💜HBD『きっと今日は素敵な一日に』 ――流石に、疲れた。
天堂天彦は小さなため息を吐き出すと、静寂に包まれたリビングに佇むソファへ腰を落とした。
12月がやっとこさ始まった頃。もうあと30回も眠らないうちにやってくるクリスマスや年末年始といった二大イベントに、備えようかという時。ワールドセクシーアンバサダー、通称WSAとして仕事を重ねる日々は多忙を極めていた。
共に暮らすセクシーな皆様が待つ仮住まいへ帰宅出来ず何日か、やっと休暇が取れて帰宅したのが少し前のお話。手に握りしめたままの冷たい箱が示す時刻は、午前1時30分。
『冷蔵庫の中に、天彦さんの晩御飯も入れておきますね。温めて食べてください』
帰れない日々が続く中、住人の皆さんからは幾つもの心配のメッセージが届いていた。やっとこさそれら全てに目を通して、『今日帰宅します』と短い返事をした後の事。この家の家事全般を担当している本橋依央利による返事に、疲れた心が温まるのを感じながら帰宅して、今。
いつだって賑やかで、明るくて、騒がしさに包まれた自宅。誰かがいたという温もりが残ったリビングで、たったひとり。自分が繰り返す呼吸の音だけが部屋中にこだましている。
依央利が残してくれた晩御飯は、一度冷やされたとは思えない程に美味しかった。帰宅して直ぐに向かった浴室も、沸かされたばかりだったようで直ぐに入ることが出来た。
――至れり尽くせり。
そんな言葉が似合うな、と考えること数分。
ソファに預けた身体は、ずるずると力なく傾いていく。思わず、近くにあった毛布に手を掛けて。身体に広げたらもう、動くことは出来なかった。この家で使われている柔軟剤の香りと、きっと誰かが使っていた毛布に染みた落ち着く香りに包まれて、少しずつ意識が遠くなっていく。
身長の高い天彦にとっては、手狭なリビングのソファ。足をほんの少し曲げて、上体を縮こめるようにして、それから。
疲労のせいか気怠い身体に意識を預けて、どこまでも落ちていく。
○×
「―――――ざいます!! おはようございます!!おはようございま〜す!!」
――……、朝。
あれからどのくらいこの場所で寝ていたかを計算するのは、寝起きの頭でも簡単であった。昨晩携帯の画面で確認した時間から、毎朝の恒例行事まで時間が飛んだという事は、凡そ4時間寝ていたことになる。
――良く、寝た。
寝落ちたことを認識した瞬間に冴えた頭は、現状を確認しようと動き出す。手に持ったままの携帯は充電が切れていて、曲げっぱなしだった足は少し痺れているものだから、立ち上がることは出来なさそうだった。視線だけで近くを見やれば、昨晩食べてからそのままにしてしまった空き皿が目に入る。
――片付けないと。
いくら疲労が限界を迎えたとはいえ、自分はいい歳をした大人でもあるのだ。理解の挨拶を筆頭に、段々と賑やかになっていく家。リビングの扉を一枚挟んだ向こう側では、一体全体何が起こっているのやら。そんな怒鳴り声に近い何かを背景に、一先ず起き上がる。
「……、い″っ、」
床に足を着いても大丈夫だろうか。痺れたままの足で地を打つと、存外力が入らずに倒れてしまう事も多い。それだけは避けようと恐る恐る指先で触れれば、ビリッと走る痛みに声が漏れた。
「え、誰……?」
「……、あ、依央利さん。おはようございます」
――ああ、気が付かなかった。
いつの間にか朝食の準備を始めていた依央利が、不思議そうな声を上げる。反射で挨拶をすれば、依央利は手にしていた包丁を置いて、ペタペタと足音を立てながら此方まで走ってきた。
「天彦さん! 帰ってこられたんですね」
「えぇ、昨日の晩ですが……」
「お疲れ様です。間に合って良かった……!」
背もたれに濡れたままの手をついて、早朝とは思えないほどに明るい笑顔を見せる。何度か「良かった」と零す意図は分からないが、帰宅しただけでそんな反応をして貰えるというのは、嬉しいものである。
「ここで寝ちゃったの?」
「ええ、まあ……、お恥ずかしながら疲れてしまっていたようで」
「そっか。お風呂は入りましたか?」
「もちろん。沸かしておいていただいたみたいで、助かりました。御夕飯もごちそうさまでした」
