文三木『それは、きっと。』 それは、きっと。
新学期を迎えた忍術学園における特大イベントのひとつである予算会議が始まる、数日前の事だった。
かくかくしかじかで夏休みが消し飛んだ私たち四年生が、各々のやるべきことを終えて、ヒマを潰していた頃。夏の終わりとはいえ、茹るような暑さに汗を流す日々。
夏休みを減らされた二年生から順に学園へと戻り始めて、しばらくの間静かだった長屋が賑やかな声に包まれていく、そんな時のこと。
私はその瞬間、ぼうっとしていた。
四年生の長屋の傍で、四年い組の綾部喜八郎が我武者羅に穴を掘りまくる音。同じく四年い組の平滝夜叉丸が喧しい舞を繰り広げる音。それから、そんなふたりを見守るかのように縁側へ腰かけた、四年は組の斎藤タカ丸さんが縁側で茶を啜る音。そんな音が幾多にも重なり合って耳へ届くものだから、何だか悔しいけれど、存外心地よくって。諸事情で睡眠時間を削っていた私の眠気を誘うには十分だったのだ。
だから、うと、うと、と。
陽の光が荒格子を避けたおかげで、薄暗くなった自室で共に過ごしていたユリコに手を添えながら舟を漕ぐこと少し。その瞬間、というのは訪れた。
「三木ヱ門、入るぞ」
最初は、本当に誰の声かすらも分からなかったのだ。
遠くから自分の名を呼ぶ声がするなあ、とか。少しざらつくような声だけれど、なんだか落ち着くなあ、とか。呑気な事を思いながら目を開けると、そこに居たのは、まだ暫くは戻らないと思っていた御方なわけで。
「わあ」
「……、わあ、とはなんだ。失礼な」
「いたっ……」
思わず口をついて出た感嘆の言葉は、どうやらその御方のお気には召さなかったらしい。少し膨れたような表情を見せると私の前にしゃがみ込んで、その節くれだった指で私の額を弾いた。そうして小さく笑い声を漏らして胡坐をかく姿のなんと自由奔放なことか。
――それにしたって一体全体、何の御用で。
私は弾かれた箇所を手のひらで摩りながら、こちらを見やる殿方を見つめることしか出来なかった。反対に殿方――我らが会計委員会委員長にして、学園一ギンギンに忍者していると名高い六年い組の潮江文次郎先輩――は、何がおかしいのか上げた口角を戻すことなく此方を見てくるものだから、どうしたらいいかわからないというものである。
――……戻った、ばかりかな。
わざわざ四年生の長屋まで足を運び、わざわざ同じく会計委員会を務める私の部屋にやってきたのは潮江先輩だ。何か御用があるというなら、先輩の方から話を切り出すだろう。見慣れた深緑の忍び装束ではなく、私服に風呂敷を背に担いだままやってきた潮江先輩をまじまじと見つめること、しばらく。
「して、三木ヱ門」
「はい」
「おまえ、夏休みの間で帳簿の整理をやってくれたそうじゃないか」
「ええ、まあ、その……、ヒマでしたからね」
本来であれば、この夏休みは佐竹村でプロの狙撃手に教えを乞う予定であったのに、どこぞの平滝夜叉丸のせいでこの様である。
別段、帳簿の整理自体、潮江先輩や安藤夏之丞先生に頼まれた訳では無い。ただ、夏休みの間学園に引きこもって出来ることなど、裏山での鍛錬か委員会の仕事くらいなもので。気が付けば日常の一部となり身体へ染み付いた放課後の委員会活動は、来たる予算会議のために私を奮起させたのだ。
長いと感じた夏休みの間、自室へ戻ったのは僅かな日数だった。日が暮れてからの殆どを、普段こそ会計委員会の皆の息遣いやら、算盤を弾く音やら、書き物をする音で溢れかえる会計委員会の部屋で過ごす日々。皆が残した帳簿と向き合いながら、その文字をなぞる毎日。
一年は組の加藤団蔵の書いた字が読めなくてむしゃくしゃする、とか。一年い組の任暁左吉がつけた帳簿は綺麗にまとめようと努力した跡が点在していて微笑ましい、とか。三年ろ組の神崎左門が徹夜の末に残したミミズのような字に思わず笑ってしまったり、とか。
潮江先輩の字はとっても達筆だけれど、鍛錬を良くしているからか、何だかちょっと草木の匂いが半紙に染み付いているな、とか。
普段は何気なく受け止めていた日常から色んな発見しながら、寝落ちするまで向き合っていたのだ。だから、辛かった、とか、苦しかった、とかそんな負の感情はほとんど無くって。ただ、楽しくって。もしかしたら、夏休みから戻った潮江先輩に褒めてらえるかも、なんて、そんな気持ちまであったりして。
この夏の事を回想しながら、私はふぅと小さく息を吐き出した。ちらりと視線を上げれば、件の潮江先輩は部屋を見回しながら落ち着かない様子だ。
――本当に、一体全体、何をしに?
