琴を奪還した──という逸話に基づくイベントだ。ユイもエレメンタリースクールに通っていた頃は、クラスを「農民役」と「怪物役」のふたつに分けて、農民役の子に豆をぶつけた経験がある。また、この時期になると、怪物役であることをわかりやすくするための鬼のお面や塗り絵がスーパーマーケットの入り口あたりに、豆と合わせてよく置かれているのだった。だが、だからといって鬼ごっこって。タチの悪い冗談みたいだ。
     ユイの表情を読んだのか、店主は髭に包まれた口をモゴモゴと動かした。
     「残念ながら酔狂ではなく本当のことじゃよ」
     疑念を口にするよりも早く、店主に先回りして封じられてしまう。ユイは肩に掛けたブランケットを引き寄せるようにしながら、ほんと意味わかんない、と鼻に皺を寄せるのだった。

    ◆◆◆
     「エイプリルフールは二ヶ月後ッスよ」
     ユイが頭を悩ませながらも、できるだけ簡潔に事実を伝えようと苦心しながら送信した長文のメッセージに対して返ってきた彼の応答は、そのひとことのみだった。窮地に陥っているのになんたる扱いを。皮肉なメッセージにこめかみが引きつりかけるが、ここで彼の機嫌を損ねでもすれば、ユイは一生鬼のままだ。それはすごく困るので、ユイは携帯を両手で握りしめるようにして、根気強くフリック入力を繰り返した。あまりに信じられないかもしれないが、本当にツノが生えてしまったこと。服が消えてしまったこと。鬼ごっこをしないと元に戻れないこと。ほとんど先程の繰り返しになってしまったけれど。自分の写真も何枚か撮って添付した。鬼というよりは、鬼のコスプレみたいな鮮やかな虎模様の衣装は、色彩に乏しい冬の街並みの中ではやけに映えていた。
     「へえ」「けっこう手が込んでるんスね」飛んできたメッセージに、ユイは「だからこれマジのやつなんだって!」と打ち返す。そのメッセージに対しての返信は暫く無かったが、やがて直接電話がかかってきた。ユイは秒で通話開始ボタンを押した。
     「もしもしラギ〜くん!? あたしだけど、ちょっとほんとにやばいことになっててさあ……!? 今すぐ来てほしいんだけど!」
     ハイハイ、ラギ〜くんッスよ、と適当にユイの台詞をあしらった同居人は、「んー。いまは差し迫った用事があるわけでもなし、行けるっちゃ行けるんスけど……」と言いながら、でも、と逆接を挟んだ。
     「なんか……あまりにできすぎてないッスか? 片想いのヤツだけが呪われるとか、呪いを解くには片想いをしている相手と鬼ごっこしなきゃいけないとか……そんなんRSAのライブラリにも置いてないような都合のいい御伽噺に思えるんスけど」
     「それについてはワシが説明しよう!」
     店主がユイの前に立ちはだかって大音声で宣言したので、電話のむこうの彼にもその言葉が聞こえたようだった。ノイズ混じりの青年の声が胡乱げなものになる。
     「うわっいきなり何スか。てかユイさんいま誰といんの?」
     「あたしが鬼のツノを見つけた店のオジサンだよ。なんで今突然来たのかはわかんないけど……」
     「まず、片想いをしている女が触れたときにのみ鬼化する理由じゃが」
     「って、聞いてないし」耐えかねて突っ込んでしまったユイの言葉には耳を傾けず、人差し指を一本立てた店主は立て板に水と喋り続ける。
     「そもそも、呪いの原因のアイテムである鬼のツノ自体に呪いが掛けられているわけではない。『鬼のツノ』は、女の中にある情念や感情を増幅させる補助具のようなものなんじゃ」
     「え、そうなの!? その感情っていうのは、やっぱり──」
     「うむ。それが片想いの感情じゃな。抑そもそも、鬼には往々にして『化け物』『恐ろしいもの』といった印象が付き纏うものじゃが、東方に伝わる『般若の面』といった風俗からもわかる通り、情の強い女が鬼になるというのはそう珍しい話ではないんじゃ」
     「……ふゥん」電話の向こうの同居人の声が、興味深そうに膨らんだ。「即興で考えた嘘にしては、ちょっと出来すぎてるッスね。それじゃあ? オレとユイさんで鬼ごっこしなきゃいけない理由は?」
     「よくぞ訊いてくれた!」店主は痩せて薄い胸を反らした。ユイは完全に携帯を耳から離して二人の仲介役を務めていた。あたしの携帯なのに。
     「女が鬼になるのは、なにか複雑な魔法がかけられたせいでも、古代の呪いが染みついたせいでもない。女自身の感情が主な原因になっているから、薬も効かないし、凡ゆる詠唱も無意味になってしまう。だから、感情を生み出す大元になっている片想い相手の──いつもは追いかける側の──男に追いかけてもらうことで、女の感情に多少なりとも折り合いをつけることが、呪いを解くために必要なプロセスになるんじゃ」
     「あー……成程なるほど。わーったッスよ」
     電話のむこうの彼は、不精不精そう告げた。
     「行けばいーんでしょ、行けば」
     それだけ言い残すと、電話は一方的に切れた。しかし、ユイにしてみれば大きな進展である。やった、と呟きながら小さくガッツポーズをした。

    ◆◆◆
     「え? いや、オレまだ協力するとは言ってないッスよ。だってそんなに実害なさげじゃないッスか?」
     ユイのガッツポーズを無に帰すようにして、露店に赴いたラギーは言い放った。写真で送られてきたときにも薄々感じていたことだが、実際にユイの姿を目の当たりににして思う。
     ──これ、そんなにやばい呪いじゃないな。
     一口に呪いといっても、その種類は様々である。伝承では、グレート・セブンのひとりである美しき女王は、ひとくち齧っただけで不届き者を昏倒させられるようなすばらしき呪いのかかった林檎を作ったという。そうでなくとも、呪いというのは度が過ぎると命に関わったり精神ごと弄られて狂気に陥ってしまったりと、危険なものが多くなる。だが、それと比較すれば、ラギーの眼下で「そんなあ」と頭を抱えるユイは、比較的安全そうだといえた。服装が変化し、ツノが生えていること以外に目立った変化はないし、電話やメッセージでのやり取り、現在の様子などを見ても、精神に不調をきたしているようには見えなかった。
     「ねえ……ラギ〜くん」
     不意に名前を呼ばれて、思考に耽っていたラギーは顔を上げた。ふたつのまなこがキラキラ光って彼を見上げていた。
     「なんスか」
     「あたしのこの恰好見て、ちょっとドキドキしたりしてくれた?」
     ……前言撤回。精神に不調をきたしているどころか、いつもに輪をかけて元気でおかしなアマという認識で間違いなさそうだった。ハァ、とデカい溜め息をついて後頭部を掻き回したラギーは、「少なくとも、アンタの期待してるような展開にだけはならないってことを言っとくッス」と釘をさしておいた。ユイは「なんだ」と肩を落とす。
     「まあ、ツノくらいいいんじゃないスか。人魚で言うヒレみたいなもんしょ」
     後頭部で手を組みながらそう宣うと、ユイが「全然ちがうよっ! 邪魔だよっ!」と声を張り上げた。いや邪魔っつってもたかが数センチのツノでしょ、とラギーが返そうとした瞬間に、それまではずっと黙っていた店主が叫んだ。
     「このまま放っておくとこの娘は鬼に乗っ取られて巨大化してしまう!!」

