右利き左利き居合い切り 月明かりが僅かに差し込む薄暗い部屋。クッションが硬めのシングルベッド。効きの悪い暖房のカタカタとした無愛想な音に、隣の男が寝返りを打つ衣擦れ音が交じる。
「簓」
呼びかけてみたものの、返事はない。起きたわけではなさそうだ。
普段から体温低めの男は、くっついても湯たんぽにすらならない。それでも、薄いシーツを被るよりは暖かい。左馬刻は自分よりも薄い身体を背中から抱き込み、襟足に鼻先を埋めた。
もぞり、とわずかに振り返る気配。
「……可愛らしいことするやん」
「起きてんのかよ」
「んや起きた。今何時」
「知らね。五時くれぇ?」
簓の腕がサイドテーブルに伸びると、スマホの明かりが左馬刻の瞳孔を刺した。思わず顔を顰める。
「なんやまだ三時やんけ」
「消せや」
「ゴメンゴメン。左馬刻あっち向いてくれへん? 俺が抱っこしたい」
「ハァ……? ン~」
簓はバックハグが好きだ。向かい合うよりも安心だという。
そんな簓を少し臆病だと思うが、口に出したことはない。含む意図はたくさんあれど、言葉にしてしまうとそれはただの悪口になる。
ごろんと反対向きに寝ころぶと、やわりと背中に張り付いてくる寝かかりの体温。左馬刻は腹に回される腕に人差し指をかけ、うとうとと瞼を閉じた。
「……テメェよぉ、コッチこいや」
「ぇえ? もうこれ以上ないほどくっついてんで」
そう答えると、簓は左馬刻の長い両足の間に片足を絡め、左耳たぶをはむりと噛んだ。ン、と短く声を上げた喉を慌てて引き締めるが、簓はあてつけのように『敏感やなぁ』と、宣った。普段カラカラとした声が、寝室では妙に鼓膜に張り付いてしまうのがいつまでたっても慣れない。
先ほどまで尻の中で暴れまわっていたものがまたぐりぐりと押し付けらるのを感じて、左馬刻は眉を顰めた。
「オイ、そうじゃねぇ。コッチ住めばっつってんだ」
「あそういう意味? 珍しいお誘いか思てちょっと元気になったわ」
「別にヤってもいいが朝ヤろうぜ。テメェとは朝ヤりてぇんだよな」
そう言いながら、左馬刻はさすりと簓の腕を撫でる。
一緒にいた頃は、事務所で一夜を飲み明かし、仲間がハケてしまった朝方から事に及ぶことが多かった。転がった缶やビール瓶を蹴り飛ばしながら、眠気に抗いながらセックスをする。むしろ寝たくないからセックスをしていたまであるかも。
だから、カーテンから漏れ出る朝日を見ると、そんな馬鹿で阿呆な日常が思い出される。
「あ、なんかちょっと分かるかもしらん」
「だろ。そんでテメェ、昼三時頃に目ェ覚めて『アカン、一郎達が来よる! 片付けな!』って慌て出すんだよな」
「お前がバレたら嫌や言うからやんけ」
「テメェとヤってるなんざ一郎に知られてたら死んでたなあん時は。今はどうでもいいがよ」
「空却はええんかい」
「アイツは寝たら忘れてんだろ」
「記憶メモリ日替わりて」
くくく、と左馬刻は笑う。首筋にかかる簓の吐息が心地よい。
「んで? 左馬刻は俺と住みたいん?」
「別に一緒に住むなんて言ってねぇ。会おうやってなったらスっと来れる距離に住めや」
「そんなすぐ簓サンに会いたいん? 可愛いやっちゃな」
「タリぃんだよ。会おうやってなってそっからシンヨコ出て切符買ってつらっつらつらっつら変わり映えしねぇ景色見ながら移動とかよ」
「いや富士山に謝って? ニホンが誇る絶景やけど? てかお前オオサカまでわざわざ俺に会いに来たことないやん」
「面倒くせぇもん」
「もんやないねん。そもそも新幹線乗ったことあるんか」
「ある。シンヨコから東都までなら」
「近ッ! もったいな!」
「煙草も吸えねぇしよ」
新幹線は好きじゃない。中王区の時代に喫煙車両が排除され喫煙ルームが設置されたが、その唯一の憩いの場所ですら昨年の三月に全撤廃されてしまった。愛煙家は新幹線に乗るなってか。いっそ一車両貸し切って誰にも文句言われずに吸ってやんよと息巻いたところ、合歓に『お兄ちゃんの馬鹿!』と平手打ちをされた。そういうことじゃないらしい。
「車で来たらええやんけ。前もなんや昔のツレが悪さした時車で来とったやん」
「ヤるだけのために車で六時間もかけて行くのかよ。その辺の女捕まえるわ」
「え、浮気? 浮気よなソレ。俺浮気は絶対許さん派やで」
「俺様を放ったらかしにするテメェが悪い」
「しゃあないやん。オオサカでは売れっ子芸人なんやから」
「コッチでも売れろや」
「頑張ってますがな〜!」
ケタケタと笑いながら簓はぎゅうと左馬刻の身体を抱き締めてきた。左馬刻の乱暴な要求を嬉しいと思っているのかもしれない。