口は開かず、ただ、胡座をかいてそのまんま。
自分よりも二年長く生きていて、自分よりも背丈もがたいもあって、心より尊敬とお慕い申す先輩が、なぜここに?
と。
視界が、ふわりと塞がれる。
その正体が潮江先輩の手のひらによって押さえつけられた自分の前髪であると気が付くまで、僅か数秒。
「……ありがとうな」
それから、優しくて柔らかい、ちょっぴり大人な穏やかな声色が落とされる。
――えぇ。
思わず閉じてしまった両眼を開ければ、目の前に広がっているのは、そっぽを向きながら笑う潮江先輩だった。なんだか、思い違いでなければ、ほんの少し照れたような、気まずそうな、不器用な仕草を見せている、から。
「潮江、先輩……?」
「……悪い」
咄嗟に名前を呼べば、謝罪とともに額に当てられていた温かい手のひらがパッと離れていく。ああ、ちょっと、名残惜しいな、なんて。久しぶりに感じた先輩の体温と、どこかで鍛錬でもしながら帰ってきたのか夏らしい草木と土の匂いと、それから、それから。ええと、なんだっけ。
滅茶苦茶になった思考が頭をいっぱいにしていく中、潮江先輩は静かに立ち上がった。慌てたせいか崩れた風呂敷を確りと元の位置で背負い直して、自身の頬をかきながら、言葉を続ける。
「三木ヱ門」
「……はい!」
「今宵、ヒマか?」
「はい、ヒマですが」
「……そうか。なら、帳簿の最終確認をしないか。予算会議もあと数日だ、先に俺たちで最終確認までしておいた方が楽だろう」
「確かに、そうですね」
最もらしく続ける潮江先輩は、今度は髪をくしゃくしゃとかくと、未だ呆けたままの私の横を通り過ぎていく。
「それじゃあ、暮れ六つの鐘がなる頃に俺の部屋に来い。帳簿の準備はしておくから」
そうして、そんなことを言い残して、潮江先輩は出ていってしまった。ぴしゃり、と襖を開けて、ぴしゃり、と襖を閉じて、出ていってしまった。
それって、つまり、どういうことですか?
ユリコを綺麗にしてあげようとユリコにかけていた布が落ちるのも構わず、咄嗟に立ち上がったからか装束が乱れるのも構わず、私が追いかけた時には潮江先輩の姿は無かった。
――そんなのって、だって。
私は、その場に崩れるようにしゃがみこんで、膝を抱えることしか出来ない。だって、だって。
潮江先輩は、人に感謝を述べる時にそっぽを向いたりなんてしなかったじゃないか。会計委員会で潮江先輩の誕生日を祝った時だって、普段の生活で何かの受け渡しをする時だって、真っ直ぐこちらを見て誠心誠意の「ありがとう」を伝えてくれるじゃないか。だから、そんなのって。
潮江先輩が残した言葉の意味よりも、先輩の仕草のひとつひとつが堪らなく甘く、やわらかに、私の心に溶けていくから。溶けて、とけて、消えていくから。潮江先輩の大きな手に触れられた、たった一瞬、触れられた、たった一箇所が、熱を持って仕方がないから。
それは、きっと。
〇×
時は流れ、陽は私の心など知らないとでも言うかのように沈み、あっという間に鳴った夜六つの鐘。
あれから、潮江先輩が私の部屋を後にしてから、ずっと。私は、ユリコと話していた。煮え切らない感情と、認めたくない自身の気持ちと、何もかも。同室が居ないからと、同級が傍に居ないからと、つらつらと話していたのだ。
潮江先輩と私の関係は、少しおかしい。
ただ同じ委員会の先輩と後輩か、と問われればそれは違う。ならば恋仲か、と問われればそれも違う。ならば自然と溜まる思春期の欲を発散する間柄か、と問われればそんなのは絶対に違うと否定する。
二人で出かけることは良くある。委員会だとか、実習だとか、ただの先輩後輩としてのお出かけだとか、沢山。そんな時に、手を繋ぐことだってある。互いの一番弱いところに触れることだってある。