     「は、はァ?」「何ソレ、聞いてないんですけどぉ!?」
     ラギーとユイの声がぴったりとシンクロした。店主は眉ひとつ動かさずに腕組みをしてふたりの前に佇んでいる。その表情は真剣そのものである。ラギーは思わず唇の端をひくつかせた。どうやらこの呪いはそう簡単なものではないらしい。

    ◆◆◆
     認めるのは悔しいが、確かにユイ自身、己の身に降りかかった呪いのことを甘く見ていたふしはあった。だって本当にツノと服以外は何もおかしなことは無かったから。だが、巨大化とは穏やかな話ではない。ユイは思わず自分のてのひらを握りしめた。掌の内側は一瞬で湿っていた。不安の隠せないユイに対し、彼はユイのことを真顔で指差して口を開いた。
     「あの〜。この人娘って歳でもないッスよ」
     「そんなの今気にすることじゃないでしょ!?」
     ユイは反射的にラギーの腕を引っ叩ぱたいた。本当は頭頂部が良かったのだが、手が届かなかったので。ラギーは「ちょ、いきなりなんなんスか」と言いながらもユイの手を甘んじて受け容れた。それでユイの呪いに対する恐れは若干紛れたが、それにしても。これは本当にまずいんじゃないのか。
     ラギーは頬を指先で引っ掻きながら店主に質問を放った。
     「あれッスか。巨大化? すると、やっぱり食費とか嵩むモンなんスかね」
    
 「そりゃあもう!」と力強く頷く店主。ユイは思わず「ちょっと、あたしの心配は!?」と声を張り上げた。だが、店主はやはりユイのことをスルーして語り出す。自慢げに立てられた人差し指を圧し折ってやろうかと一瞬本気で検討したが、ラギーくんの前なので、やめた。
    
 「これも東方の文化の話になるんじゃが、向こうでは『オニヤンマ』『鬼蜘蛛』というふうに、『大きく恐ろしいもの』に『鬼』という接頭辞をつけることがある。加えて、東方では言葉に魂が宿る『言霊』という考え方が根強く残っとる。だから『女』に『鬼』が付くと、嘘もしだいにまことになり、女が鬼のように大きく恐ろしく──巨大な存在になってしまうんじゃ」
     そこまで一息で語り上げると、店主は乾いた唇を舐めた。そうしてまた口を開く。
     「こうなってしまうと、食糧も常人の二十倍は必要じゃし、勿論水も服に用いる布も途方もない量が必要になるんじゃ」
    
 「あ〜、なるほどなるほど。そりゃちょっと困るッスねえ」

     「え……それ、あたし、ラギーくんと一緒に住めなくなるかもしれない……ってこと!?」
     ユイは愕然とした。思わず彼の背中に縋りつく。尻尾のふさりとした感触が腹のあたりにダイレクトに中る感覚があった。だが、今はそれに構っている場合ではなかった。喉が締められたみたいに苦しくなる。吐き出すように言葉を落とす。
     「やだ、嫌だよお、ラギーくんおねがい、あたしと鬼ごっこしてよ……!」
     三階建てアパートの二階左奥、ポルターガイストが起こる代わりに格安の物件。買い物袋を引っ提げながら、他人が聞いたらどうでもいいと笑ってしまいそうな──けれどユイにとっては大事な話を交わしながらそこへ帰ることは、なによりも大切でふつうの日常だというのに。それがこんなことで無くなってしまうだなんて、許容できそうになかった。
     彼がぐしゃりと頭を掻き混ぜる気配があった。ユイの抱きつく腕は剥がそうとしないまま、「……家賃分全額。上乗せしてくださいよ」と言葉を落とす。

     「高い高い! 三割ィ!」
     畢竟ひっきょう、金さえ払えば大抵のことをしてくれる彼ではあるが、家賃全額には少々痛いものがあった。ユイは必死に値切りにかかる。彼の背中から前に回り込んで、愛想笑いを浮かべる。無論、そんなもので値切りのプロともいえる彼を動かせるはずもない。腕組みをして「九」と無情な通告をされた。家賃九割? ちょっと無理が過ぎる。ユイは眉を力無く下げる。
     「よん!」「八」
    
 「う、五……ねえ、お金ないんだってばぁ……あたし今月風邪ひいたし、病院代もあって……」
     ユイが胸の前で指を組み替えながらおずおずとそう呟くと、彼は「チッ、しゃーねえ」と顔を歪めた。
     「……長期優待割ッスからね」
     ユイは大きくガッツポーズをした。店主がやけに重々しく、「それでは、娘との鬼ごっこを行う、ということでいいんじゃな」と訊ねてくる。彼は「まあ、そういうことになるんスかね」と顎を引いた。
     「善い返事じゃ。それでは少し場所を変えよう」
     店主は露店の天井を覆っていた襤褸切れを、テーブルクロスでも引くようにして軽々と剥がした。刹那、ラギーとユイの視界が完全に遮られる。
     それが晴れた末にふたりを待ち構えていたのは──それまでの薔薇の王国とまったく同じに見えながらも、決定的にまったく異なる光景だった。