「いいえ〜。今晩はもっともっとご馳走を用意していますからね」
「……、あ、依央利さん、それは僕……、っ″」
なんて事ない会話の途中で机の上に広げられたお皿を見つけては片付け始めた依央利を、制止しようと手を伸ばす。が、地に足を付けた瞬間広がる痛みに呻き声を上げることしか出来なかった。
「え、……、大丈夫です?」
足の痺れとは存外厄介者で、酷い時は長く続くものだ。頑張って伸ばそうとした所で持続する痛みに、顔を顰めることしか出来ない。
「大丈夫、大丈夫です。足が痺れてしまったみたいで」
「なんだ、ビックリした」
心配そうな表情から一転、そう零した依央利は笑いながら、「どっちの足ですか?」、なんて言うものだから。思わず「左です」と反射で答えれば、えいっと優しく踏まれる左足。
走る電流。
「い、……っ、痛い、痛いですって!! なんでそんなことするんですか!?」
咎めるように見れば、くすくすと楽しそうに笑ういたずらっ子は、汚れたお皿を器用にも積み重ねて走り去っていく。
――まったく。
キッチンの方からお皿を洗う水音が聞こえ始めたのは、それからすぐの事だった。なんだかいつもに増してご機嫌そうな依央利は、恒例のよく分からない鼻歌を歌いながら家事をこなしている。
トントン、と食材を軽快に切る音。チン、とレンジが温め終わりを告げる音。いつの間にか開け放たれたリビングの窓から入る冷たい風にのって、色んな音が流れていく。
ここ最近は仕事ばかりで、こんなにものんびりとした極普通の生活音なんて耳にも入れていなかったから、それが無性に落ち着いて仕方ない。
と。
「おい! 天彦、大丈夫か!」
リビングの扉が壊れるんじゃないかと言う程に勢いよく開けながら登場したのは、猿川慧だった。その後ろからは「猿!壊れる、丁寧に開けろ」と咎める理解の声に、「ぁ〜、ぁ、」と声にもならない呻き声を上げながら理解によって引き摺られる伊藤ふみやの声が続く。
「えぇ、大丈夫ですけど……、おはようございます?」
「おぉ、おはよう。いや、お前の叫び声が聞こえたからよ」
ドタドタと小走りでソファまでやってきた猿川は、こちらの顔をのぞき込みながら首を傾げてくる。反射で挨拶を返したことには気が付いていないのか、単純に心配そうな顔をする彼の根は心底優しいのだろう。
――なるほど、聞こえていた訳か。
「ちょっと、足が痺れてしまいまして」
なんて。この悪戯幼なじみへ素直に零してしまったのが間違いだった、と気が付いた時にはもう遅い。
「どっちの足だ?」
えい、えい、と。朝から髪の毛をきっちりセットした猿川は、毛布からはみ出した右足を指先で突っつく。反応がないのを見て、「じゃあこっちだな」と悪い笑顔で言いながら左足を狙う彼は、想像以上に楽しそうで。天彦は指先から逃げるように左足を動かすものの。
「え。天彦、足痺れてんの?」
と、いつの間にか目を覚ましたらしい低い声が、目の前から落ちてくる。ついでと言わんばかりにつま先で左足を踏まれて。出来たのはひとつ小さく呻くことだけだった。
「……、はは、痛かった?」
「い″、ったいですよ、それは!」
人の前に屈んでまで未だに左足を狙おうとする19歳と22歳は、ふふ、と、キャハハと笑い合う。痛みに悶えるハウスの最年長が面白いのか、逃げる此方の体勢が面白いのか、ふたりして手を伸ばしてくる様は怖い。
「こら、猿。天彦さんは疲れてるんだ、いい加減にしろ」
「はァ? なんで俺だけ、ふみやもやってンだろ」
「ふみやさんはいいんです」
「ンでだよ!」
「いぇい」
――あァ、救世主……。
正直、そうこうしている間に痺れは殆ど消えていた。それでも突っつこうとする悪い子ふたりから逃げるべく、背もたれから脱走を試みていた時だった。両手に湯気の立つマグカップを持った理解が現れて、床に転がるふたりを一蹴する。
ひとり咎められた猿川はつまらなそうに顔を顰めると、「いお、腹減った」とキッチンの方へ。一方、説教を回避したふみやは真顔で此方へピースをしたまま、「依央利。今日のスイーツ、何?」と猿川の後を追いかけた。
「……、はァ、アイツら朝から元気ですね」
「……え、……理解さんも大概元気だと思いますけどね。 あぁ、ありがとうございます」