でも、口吸いはしない。それ以上の関係になることもなかった。
だって。別段互いに愛の言葉を交わした訳ではないから。最も、私は、自身の感情に見て見ないふりをしているのだけれど。だって。だって。言ったら、少しでもそんな情が表に出てしまったら、潮江先輩の迷惑になるだろう。あと少し、この暑い夏が終わって、紅葉美しい秋が終わって、雪降る寒い冬が終われば、桜咲く空の下で、先輩達は行ってしまうのだ。もう二度と会えないかもしれない。もう二度と、その手を、その体温を、その声を、感じることは出来ないかもしれないのだ。
だから。だから、辞めて欲しいのに、辞めてくれなんてそんな言葉を言えなくて、どのくらいの月日が経ったのだろう。
気付いていた。
私は、ずっと、自分の気持ちに気が付いた頃から、潮江先輩の気持ちにも気付いていた。
私のことを、好いてくれていること。
私のことを、ただの後輩とは思っていないということ。
でも、気が付かないふりをしていた。気が付かないふりをしていたかったのに。
どうして。
いつの間にか無視できなくなって、いつの間にか潮江先輩に流されて、いつの間にか、いつのまにか、いつのまにか。潮江先輩の甘さに包まれる事が嬉しくて、潮江先輩の優しさに愛される事が嬉しくて、抜け出せないのだ。
――……、眠い。
四年生は中々立ち入ることの無い、六年長屋の、六年い組立花仙蔵先輩と、潮江文次郎先輩の部屋の、隅っこ。潮江先輩が愛用しているという小綺麗で少し手狭な文机の前でふたり。
流されるままに部屋へお邪魔して、帳簿を捲ること一刻。私は、色んな感情に思考を繰り広げるうちに、私の元へやってきた睡魔と戦っていた。
別段、潮江先輩の自室へ招かれたことは、今日が初めてではない。喜八郎が立花先輩に用事があるからと付き合いで来たこともあれば、潮江先輩と立花先輩に実習の相談をするために来たこともある。それに、会計委員会の仕事を持ち込んで夜通しやったこともあれば、単純に、……その。二人で出かけたあと、立花先輩が居ないからと、同じ布団で寝たことだって、ある。ただそれは熱のあるものではなくて、ただただ、同じ布団で何気ない世間話をしながら夜を明かしただけだ。断じて、断じてやましい事なんてない。
とはいえ、夏休み前は忙しく、夏休み中は勿論立ち寄ることも無かったものだから、久しぶりの六年長屋だ。人の生活が途絶えた家は、本来の匂いと取り戻すというが、その通りで、潮江先輩の部屋は木の匂いに包まれていた。すぅと吸い込めば落ち着く香りに、ほっと息を吐き出して、それから。
その後は本当に早くて、促されるまま文机の前に腰掛けて、潮江先輩が運び込んだ帳簿を捲り続けるだけ。時たま用意してくれた茶を飲んだり、潮江先輩がご実家からここに来るまでに買ったという美味い団子を食したり、それでも小腹が空いたからとおにぎりを作って食べたりと、呑気な時間が流れて、今。
胃に物を入れたせいか、ただ、半紙を捲る音が心地よくって、時折聞こえる算盤の音が心地よくって、繰り返される潮江先輩の独り言が心地よいせいか、眠くって仕方がない。
うと、うと、と。
気を抜けば、突っ伏してしまいそうだった。舟を漕いでは、ああいけないと体勢を直して、帳簿と向き合うも、目が滑ってしまう。
――もう、限界だ。
どんなに目を擦っても、どんなに眠気を覚まそうと自分の手の甲を抓っても、眠気の限界だ。折角書いた帳簿を汚さないようにと綺麗に畳んでから、空いた文机に腕から突っ伏せば、装束が触れるほど近くで作業をしていた潮江先輩から小さな音が盛れた。
「もう、眠いか?」
ころころと、珍しい笑い方をしながら、先輩は笑う。そして、算盤を弾いていた手を止めて、その手を、その指先を、私の頭へ伸ばすのだ。最初は少し躊躇ってから、触れたら後は容赦なく。ぐりぐりと頭を撫でて、あやすかのように撫でてくる。