    ◆◆◆
     瀟洒な煉瓦の歩道の端に、青銅で作られたクラシックな街灯が立ち並んでいる。品のいいコース料理みたいに、高さや形が揃った家の数々が綺麗に並んでいる。それはごくふつうの薔薇の王国の街並みのはずだった。だが、流石は獣人というべきか、ラギーが先に鼻に皺を寄せた。ハイエナの耳を動かすと、「……なんスか、これ」と肩をすくめた。
     「なんの音もしないし、オレら以外のヒトの気配もないッス。薔薇の王国みたいに見えるけど、薔薇の王国じゃない。──オッサン、アンタ何やったんスか」
     「ワシは何もしとらん。そういう決まりなんじゃ……鬼化した女から持ちかけられた『鬼ごっこ』を片想い相手の男が受け入れると、異空間に転移させられる。何しろ、鬼ごっこ中に人にぶつかって傷つけてしもうてはコトじゃからな」
     「えっ、それって元に戻れんの!?」
     「無論。お主らが鬼ごっこを終える──つまり女のツノに男が触れることで、娘の呪いが解け、異空間からも脱出できるという寸法じゃ」
     それから、店主は長々と鬼ごっこのルールについて語り出した。普段ならこんなに長い話をペラペラ喋られては途中でめんどくさくなって適当に聞き流してしまうところではあるが、こればかりは適当に聞いていてはまずい。なにしろユイが今後も彼との同居生活を続けられるかが懸かっているのである。ユイは真剣そのものの面持ちで耳を傾けた。その結果わかった鬼ごっこのルールは、大きく分けて四つだった。

     ひとつ。鬼ごっこでは、双方魔法を使うことができない。その代わり、男は「ハッピービーンズデー」にまつわる道具ならばなんでも自由に選んで、装備として使うことができる。
     ひとつ。女は呪われてから二十四時間以内に男に捕まえてもらう必要がある。「捕まる」の定義は、「男が女のツノに触れる」ことである。
     ひとつ。もし制限時間内に女が男に捕まえてもらえなければ、女は巨大化してしまう。
     ひとつ。ふつうのハッピービーンズデーと異なって、女に豆をぶつけても捕まえたことにはならない。その代わり、鬼化した女に豆をぶつけると厄が払えるので、女が一時的に弱体化する。

     「弱体化って……ユイさんもともと弱っちいじゃないッスか」
     言いつつ、ユイのことをちらりと見下ろしたラギーには余裕がある。ハイエナの獣人の上に、ナイトレイブンカレッジでマジフト部に所属していた彼は、何かを追って捕まえるのなど朝飯前なのである。今回の鬼ごっこにしても、ユイは巨大化してラギーと同居できなくなることをなによりも恐れているだろうし、ラギーは一刻も早くめんどくさいことを片付けてウマい飯にありつきたい。利害は一致している。鬼ごっこがひとたび始まりさえすれば、すぐさまユイのツノを握って万事解決と相成るはずだった。それでもまあ、貰えるモンは貰っとこう、と思いながら、ラギーは装備品が並べられた長机を引っ掻き回す。鬼の面に鬼の塗り絵。どれもこれも一マドルにも満たないようなガラクタばかりだったが、ようやく使えそうなものがあった──とラギーは手を伸ばして、あれ、と瞬きをした。
     「これ、ウチの迷彩ジャケットじゃないッスか」
     ラギーが手に取って広げたのは、NRC式ハッピービーンズデーで採用されている、魔法の迷彩ジャケットだった。味方には派手に見えるが、敵には光学迷彩のように景色に溶け込んで見えるという優れものである。農民側のオレンジや赤を基調とした暖色系のジャケットと、怪物側の紫や緑を基調としたジャケットの二枚が用意されていたが、ラギーは怪物役のジャケットを持ち上げた。そのほかにも、よくよく見てみれば、豆を高速で撃てるビーンズシューターや一時的に身体の大きさを変える魔法薬など、使えそうな装備品はすべてNRC製のものだった。
     というのも、NRCのハッピービーンズデーは、一方的に豆をぶつけられることに耐えかねた怪物役の生徒が農民役の生徒に反撃したことから、「竪琴を巡って勝敗を競い合う異種試合スポーツ大会」へと変化していたのである。これが他の魔法士養成学校であれば、そのように血気盛んな行事が生まれてはいなかっただろう。だからNRCのハッピービーンズデーにおけるアイテムは、奇しくも「他人を無傷で捕まえる」ことに特化した装備だった。ラギーがそれらを手に取る回数が増えるのも当然のことだった。慣れた様子で走行速度を補助するブーツを履き、怪物役のジャケットに腕を通すラギーを、ユイは頬に手を当てながら眺めた。今日もきょうとてラギ〜くんは王子様みたいにカッコよかった。
     ラギーに骨抜きになっているユイをちらりと見つめて、彼は軽く肩を竦めた。やれやれと耳を垂らす。店主に向かってちらりと目配せをした。こんなアマひとりを捕まえるのに手こずるはずがない──という意図を込めて。だが、店主はゆっくりと首を振った。ユイに対し体を向けると、重々しく訊ねた。
     「何か……力が漲っているとは思わんか?」
     「え? 力って……あ、あれぇ!?」
     その瞬間、──バチ、ッヂヂッ、と何かが爆ぜるような大きな音がユイの耳をつんざいた。人間であるユイの耳にすら不快な音は、獣人であるラギーの耳には何倍にも増幅されて、酷いノイズとなった。ラギーは「ちょ、何なんスか!」と言いながら耳を押さえる。そうしながら目にしたのは、「え、何なに、今あたしどうなってんのーっ!?」と手足をばたつかせながらブランケットを落とし、空中に浮かび上がっていくユイの姿だった。

    ◆◆◆
     「そうじゃ! それがお主に授けられた鬼の能力──空を飛ぶ力と電気を操る力なんじゃよ!」
     眼下で店主が手をメガホンのかたちにして叫んでいる。初めは制御不能なまま身体が浮かび上がったので恐いばかりだったのだが、しだいに勝手がわかってきた。ユイはプールで泳ぐ要領で腕を動かし、空を切る。すい、と身体が前に動いた。風が露出した肌を撫でていく。気持ちがよかった。ユイは思わず笑いをこぼす。それに連動するようにして、ユイの周囲の電灯が、バチ、ッバチバチ! と激しい音を立てながら素早く明滅した。
     「え! 電気代浮くじゃないッスかぁ! ずっと鬼のままでいいじゃん!」
     ラギーが歯を覗かせてニカッと笑った。この局面に至っても金に目がないらしい彼に、ユイは勢いよく首を振って「いいわけないよっ!」と叫び返す。電気代云々の話は論外としても……もうひとつの能力に関しては。ユイは緩む頬を隠そうともせずに、あちこちに飛び上がった。ジェットコースターや、彼の後ろに乗せてもらって飛ぶ箒の上でしか得られないあの浮遊感が、自分で好きなだけ味わえるだなんて。ユイは街路樹のてっぺんまで舞い上がる。風が耳の中で激しく渦巻いて哭いていた。下よりも陽の光をたっぷりと浴びて育った木の葉は、心做しか緑色が濃く、艶々として見えた。
     齢六歳の頃に受けた診断で魔力が無いと出て以来、ユイは空を飛ぶことに憧れを持ちながらも、それを叶える術を持たなかった。だが、事実は小説よりも奇なりである。偶然に偶然が重なって、現在のユイは自力で空を飛べる手段を獲得した。ずっと自分で空を飛びたかったし、ラギーの後ろに掴まって空を飛ぶのも大好きだし、空を自由に飛ぶということにとにかく強い憧れがあったユイにとって、これはたいへんな僥倖だった。ユイは満面の笑みを浮かべてラギーを見下ろし、弾んだ声を投げた。
     「あ、でも空飛べるのは結構嬉しいかも……ラギ〜くん見てー♡」
     眼下で自分のことを黙って見つめる彼に大きく手を振り、ユイはくるりと宙返りをしてみせる。街路樹から街路樹へ素早く飛び移る。
     「ラギ〜くんより早いんじゃない!? ほうきなくても飛べるし! 超楽しい!」
     ラギーの箒が無くてもユイが自力で空を飛べるなら、もしかすればラギーとユイは一緒に空を飛べたりするのかもしれない。もちろん彼の上体に腕を回して、近所のお店までの短い道のりをふたりで飛んでいく時間も大好きだけれど、ふたりで肩を並べて一緒に空を飛べたのなら、それはとても楽しそうに思え「は? じゃあ一生自分で飛んどけよ」──え?