「……?」
それと同時に近くのひとり用ソファに腰掛けた理解は、片方のマグカップを「どうぞ」と手渡ししてくれた。中を覗けばいつもの白湯が入っていて、助かるな、なんて。一口含めば、リビングで寝落ちたせいか冷えた身体にじわりと染み渡っていく。
「今日は、お休みですか」
「今日、ですか? 休みですよ。何か用事でもありましたっけ」
理解の問いにそう言えば、「「えっ」」と声が重なった。これまたいつの間にか来ていた、テラも同じように声をあげたようだ。
「おかえり、おはよう、天彦」
「ああ、テラさん、おはようございます」
既に仕事に行く準備は出来ているようで、頭の先から足の先まで完璧に整えてある。片手にはノートパソコンを抱えていて、どうやら朝食までの間に作業でもするようだ。
「天彦、もっとそっち寄って」
「あぁ、はい」
「理解、テラくんもそれ欲しい」
「もう用意してありますよ」
空いていたソファの隣に腰掛けたテラは、パソコンを開いてそれぞれに指示を出す。席を立っていた理解は新しいマグカップを持ってくると、テラに渡してまた定位置へ。
「仕事、忙しいのですか」
カタカタ、と。騒がしいキッチンと比べれば静かな時間の中で響く軽快なタイピング音のなかに、時折「う〜ん」と唸るテラの声が混じる。思わず問えば、テラはきょとんとした顔をした後に、小さく口角を上げて笑った。
「まぁね。今日は早く帰ってこないといけないし」
「今日、……、やっぱり、何かありましたっけ?」
――今日、きょうは。12月。
12月の、何日だっけ。ポケットに適当にしまった携帯はアテにならないし、かと言って周りを見渡しても日付の分かるものは置いていない。日付を言おうとした理解へ、テラが「理解、静かに」と言ったのは何故か。
今日が何の日か忘れただけでこんなにも驚かれるのは何故か。どことなく浮き足立った皆の様子は、一体全体。
「……あの、」
「うわぁ!? 大瀬さん、……、いつからそこに?」
「……、少し前から、居ましたよ」
ソファの影から顔を出した水色の髪は、驚くこちらの様子に驚いたようで、黄金色の瞳を大きく開きながらも会話を続けてくれる。
「今日は、12月6日ですよ」
――12月、6日。
そう言った彼の腕には、この家では時たまに見かける段ボールが抱えられていた。その中には、仮住まいで行事毎に行われるパーティで使用する飾り付けが幾つか。大瀬が居る場所を覗き込めば、新しい飾りを作っているようで、紫色を主としたリングが沢山あった。
――えっ、と。
「何か、ありましたっけ」
あまりにも思い出せずに、そう告げれば。
「「「えぇ!?」」」
と。その場にいた3人の声が重なった。
「今日は、天彦さんの誕生日じゃないですか」
そう目を細めながら楽しそうに言ったのは、理解。
「忙しすぎて、自分の誕生日まで忘れたの?」
ほんの少し呆れたように笑うのは、テラ。
「天彦さん、……、その、お疲れ様です」
飾りをひとつ、天彦の手に渡しながら呟くように労いの言葉をかけたのは、大瀬。
――そうか。
誕生日、か。言われてみれば本日12月6日は天堂天彦の誕生日である。正直な所、今日という日の存在は忘れていた。仕事で忙しく、最近は自宅に帰ることすら出来ていなかったから。
誰かの誕生日が来る度にパーティーを開くこの家では、数日前から主役を除いた6人で作戦会議をするのだ。でも、皆どことなく隠すのが下手だから、それを見た主役がソワソワしてしまうのが恒例行事だというのに。……、完全に忘れていた。
「皆さーん! 朝ご飯、出来ましたよ」
そんな依央利の声に皆が振り返って、ゆっくりと移動を始める。視線を動かせば、ふみやと猿川は既に着席しているし、隣にいたテラと理解も、影に隠れていた大瀬まで食卓に向かっていた。慌てて、もう痺れのない足を地に着けて歩き出して、席につけば。
「なぁ、天彦。お前本当に忘れてたのかよ」
「えぇ、まぁ……」
既に箸で摘んだ鮭を頬張りながら、猿川がひとつ。
「じゃあ、天彦は今夜の約束も忘れたんだ」
同じく白米を咀嚼しながら、それをゆっくりと飲み込んで、ふみやがひとつ。
――今夜の、約束?