だから思わず、「うん」と頷けば、その手は一瞬狼狽えたように止まった。あァ、これは駄目なやつだ。たるんでる、とか。甘えるな、とか。言われるやつかも――。
「このまま、寝てしまうか?」
――え。
なんて、色んなことを一瞬で考えていたら、落とされたのは存外優しい言葉だった。いい子いい子、とでも言いたいかのように丁寧に撫でられて、手入れしたばかりの髪をとかされていく。
「……、正直寝たいです」
だから、素直に零してみれば。
「はは、そうかそうか。なら、寝てしまえ」
「……しおえ先輩は?」
「俺?」
「はい」
「俺は、まだ起きてるぞ。何せこの山積みになった帳簿全てを確認しないとならんからな。出来るところまでやってしまいたい」
「そうですか……」
続けるように頭を撫でられてしまえば、段々と閉じていく瞼には抵抗できなかった。
「気にしないで寝てしまえ」
そうして、ぽんぽん、とまた髪の毛に触れられて、それから。その手がゆっくり、勘違いでなければ名残惜しそうに離れていく。腕の隙間から潮江先輩の顔を盗み見れば、吸い込まれてしまいそうな黒い瞳は私を見て離れない。
なんで、部屋に戻って寝ろと言わないのだろう。
どうして、このまま寝かせてくれるのだろう。
色んな気持ちが渦巻いて、どうしたって湧き出て止まらない。
だから、だから。
「せんぱい」
「……ん」
少しくらい、自分の気持ちに素直になっても、いいのかもしれない。
離れていった潮江先輩の左手を、私の右手で絡めとる。袋槍を使用するからか存外固い手のひらに、二つしか違わないのに私とは違って節くれだった指先に、私の指を這わせて確りと握り込む。そうして繋がった手を、突っ伏したままの自分の顔の近くに寄せて、そのまんま。
やっぱり草木の匂いがして、土の匂いがして、ちょっと乾燥したその指先は、落ち着くから。
「……、三木ヱ門?」
戸惑ったように、それでも振り払うことはなく、潮江先輩は私の名前を呼ぶ。
だから、ね。
薄く目を開けて、ちょっと意地悪そうに舌を出して、ふふ、と笑えば、潮江先輩は驚いたような顔をするんだ。私は学園のアイドルとして相応しい男なのだから、私のこんな呆けた表情を見ていいのは、潮江先輩だけなんだから。その意味も込めて、少し色の濃い潮江先輩の手の甲にそっと口付けをして、その手を握りこんで離さない。
「田村、お前、……」
動揺したように私の苗字を呼んだ先輩は、握っていた筆を置いてまで、自由な右手で私の頬を摘んでくる。
――……ああ、本当に、眠い。
コツン、と額に潮江先輩の額が当たる。思わず目を開ければ、やっぱり吸い込まれてしまいそうなほど深い色を持った双眸がこちらを覗き込んで、照れたような表情で笑うんだ。
「意地悪だなあ、お前は」
そう言って、元の姿勢に戻っていく。
帳簿を確認するのに、左手を塞がれているのは大変なくせして、振り払わない。文句のひとつも言わないで、ただ、ただ、柔らかく笑ってそのまま繋いでいてくれる。
暫くすれば、「〜」だの「う゛〜」だの呻いた潮江先輩は頭を大きくかいて、残っていた茶を飲み干して、それから。いつものだ。いつもの、「願いましては」を唱えて。
ギン、ギン、と繰り返し始める。
ぱち、ぱち、と算盤の玉が弾かれる。
ざり、ざり、と半紙がなぞられる。
時折何を思ったのかふふ、と笑う声が、荒格子を抜ける夏の風に乗って、流されていく。繋いだ手の温もりが、熱が、溶けて、消えて。
今日もまた、曖昧なままに終わっていく。
「三木ヱ門、もう……、寝たか?」
今日だけで幾度となく聞かせてくれた優しい声が、落ちて。
「いつになったら、応えてくれるんだ。お前は」
それは、きっと。
fin.