     空中をくるくる飛び回っていたユイは、つと動きをとめた。やや猫背気味になったラギーが、緩く波打った前髪の下から、眼だけを動かすようにして、ユイのことをじっと見つめていた。髪の毛の付け根の、ちょうど色の濃くなったあたりをぐしゃぐしゃに掻き混ぜるようにすると、険のある溜め息を聞こえよがしに吐いた。
     ユイは思わず睫毛を瞬かせる。ラギーが見るからに苛立っているのは、わかる。だが、何故苛立っているのかにまったく見当がつかなかった。

    ◆◆◆
     ──ねえ、ラギーくん。箒の後ろ、一生乗せてね。
     その言葉を思い出すとき、ラギーの記憶はとある日の夕方に遡る。何かの事件が起こったわけでもなければ、誰かの身が危険に晒されたわけでもない、ふつうの夕方だ。
     調味料が切れたか何かで、ラギーは薬局まで買い出しに赴くことにした。

     ラギーの同居人は、ラギーと出会うまで、空を飛ぶ感覚をまったく知らなかったらしい。幼い頃は木登りが世界一楽しい遊びだと思っていて高いところが大好きだったし、ジェットコースターも観覧車も高ければ高いほど好きだったけれど、如何せん魔力が無いので、自分で空を飛んだことは無かったという。ほんの出来心で彼女を箒の後ろに乗せると、慣れない感覚にあれこれと大騒ぎしながらも、ユイは心底嬉しそうに弾けるような笑い声をあげた。そのきらきらした笑い声が耳の奥に残ってどうにも消えなかったので、ラギーは箒に乗る機会があれば、なるたけユイのことも誘うようにしていた。だからその夕方もラギーはユイのことを箒に誘った。彼女は二つ返事でラギーの誘いに乗ってきた。箒に乗ったユイは、ラギーの腹に腕を回すようにして強くしがみついてきた。そうして目的地である薬局に降下し、地面に足をつける直前に、実ったくだものみたいな声で、そっと呟いてきたのだ。「箒の後ろ、一生乗せてね」、と。その響きは彼女にしては存外やわらかく穏やかなものだったので、ラギーはユイのその言葉を長いこと憶えていたのである。

     それだというのに、鬼のツノなるアイテムに触れて鬼となってしまったユイは、楽しげに空中で手足を泳がせながら、
     「あ、でも空飛べるのは結構嬉しいかも……ラギ〜くん見てー♡ ラギ〜くんより早いんじゃない!? ホウキなくても飛べるし! 超楽しい!」
     などと宣ってきたのである。これにはさすがのラギーも顔を顰めざるを得なかった。ラギーくんより早くて? ホウキが無くても飛べて? 超楽しい? ──そんならもう、オレなんか要らないってことになる。オレも、オレの操縦するホウキも。空を飛べるユイにはなにもかも用済みらしい。可愛げがなくてつまんねー、と思った。自然とユイを眺める視線が乾いたものになる。自制するよりも先に、冷や水を掛けるような台詞が喉から飛び出した。
     「は? じゃあ一生自分で飛んどけよ」
     空中で楽しげに飛び回っていたユイが、ぴたりと動きを止めてこちらを見下ろしてくる。ラギーの前では弱ったようにハの字に寄せられがちな眉が、怪訝そうに歪んでいた。
     「え、なんでちょっと怒ってんの?」
     ──なんで、って。
     そんなことを訊かれても、一生箒の後ろに云々という発言をユイ自身が覚えていなければ、ラギーだけが一方的に引きずってきたみたいで、女々しくて馬鹿らしい。自然、ラギーは眼を細めた。べつに、と小さく呟いて、「怒ってないッスけど」と上空に向かって叫んだ。

    ◆◆◆

     「怒ってないッスけど」
     言葉ではそう言いながらも、ラギーは頑なにユイと目を合わせようとしなかった。垂れ目を細めて、鼻から息を抜くようにする。その態度に、耐えかねたユイは「怒ってんじゃん!」と突っ込んだ。ラギーはユイにちらりと目を遣ると、すぐに視線を逸らす。
     「……誰かさんがこんなクソめんどくさいこと引き起こしたせいで無駄な時間過ごしてんだから、そりゃ怒りたくもなるッスよねえ!?」
     肩を竦めながらそう言われたので、ユイは少なからずショックを受けた。
     きょう一日の己の行動を振り返ってみても、じぶんが何かラギーの地雷を踏むような行動をしたとは思えない。むしろ普段の自分のほうが、味噌汁に媚薬を混ぜようとしたり、ポルターガイストを自慰で遠去けようとしたりと、突拍子もない(ユイ自身には「ラギーくんに抱いてほしいから」という歴とした理由があるのだが)行動を繰り返している気がする。
     わからないまま突き放されるのは、嬉しいことではなかった。ユイは力無く「なんでそんな言い方すんのぉ……?」と訊ねる。だが、ラギーがその問いかけに答えることはなかった。紫と緑の迷彩が散らばるジャケットの裾を少し引っ張って整えるようにすると、「さっさと捕まえるッスよ」と呟く。やはりユイの目は見ないままである。
    