ひとまず手を合わせて「いただきます」と小さく零してから、天彦は首を傾げる。斜向かいの席で飯を頬張る青年と交わした約束は、残念ながら覚えてはいない。
「え、本当に覚えてないの?」
皆へお茶をつぎながら歩いていた依央利が足を止めて、こちらを見やる。それに釣られて見てくる皆の視線は、どこか痛くて、でも優しくて。
「誕生日の夜は、美味いモン食いに連れていく、って言ってたのはお前じゃねェか」
食器のぶつかる音が響くリビングに、猿川がまたひとつ。それを皮切りに皆が口を開いていく。
どうやら少し前、自分の誕生日は家でのパーティーではなく、どこか素敵な場所で美味しいディナーを食べたい、と零したのは自分だったそうだ。珍しく依央利も納得して、じゃあそういうことにしようと、決まったのは1ヶ月ほど前のこと。言われてみれば確かにそうだったかもしれない、なんて。この歳になって家で祝われるのはなんだか気恥ずかしくて、折角ならと提案したのを思い出す。
そうだ、そうだった。皆で集まる夜にすっかりクリスマスムードの街に繰り出して、買い物をしてみたり遊んでみたり、それから美味しいご飯を食べに行きませんか、と告げたのは天堂天彦自身だった。
――でも。
久しぶりに帰宅したこの家は、変わらず賑やかで、明るくって、うるさいと思うほどに騒がしいはずなのに心地よくって仕方がないから。
折角なら、帰宅して自室に帰ることも無く、落ち着く雰囲気や香りに包まれて眠ってしまう程に安心するこの家が、自分の帰る場所であると改めて思ってしまったから。
だから。
皆で外に出かけるのも魅力的で堪らないけれど、なんとなく、今は、今日こそ、自分の誕生日だからこそ。
「あの、……皆さんが良ければ、やっぱり家でのパーティーにしませんか」
そう言えば、思い思いに話していた皆が静かになって。それぞれが少しだけ口角を上げながら顔を見合せて。クスクス、と誰かの笑い声が盛れた瞬間。
「元からそのつもりでしたよ」
と。
「もうパーティーのご馳走の準備は進んでいますからね」
と。
「……、装飾もバッチリです」
と。
「今回もテラくんとおばけくんの監修だから楽しみにしててよね」
と。
「ほらな?」
と。
「なんだ。美味しいご飯ってやつも食べたかったのに」
と。
6人分の声が重なって耳に届く。最後に発言したふみやが皆に咎められるのを待って、天彦は小さく息を吐き出した。
こんなにも心の奥底から温まるのは、いつぶりだろうか。いくら適温の湯船に入ろうとも、いくら睡眠を良く取ろうとも、いくら美味しいご飯を胃に詰めようとも、そう簡単には感じることの出来ない温かさを噛み締める。
「ありがとうございます」
その言葉は、天彦の発言を待つ前に騒がしくなった食卓に、静かに優しく溶けていった。
fin.