もぞりと体制を入れ替える。ニコニコとしている簓は、良く分からない。考えていることが駄々漏れのようで、何も読み取れなかったりする。
左馬刻は、簓のそんなちぐはぐなところが好きだった。何千文字のディスを鼓膜に浴びせてもまったく堪えなそうなのに、『嫌い』の二文字で膝を折れそうなところも。愚かだなあと思う。
だけど、簓も左馬刻に対して同じような感想を抱いていることも知っている。
「寂しいんか?」
「んなわけねーだろ」
間近に簓の顔がある。じぃと眺めていると、人差し指が視線を逸らすように左馬刻の鼻筋を撫でた。
「…………一緒に住んだら、喧嘩すんで」
「だろうな」
「しょっちゅうな、しょっちゅうすんねん。しょうもないことでめっちゃ揉める」
それがどうした、と左馬刻は思う。他人同士が住むのだ。喧嘩しないわけがない。
「皿洗いどっちすんねんとか、夕飯どっち作んねんとか、冷房の温度低すぎる~とか、リモコンどこ置いてんとか、テレビの音量とか、洗濯モン一緒にすなとか…………隣に座ったら肘あたる~とかな」
「ソイツはテメェが左利きだからだろうが。今でもクソ邪魔だと思ってるわ」
「えもう無理やん。辛すぎ」
「向かいか斜めか床にでも座っとけや」
「急な人権剥奪……」
しゃべりながら落ち込んできたのか、簓の声音はみるみる地に落ちた。
「…………邪魔だとは思ってっけど、嫌じゃねぇよ」
「そうなん?」
これは本心。
邪魔だ。だが、それも含めたすべての会話やコミュニケーションが、簓との飯の時間だと思っている。
「俺も好きやで。お前が右手で綺麗に箸持って食ってんの、ええなって思う」
「別に好きとは言ってねぇよ」
「え〜言わせといてそんなんズルやん」
そう言ってまたしくしくしだす簓。夜中の三時に情緒不安定な男だ。
目の前に、そんな情けない姿が愛しくて堪らないと思っている恋人がいるとも知らずに。
「…………なあ、来いよ」
「嫌や。絶対俺嫌われて離婚するやん」
「いやそもそも結婚してねんだわ……つかよ、別に喧嘩なんて、なんべんだってすりゃいいじゃねぇか。二年くれぇ口きかなかったことだってあっただろ」
「……せやけど」
「俺様もテメェもテメェの親じゃねぇし、俺様の親でもねえんだ。片方変われば結果だって違ぇ。両方違やもう何の因果もねぇだろ。最悪なとこばっか見る癖治せや」
「…………」
簓は黙った。いつもヘラヘラ口元に三日月を浮かべている姿を見慣れている人間は、無表情な簓を見たら怖くて逃げだすかもしれない。
でも人間、笑えない時間は絶対にある。
その裏の顔の方が、暴力的で差別的。左馬刻好みなのだ。
「別れることになるかもしらん」
「なんねぇ」
「嘘や。そんなんお前が一番分かってるやん」
「そうだな。そんな俺様がそうなんねぇっつってんだからなんねぇ」
「なんやソレ。神様なん?」
「おん」
「…………お前怖いわ」
怯えたような声を出す簓に、左馬刻はぞくぞくした。じぃと垂れさがる眉尻に、きゅうとする心臓。
「俺な、お前のこと武士みたいやなって思たことあんねん」
「ハ? 武士?」
「せや。こう…………芯に曲がらんモン一本通してて、矜持に倣わへんモン片っ端から切り倒していくみたいな。頼りになんねんけど、たぶんベストな道のりではないとこ歩いてるっていうか、ついてったら無事やねんけど割とギリギリなとこ歩かされてるゆーか……」
「ディスってんな?」
「いやまぁ、なんちゅうか。苦労させられんねんけど、不安がいつのまにかスパンとなくなってんねん。弱音吐いても、大丈夫や、ゆうてすぐスパスパ切ってくれるやろ」
今みたいに。
そう言って、簓は二ヘラと笑った。
「俺はそういう、お前のアホで不器用で、まっすぐなとこが好きや」
「…………」
ポ、と頬が燃えた。
何の捻りもない告白は、そのままさくりと左馬刻の心を抜いた。
弱みを見せて、相手の懐に入ったところからノーモーション。胸ぐらを掴まれたと思ったらもう肝心の所は切られている。出会った頃と同じだ。
仲間に入れて、コンビを組んで、俺を傍に置いて。
簓はいつも、こたつの中の猫みたいに、左馬刻の心の中に潜り込んでくる。
ぐぅっと胸が膨らむのを感じ、左馬刻は横顔をますます枕へと沈めた。
「落として上げんな、や……タコ」
「一緒に住もか」
侍はテメエだ。そんな言葉を飲み込んで、左馬刻はわずかに目を細めた。
赤い瞳が、揚々と近づく深緑の影に、静かに澱んでいく――――。
▽▼▽
「ところで、いつも漫談のネタ蘆笙に見てもろててんけど、ソレ左馬刻もやってな」
「マジか急に不安になってきたわ」
「なんでやねん」
〜おしまい〜