 「……もういい。別に捕まえなくてもいいし……」
     それだから、ユイはなんだか拗ねてしまった。ラギ〜くんと一緒に空を飛べると思っていた楽しい気分に冷や水をぶっかけられたようで、なんにも面白くなかった。最初は地上に降りていこうと思っていたが、降りる気もなくしてしまった。空を飛んだことで程良く身体が温まったので、もうオジサンに毛布を貰う必要も無さそうだった。「ハア?」と眉根をきつく寄せるラギーをほって、ユイは空を泳ぎ出す。彼に背を向けるようにして、すいすい飛んでいく。気持ちが乗らないときでも、身体は流れるように進んだ。

     「別にこのままでもいいもん。空飛べるし」
     ユイはぽつりと呟く。「そっ、それでは鬼ごっこ開始、ということじゃな!?」と慌てたようにオジサンが笛を鳴らす音が聞こえてきた。欲しいのは、そんな乾いた楽器の音色じゃなくて、彼のいつも通りの声だけなのに。現実にはブーツを鳴らして静かに追ってくる足音しか聞こえないから、ユイは小さく息を吐き出した。

    ◆◆◆
     身体中に力が漲っている──なんて言うと厨二病患者のようだが、事実なのだからしかたがない。すいすいと街路樹や街灯などを躱しつつ、ユイはラギーから逃げていた。不思議なことにどれだけ飛んでも疲れを感じることはなく、むしろ飛ぶのに慣れたおかげか、徐々に飛行速度は上がっていた。これに対し、もともと俊足のハイエナ獣人である上に、走行速度を補助するブーツを履いたラギーもユイを根気強く追跡していた。だが、やはり魔法の使用が封じられているのは大きい。箒が使えたならばディスクシーフの二つ名を持つラギーがユイを捕まえるのはそう難しいことではなかったが、純粋な脚力勝負となるとやはり苦しいものがあった。ユイがふと気がつくと、ラギーの姿は眼下から消えていた。
     「……なあんだ」
     若干拍子抜けしたユイは、地面に降りる。ずっと空を飛び通しだったので、足の裏にぶつかる硬いコンクリートの感触はなんだか奇妙なものに思われた。──と、そんなユイの後ろを車が高速で通過していく。ユイは「やば、」と青くなって慌てて浮き上がった。彼女が降り立っていたのは、交差点のド真ん中だったのである。自動車用の信号が青になれば自家用車が何台も道路を通過していき、逆に赤になれば白線の内側で停止する。それはごく普通の国道の光景に思われたが、ユイが高度を落として、おそるおそる停止する車の内側を覗き込んでみると、車中は完全な無人状態だった。
     鬼ごっこのフィールドは、人の居ない異空間である。この車にしても、障害物として敢えて設定されているだけで、運転手はひとりだって乗っていないのだろう。変なところ凝ってるんだなぁ、と思いながらまた高度を上げて舞い上がろうとしたユイだったが、
     「隙ありッス!」
     ぽこん、と間の抜けた音が耳許をかすめた。続けて、腕のあたりに何か丸いものがぶつかる感触があり、地面に一粒の豆が転げ落ちた。慌てて辺りを見回すと、交差点のむこうでビーンズシューターを構えてこちらを睥睨しているラギーと目があった。ユイが自動で動く無人の車に気をとられているうちに、迷彩ジャケットで姿を隠してユイの付近まで忍び寄り、満を持して豆を撃ち出したのだろう。ユイは慌てて高度を上げようとするが、まったく身体が動かない。ユイは鬼ごっこのルールの四つめを思い出していた。「鬼化した女に豆をぶつけると厄が払えるので、女が一時的に弱体化する」──。「弱体化する」というのは、鬼の能力を一時的に奪われる、という意味らしい。豆をぶつけられた腕を中心に、鉛の枷をつけられたみたいに身体が重かった。
     運悪く、信号も赤になる。車が白線の内側で停止し、通行可能になった横断歩道を、ラギーは軽い足取りで渡ってきた。「残念だったッスね、ユイさん。追いかけっこはもう終わりッスよ」と言いながら近寄ってくる。
     万事休す──なのか? でも、こんな中途半端な形で捕まるなんて悔しすぎる……!
     唇を噛んだユイは、全身に力を込めて、電気を操る力をなんとか発動させた。街灯がちかちか明滅し出す。ラギーはそれをちらりと眺めたが、無論、そんなことで彼の足止めができるはずもない。「そんなの猫騙しにもならないッスよ、ユイさん」と唇だけで笑いながら、ラギーはなお近づいてくる。
     だが、その瞬間、ラギーの鼻先に車が迫った。さっきまで赤だったはずなのにどうして。思いながらも、車に撥ねられては元も子もないので、ラギーは仕方なく後方に跳んで歩道へ戻る。ラギーに捕まるのを覚悟してぎゅっと目を瞑っていたユイは、いつまで経っても捕まる気配がないので、おそるおそる目を開けた。
     そこにラギーは居なかった。その代わり、高いところから落として割ってしまったパックの卵みたいに、ぐしゃぐしゃに潰れた車が折り重なって山積みになっているのが見えた。その向こうで、ラギーが低く唸っている。
     「あ〜あ、あとちょっとだったのに……ユイさん、往生際が悪いッスよ」
     街灯とまったく同じスピードで、信号機が故障したかのようにちかちか瞬いている。明らかに、ユイが電気を操ったからだった。赤青赤赤青黄赤青赤青黄。無作為かつ数十秒単位で不自然に入れ替わる信号の光に、車はちょっとだけ進んだり停止したり──を繰り返しているうちに、しだいに玉突き事故を起こし、あのようなスクラップ状態になってしまったのだろう。
     窮鼠猫を噛む、とでも言えばいいのか、火事場の馬鹿力、とでも言えばいいのか。ともかく、偶然とはいえラギーの足止めに成功したユイは、全力で空へ舞い上がった。既に豆ひとつぶの厄払いの効果は解けている。彼が悔しそうにこちらを見上げているのを認めて、ユイの口角は吊り上がった。いつも追いかけてばかりの彼に追いかけられているというこの状況は、少しだけ気持ちよく思えた。

