タイトル未定「あの屋敷に近寄っては駄目」
どんな大人も口を揃えて言った。祖母が言うには鬼が出る。叔父が言うには幽霊が出る。叔父の妻が言うには悪魔が。母親と同じ布団で寝ていた頃の少女は、大人達の脅しにまだ素直に怯えていた。しかし少しばかり齢を重ね、一人で起きて、自分で選んだ服を着るようになった頃。
「鬼が出るからの、絶対に五条屋敷の近くには行くなよ、連れて行かれるぞ」
空気で膨らむゴム製のボールを小脇に抱えて麦わら帽子を被る少女の背中に、暖簾を上げた祖母が念押しした。少女はボールを小さな両手に持ち直すと、ふりむいて応える。
「……はぁい、」
さっきまで台所でそら豆のさやを剥いていたのに、わざわざ裏口まで追いかけて来て忠告する徹底ぶりには、いつしか恐怖よりも疑問が勝(まさ)っていた。
庭先で待っていた同い年の従兄弟は、外に出てきた少女を見るなり『ボールを寄越せ』と手を構える。比較的砂利の薄い、黒い土がむき出しになった地面に向かってボールを投げつけると、二回弾んだところで従兄弟の手元に渡った。ここは確かに車通りの少ない土地ではあるが、彼は碌に安全確認もせずに道路に飛び出して走って行ってしまった。東京で育てられた少女はその辺の躾がなっている。車の往来が無いことを確認し、少し遅れて従兄弟の後を追い掛けた。雲が低く垂れ込んだ、夕立の気配のする午後だった。
少女は大人の言うことを聞くほうだ。けれど従兄弟の方は少々聞き分けが悪く腕白で、誰がどんなに警告しても糠に釘といった具合だった。
「ねえ、そっちはやめよう! お屋敷がある方はダメだよ」
「大丈夫やて、何も出ぇへんよ」
公園とは名ばかりの、屋敷の近隣にある空き地で遊びたいようだ。鉄棒や雲梯こそ無いが土地は広く、芝は短く刈られていて、めいっぱい力を込めてボールを投げても田んぼや用水に落ちる懸念はない。しかし少女はそれを魅力的には感じなかった。そもそも家で祖母たちのさや剥きを手伝っていても良かったのに、押しの強い従兄弟に無理やり連れ出されたのだ。従兄弟も別に少女を特別気に入っている訳ではなく、一番歳が近いのが少女だったので仕方なく誘っているだけだった。少女が母方の実家である京都へ帰省した際の、盆と正月の年に二回くらいしか顔を合わせないが、人見知りせず彼女を自分の遊びに付き合わせる。良くいえば気易い。悪くいうなら、ずうずうしい。
「私、そっちには行かないよ」
すぐ側に聳える屋敷の築地塀を横目で見やり、いやいやと首を振る少女のしぐさに従兄弟は舌打ちをした。
「やから大丈夫やて。よく、遊んでる、し!」
大きく足を踏み出して投げたボールは少女の横を過ぎ、塀に当たって勢いよく跳ね返った。それを見た少女は怖くなり、公園の入口でボールを投げられるよりはマシだと、せめて土地の奥の方で遊ぶように説得した。
「大体おかしいやん。みんな言うこと違うし。鬼とか幽霊とか、ほんまはどれやねんって話」
確かにそうだと、少女は心の中で思った。屋敷に近寄って欲しくないという気持ちこそ本当なのだろうが、その理由がわからない。脅しであることまでは理解出来たが、その次はなぜ脅すのかが謎のままだ。
「怖い人が住んでるんじゃないのかな。怒らせたら駄目だから、大人は嘘ついてるのかも」
「ふーん」
彼は興味無さげに鼻を鳴らしたあと、空き地から別のボールを持ってきた。ドッジボールで使うような硬いボールで、黄色と水色の模様が色鮮やかなことから真新しいことが分かる。
「土管の中に隠してんねん、誰でも使っていいやつ!」
そう言って思い切りボールを放ったのだが、それはつらなる塀を悠々飛び越え、屋敷の立派な瓦の上に大きな音を立てて着地した。その後は屋根の斜面で勢いをつけて転がっていったのだが、どこに落ちたかここからは見えない。少なくとも確実に屋敷の敷地内に落ちた。
少女はまず、ボールを投げた張本人の顔を見る。流石に焦りが見えて、噛み締めた歯の間から徐に空気を吸った後、自宅の方へ走って逃げてしまった。
「帰るの……」
従兄弟が駆けて行った道と屋敷とを交互に見ては、その場で足踏みをする。追い掛けて一緒に帰ってしまえばいいものを、責任感の強い彼女は泣きたい気持ちを抑えて、家主に謝りに行くために門を探した。
屋敷のすぐ隣は林になっているのだが、正門のある塀は林の中に差し掛かっていた。この両開きの巨大な門がいったいどうやって開閉するのか想像がつかない。重たそうな閂(かんぬき)が一本通っており、それがますます歓迎されていないという気分にさせる。ひとつ息をついて、呼び鈴を探した。しかし『五条』と書かれた大きな表札があるだけで、どこにもそれらしきものが見当たらない。様子見に塀の周りをぐるりと半周すると、大人の背丈くらいの小さな、しかし出入りするには十分な大きさの扉を見つける。身内が使うくぐり戸であった。子供ながらに余所者が使う扉ではないことを察したが、そこから出入りする人間を待って事情を話すしか方法が無かった。
くぐり戸の近くに座って空を見上げた。厚く空を覆う暗雲が、少女を一層心細くさせる。五条家の関係者どころか、普通の人ですら一人も見かけていない。この辺りの土地や事情に明るくないが、行き先の決まった人間しか使わない道なのだろう。太陽の位置もわからないから、今が何時なのか予想がつかない。怒られ慣れていない少女の気分は晴れないまま、時間だけが過ぎていく。
何の前触れも無かった。不意に扉が開いて、少女は一寸遅れて身構えた。紺の着物の上から羽織りを羽織った青年が姿をあらわして、座り込む見知らぬ少女を目にとめると立ちどまった。
「何してんの、どこの子?」
和服といえば老人のイメージがある少女は、目の前の男の姿勢の良さにちぐはぐな印象を抱いた。白髪だけれど、祖父のようにごま塩のような色合いでなく、均等な色合いで毛艶も良い。喉元の皮も余っていないし、頬は白くすきとおっている。まだ少ししか言葉を発していないが、彼の声には少年の色が残っていた。
「あの、えと、ボール……」
下を向いてもごもごと口を動かすが、身長差も相俟って、少女のか細い籠った声は青年の耳には届かなかった。
「あ? ごめんもっかい言って」
青年本人にそのつもりは無い。ただ本当に聞き逃しただけなのだが、少女は既に怒られている気持になった。涙を堪えると今度は声が出せなくなってしまう。青年は俯いたまま黙り込む少女の前にしゃがんで顔を覗き込むと、今にも泣き出しそうな表情をみつけてぎょっとした。
「なに、転んだの?」
腕や膝、出ている肌をざっと見ても傷は見当たらない。青年はお手上げ気味で、頭をがしがしと掻きながら『迷子なら交番に連れて行かなければ』と考えているところでやっと少女が声を上げた。
「さっき、ボール落ちちゃって」
「……あぁ、」
それで取りに入りたいわけか。青年はくぐり戸を押して、少女が通れる程の隙間を作った。
「いいよ、」
促すと、少女は小さく頭を下げて礼をする。体を若干小さく屈めたまま小走りで戸をくぐった。青年もその後に続き、後ろ手に戸を閉めた。