    ◆◆◆
     それからもユイはひたすらラギーの追跡から逃げ続けた。空を飛べて電気を操れる代わりに装備は持てないユイと、一切の魔法が使えない代わりにちょっとした魔法薬やビーンズシューター、その他フィールドの中に設置された補給箱の中身を自由に使うことのできるラギーの攻防は、まあ互角といえた。能力が拮抗しているのであれば、追っ手が使う手段はひとつである。
     「いーから降りてこいって!」
     そう、言葉によって相手の意志をなんとかねじ曲げるべく、舌鋒戦に持ち込むしかなかった。車止めや植え込みなどの障害物をひょいひょい避けながら、上空を飛んで逃げていくユイに向かってラギーは声を張る。
     「や、やだよぉ、あたしこんな散々逃げといて……いまさら捕まるとかできないもん」
     だが、ユイの煮え切らない態度を見るに、言葉によって説得するのは難しいことに思われた。ラギーは深く息を吐き出す。
     「いい加減にしないとまたビーンズシューター使うッスよ!?」
     立ち止まったラギーは、ビーンズシューターLを構えてよくよく狙いを定めた。ロングレンジの投射機は、取り回しが難しいのが不便な点ではあったが、遠くまで正確に狙えるというメリットがあった。彼がビーンズシューターの照準をこちらに定めていることに気づいたユイは、でたらめに空中で飛び回った。とにかく動きまくることで豆を回避しようという魂胆なのだろう。無論、ラギーはユイ自体に豆を当てられるとはこれっぽっちも思っていなかった。
     「アンタに豆当てなくても、こーいう使い方もできると思うんスよ……ねッ!」
     ラギーはユイの進行方向に向かっておもむろに豆を撃った。折れかけてぐらぐら揺れていた木の枝が落下し、連鎖反応を起こすようにして、電線が切れ、電線を固定していた金具がユイの眼前にばらばらと降り注ぐ。

     「きゃーっ!? 嘘!?」
     ユイは慌てて急停止した。その隙を逃すラギーではない。ビーンズシューターの照準を落ち着いて定めると、引鉄を引こうとした。だが、ユイとラギーをマラソン大会のパトカーのように車で追跡しながら、デカいメガホンを口許に当てて実況をする店主の声にどうにも注意を削がれる。それはスコープ越しに覗いたユイも同じだったようで、苛立ったように眉を寄せながら、「ちょっとオジサン、いちいち喋られると集中できないんですけど!?」と叫ぶ。依然としてユイとの軋轢が解消されたわけではないが、これに関しては彼女に全面同意である。ラギーも一旦ビーンズシューターから顔を離すと、店主に向かって怒鳴った。
     「オレ農民なんてガラじゃないんスけど! この迷彩ジャケットの色、見えてるッスか!?」
     店主はそそくさとメガホンを引っ込めると、黙って車の窓を上げた。
     「わかりゃいーんスよ、わかりゃ」
     ガリガリと後頭部を引っ掻きながら、ラギーが再びビーンズシューターを構えると、既にユイの姿は豆粒のように小さくなっていた。
     「オッサン……余計なことしてくれたッスねえ」
     苦々しく吐き捨てながら、ラギーはふたたびユイを追うべく腰を上げた。

    ◆◆◆
     陽がだいぶ高くなってきた。……眩しい。ユイは一瞬、眼を細めた。
     そのとき、笛の音が長く鳴る。「鬼ごっこ、中断! 一時中断じゃあ!」と言いながら、車を停めた店主が扉を開けて車内からまろび出てきた。ラギーが眉を顰めてこめかみのあたりを引っ掻く。
     「ハア? 中断て……なんでッスか」
     「腹が減っては戦ができぬと言うじゃろう! 昼餉を摂る時間じゃ。ほれ、食え!」
     店主は車中から木箱を取り出した。布のかけられた木箱は、補給箱と瓜二つの外見である。だが、中に入っているのは補填の豆でもフィールドスキャナーでも捕縛アームでもなく、いくつかの菓子パンとペットボトルの紅茶だった。店主はラギーにパンと紅茶を投げて寄越すと、空中でふわふわと浮遊したままのユイにも食糧を力尽くで放り上げた。
     「ちょ、危なっ」
     ユイは慌てて飛んできたビニール袋とペットボトルをキャッチする。袋の中身を確認すると、コンビニでも売られているようなごく普通のチョコスティックパンが詰められていた。眼下のラギーにちらりと視線を落とすと、彼も似たり寄ったりの菓子パンに歯を立てていた。不自然に左手を背中に隠しているので怪訝に思っていると、店主に「いまは鬼ごっこの時間外じゃから、豆を当てても弱体化は見込めないぞ」としっかり釘を刺されていた。彼は「チッ……そういうところヘンにちゃんとしてるの何なんスか」と嘆息しながら、手の中に隠していた豆を渋々ジャケットのポケットに仕舞い込む。その様子を見ながら、ユイはビニール袋を破いて中に入れてあったチョコスティックをモソモソと食んだ。うすら甘い。それ以外に特に感想は湧かなかった。
     ──もしいま、あたしが鬼のツノに触っていなくて、ラギ〜くんとも揉めていなくて、ふつうに家に帰って昼ごはんを食べていたなら、それはどんな献立だったんだろう。
     そう考えてはじめて、腹の虫がぐうと鳴いた。慌てて腹を押さえて赤くなるが、ラギーの居る地面との距離はかなり開いている。獣人故に聴力がかなり鋭い彼ではあるが、流石にユイの腹の音には気づかなかったらしい。紅茶で流し込むようにして、黙々とパンを噛み千切っている。これにしたって、普段ならユイの腹の虫にすぐ気がついて、「あーハイハイ、もうちょいで出来るッスよ」とユイのことを雑にあしらって、それから暫くしたら絶品の節約料理に舌鼓を打てていたはずなのに。
     彼の大きな耳が見える。その間に居座っている、色の濃いつむじが見下ろせる。それは彼がこちらを向いていないからだ。青色の垂れ目が見えない。ふたりで同じ食卓を囲んで、身の回りで起こったどうでもいい事件を話したり、奇数個のおかずの最後の一個をかけて本気で争奪戦をしたり。そんなあたりまえの食事がひどく恋しくなって、ユイは一瞬、地面に降りていって、降参しようかと本気で検討した。
     だが、早々に食糧を摂り終えたラギーが大きく息を吐きながら肩を回し、ビーンズシューターを大義そうに担ぎ直すのを見て、ぴたりと動きを止める。彼はあんなにめんどくさそうにしているのに、今更のこのこと降りていったらどんな顔をされるか。だったら最初ッから大人しく捕まっとけよ、と言い放たれるのが容易に想像できた。……やっぱりこんなに逃げ回っておいて、あっさり降参なんてできるはずもなかった。なにもかもを誤魔化すように、ユイは残りのパンを口に突っ込んだ。食べても食べなくても変わらないような既製品のパンは、やけにぱさついて感じられた。

    ◆◆◆
     侘しい昼食を終え、容赦なく飛んでくる豆を紙一重のところで躱す攻防戦を続けていれば、しだいに陽は傾いて暮れつつあった。街灯の明るさがぼんやりと浮き出すようにして目立ち始め、無人の家々の窓ガラスは西日に照らされてこがね色にキラキラ輝いている。
     「撒けた……のかな」
     ユイは手の甲で額に浮かんだ汗を拭った。きょう一日ラギーから逃げ続けてわかったこととしては、景色に溶け込んで見える魔法の迷彩ジャケットは、タコやイカ、カメレオンのように保護色を変化させているだけで、完全なステルス機能は持たない。だから、間違い探しをする勢いで眼下の光景にじっくりと目を凝らせば、彼が居るかどうかは判別できた。その基準でいえば、今度こそラギーのことは撒けているはずだった。ユイはほっと息を吐きながらやや高度を落とした。
     鬼ごっこが始まったばかりの頃は一心不乱に真っ直ぐ翔んで、スピードでなんとかラギーを振り切ろうとしていたユイだったが、夕刻になれば、でたらめに高度を変えて飛んだり、突然住宅街へ急下降したり、死角に入り込んで追っ手を撒こうとしたり──と、それなりに小回りを利かせるようになっていた。

     ──と、降りた先に一本の木が聳そびえており、なおかつそこに真っ赤な果実が生っているのを認めたユイは、喉を鳴らして木に近寄った。ずっと飛び通しでも疲れることはないが、ラギーから逃げるためには体力と知力を大幅に消費する必要があった。それに、トイレに行きたくなったら事なので、ユイは昼間の紅茶の量も控えめにしていた。林檎とスモモの中間のような実は、夕日に照らされて毒々しいほどに赤く輝いて見えた。あれをもいで食べたらさぞかしジューシーなはずだ。乾いて疲れた喉も潤うことだろう。花に引き寄せられる蝶みたいに、ユイはふらふらと木に近寄っていく。木にたったひとつだけ実ったくだものに手を伸ばして、あと少しでもぎ取れるというところで──
     「隙ありッス!」
     ユイの鼻先に、ビーンズシューターLがつきつけられた。豆の鞘を模した、みどりいろの長い投射機。ご丁寧に豆の蔓まで再現されたそれを、木の枝の中で身を隠すようにしてユイのことを待ち伏せていたラギーが無駄のない手つきで構えている。ユイがもう直ぐもぎ取ろうとしていた真っ赤な果実も、一瞬でひとつぶの小さな豆へと姿を変えていた。
     「あっ……あれぇ!? 果物は!?」
     「シシシッ。『十秒間だけ異なるモノを投影してまったく別のものに見せかける魔法薬』を豆にかけただけッスよ! だいたいこんな木のてっぺんに都合よく一個だけ実が生ってるわけないじゃないッスか、ブラフに決まってるじゃん!」
     「だ、だってさあ……美味しそうだったんだもん……! それで引っ掛けるとかさすがにズルくない!?」
     「オレ、使えるモンは全部使う主義なんで!」
     ラギーはここぞとばかりに豆を連射してくる。ユイがきょう一日で飛行に慣れたのと同じく、ラギーの射撃の腕も上がっているのだ。ユイはきゃあっと悲鳴を上げながら豆を避けまくり、素早く飛び上がった。

    ◆◆◆
     ラギーの急激な感情の変化についていけなかったことでユイが拗ねてスタートした鬼ごっこではあるが、ゲームを続ける中で、ユイの気持ちには変化が生じていた。まず、ひとつめ。あのラギ〜くんが、普段は自分の方が尻尾を追いかけ回してばかりの彼が、このあたしを追いかけてくれるなんて状況はそうそうないということ。そのうえ、ずっと憧れていた空を飛ぶ力を手に入れたことで、有能な魔法士であるラギ〜くんと並び立った気分になれて、嬉しかった。だからユイは、ツノに触ってもらえなければ巨大化してしまうとはわかっていても、ついつい本気で逃げてしまったのだ。とはいえ、逃げ回るユイもそのうちラギーにどうしようもなく捕まってしまうときがあると覚悟はしていた。
     だが、ラギーとユイの間には、障害物ばかりの地上と、障害物の無い上空という大きなハンデがあったことにより、ユイはラギーに捕まることのないまま、時刻はなんと午後八時を迎えていた。すっかり暗くなった空には、白い絵の具を擦って飛ばしたみたいに星がちらちら瞬いている。
     「いい加減降りてこいっつーの!!」
     何度ビーンズシューターを構えても、ユイを決定的に捕縛することは出来ていなかったラギーは、夜になると装備品を構えるのをやめて、ユイを説得しにかかっていた。手をメガホンの形にして、空中に浮かぶユイに叫びかけるラギーだったが、ユイは力無く眉を下げた。

     「やだよぉー……ラギ〜くん怒ってんじゃあん……」
    
 散々逃げ回ってしまうと、折り合いがつかないというか──やめどきが見つからない。最初からおとなしくツノを握られていればよかったはずなのに、自分で空を飛べたのは素直にすごく嬉しいからもうちょっとだけこの呪いを享受していたくて、でもそれをよりにもよってラギ〜くんにばっさり切り捨てられてしまったのは悔しくて。……やっぱりあのときは逃げざるを得なかった。でも、だからといってこの時間まで続ける必要はなかったのかもしれない。そもそもいまさら降りていったところで、この後の展開はなんとなく読めてしまう。まず、ラギ〜くんにキツくお灸を据えられるのは確定事項だ。それってなんか、なんだかなあ。
     いろんな考えが小さな泡のように浮かび上がっては、はじけて消えていった。あっちこっちに散らばった思考はうまくまとまりそうになくて、めんどくさくて考えるのをやめてしまいたくなったけれど、自分の周囲がものすごく静かなことに、ユイはふと気がついた。
     いま、この空にはユイ自身しかいなかった。ユイがたったひとり空に浮かんでいるだけだった。一本の箒も浮かんでいない真っ黒な空が、無地のコピー用紙みたいに、ずっと遠くまでのっぺり広がっていた。
     「……あ、」
     ユイはようやく気がついた。
 ──男側は魔法を使えないこの鬼ごっこを続けている限り、ユイは一生ラギーの後ろから腕を回して空を飛ぶことはできない、ということに。彼と同じ目線で、同じ食卓でごはんを食べることもできない。同じ家にも帰れないし、肩を並べることもできない。
     ユイは幼い頃に魔力が無いという診断を受けてから、ずっと一般人として過ごしてきた。ユイの周囲には魔法士が居なかったし、それはこれからもずっとそうだと思っていたのに、ラギーと出逢ってはじめて、ユイは空を飛ぶことの楽しさを知った。ジェットコースターに似た、けれどそれとはまったく異なる浮遊感。耳の中で風が音を立てて渦巻いているときの、あの感覚。ほんのわずかな時間だけ、ユイは堂々とラギーの後ろに抱きついていられた。ああそうだ、てっきり誕生日を祝ってもらえると思っていたのにパスタだけだったから、しょぼくれてベッドに横たわっていたら、彼が箒の後ろに乗せて外に連れ出してくれて、大きな木をきらきら光らせてくれたことだってあった。どうして抜けていたんだろう。彼がいなければ、ユイは空を飛ぶことの楽しさを、ずっと知らないままだったのだ。

     怒られたくない、って思っていた。ほんの少し前までは。でも、いまはもうそんなことどうだってよかった。仕方がなさそうに垂れ目を細めてユイのことを見上げているラギーに、今すぐ抱きしめてもらいたかった。サイズの合わない服の上からじゃわからない、案外硬い腕にめいっぱい抱きしめてもらえたら、ユイはもう逃げなくたってよくなる気がする。
     「ラギ〜くーん……!」
     とうとう我慢がきかなくなって、ユイは地上に居るラギーに向かって情けなく叫んでしまった。追いかけっこで最初に逃げ始めたのがユイならば、最後に捕まりに行くのもユイからなのだった。
    
 「は?! なんスか!? 降りる気なったんスかァ!?」
    
 「今ギュッてされたいんだけど〜〜……!!」

     「意味わかんねえこと言ってねえで降りろ!!」
    
 「抱きしめてくれるならおりたいと思ってるのですがぁー!」
     遠目からでもはっきり判るほど、ラギーがデカい溜め息をついた。肩をすくめ、眉を下げて耳を垂らす。またなんか言い出した、とでもいわんばかりの表情だった。抱きしめられたいのに、やっぱり無理なのだろうか。唇をぎゅっと噛んだユイだったが、次の瞬間、ラギーが「ハァ……わーったッスよ」と頭を掻き、ユイに向かって腕をおおきく広げてみせた。
     「超〜〜〜濃厚なヤツやってやるッスよ」
     ──だから早く、降りて来いって!
     ラギーがそう言い切るよりも早く、ユイは思い切り彼の腕の中に飛び込んだ。たぶん今日イチのスピードが出ていたと思う。ラギーはよろけもせずにユイの体を抱き留める。それだから、ユイはなんだか胸がいっぱいになってしまって、黙ったままラギーの胸板に頬を擦り寄せるようにした。「ほんと、アンタって都合いいッスよねえ……」と呟きながら、ラギーの片方の手がユイの頭上に回る気配があり、続けてユイのツノに触れた。
     その瞬間、世界は眩いばかりの光で満たされた。

    ◆◆◆
     「通行人」が、青年にはっしとしがみ付く女性のことを怪訝な視線でちらりと見て、そのまま通り過ぎていった。鬼ごっこの異空間内ではあり得ないことである。ラギーは微かに鼻を動かした。自分たち以外の、無数の生き物のニオイがしていた。もちろんユイの服装も元通りに戻っていて、ツノは綺麗さっぱり消え失せていた。ラギーは自分の服装も元の私服に戻っていることに気がついて、小さく息を吐いた。あの迷彩ジャケットでひと儲けできると思っていたのに。鬼ごっこに関するものは、すべて消えてしまったらしかった。謎の店主の姿も、露店の存在も、すっかり無くなっていた。
     まるで長い夢を見ていたかのようだった。いつまで経っても自分から離れていこうとしないユイの体温だけが、先ほどまでのことが夢でも幻でもないことをはっきりと示していた。またひとつ息を吐いて、ラギーはユイを見下ろした。
     「いつまで抱きついてんスかぁ……つーかここ寒いから早く帰りましょうよ」

    ◆◆◆
     どうやら呪いが解けて、鬼ごっこが正式に終わったらしいことがわかっても、ユイはラギーに抱きついたままだった。あんまりにも胸がいっぱいで、どうしても離れたくなかったから。だが、ラギーが仕方なさそうに「いつまで抱きついてんスかぁ……つーかここ寒いから早く帰りましょうよ」と告げる声を聞いて、思わず眉を下げてしまう。鬼ごっこが終わったからといって、なにかが決定的に変わるわけもない。やっぱりこうなるよなあ、とユイはすこしだけ俯いた。寂しくないといえば、嘘になった。
     ラギーがユイの腕を剥がして、ユイと距離を取る。ニッと歯を剥き出して、人懐こい笑みを浮かべると、片手を差し出した。
     「五秒以内に繋がないと置いてくッスけど」
     「えっ、……嘘!?」
     ユイは耳を疑った。「あの」ラギ〜くんが、自ら手を繋ぐことを持ちかけてくるだなんて。今日一日、ユイが逃げ回ったことに対する小言のひとつやふたつはあると思っていたのに。あたしはあたしに都合の良い夢でも見ているのだろうか、とユイは真剣に考え込んでしまう。そうしてユイがうんうん唸っている間に、ラギーはつまらなさそうに目を逸らした。
     「繋がなくていーんスか? 五ォ……よーん……三、二ィ」「待ってまって! カウントダウン早いって、繋ぐ! つなぐから!」
     せっかちな彼らしく、初めはゆっくり刻まれていたカウントダウンは、すぐ数える間隔が短くなった。ゼロを告げられる前に、ユイは慌ててラギーの手に自分の手のひらを重ねた。
     もう少ししたら、また空を飛ぶホウキを見上げているのかもしれないけれど。いまは彼の冬場でちょっとかさついた、ユイよりも体温の低い手の感触だけが確かだった。
     この二十余年、魔法が使えなくて、うらやましい思いをしたり、悔しい思いをしたりしたことはいっぱいある。でも、ひとりぼっちで飛ぶ空よりは、彼とたわいもない話をしながら飛んでいく空のほうがずっと素敵なものに思えた。
     「……アイスキャンデーでも買って帰るッスか、業務スーパーで。一番安いソーダ味」
     「えっ! ……でもバニラのほうがいいかもぉ」
     「贅沢な人ッスねえ、アンタ……」
     いまのユイがほしがるように空を見上げることはない。ラギーの手のひらのたしかな質感があるから。アイスキャンデーみたいな青はおちてこなくていいし、その青とおなじところまで高く昇っていけなくても、いい。たまにこうして、同居人の彼がアイスを買って帰ることを提案してくれたりするから。ささやかなことに楽しみを見出せることは、とてもしあわせだ。だから、やっぱり魔法が使えないあたしの方がなんでも幸せに感じられていいかもしれない──と思ったりしてしまうのだった。
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