熱を出した弟のためにカブトムシをプレゼントしようとする兄の話まだ午前中だと言うのに太陽がジリジリと地面を照りつけている。今日も暑くなるな、と朝ごはんの片付けをしながら考えていると目線よりも下から声をかけられた。
「カブトムシ、取りに行きたい」
年齢の割に芯のある凛々しい声、黒と黄色のツートンカラーが特徴的な男の子がこちらをジッ見上げている。私たちの息子のレインだ。
「え?どうして?」
思わず聞き返してしまった。この子は物わかりが分かりすぎるほどに賢いのは親の自分でも驚くほどで、手に入れられないものは滅多に欲しがったりはしない。
昆虫もまだ幼い弟がいるため、様々な理由から私たちは飼わないと約束をしていたのだ。
「フィンが熱で元気ないから。だからカブトムシを見せたら元気になってくれると思う」
彼の言う通り、彼の弟、私たちのもう一人の息子であるフィンは園から貰ったであろう風邪で発熱してしまっている。フィンは4歳になるが、今日は珍しく夜泣きをして大変不機嫌になってしまい、手がつけられない程だった。今この瞬間は朝方に放送しているキャラクターものの教育番組を真剣に見ている。
フィンの方にチラリと目線をやり、こちらの会話を聞いていないことを確認するとレインを近くに呼びそっと耳打ちをした。
「明日はレイン学校お休みでしょ?早起きできるかしら?」
「うん」
「パパにはママが連絡してあげるわ。フィンには内緒ね?」
「…!うん、わかった」
レインは表情の変化が分かりにくいが、嬉しいことがあると、光を浴びた宝石のようにキラキラとした瞳に変化する。それが大変愛おしく尊い。
「学校のお支度、できてるかしら?そろそろマックスくんが来るわよ!」
兄とその友人を玄関から見送ると、珍しくフィンは「ぼくもいく!」と駄々をこねなかった。しかしその代わりにレインがボソリと「俺は休む。マックスだけでも学校に行ってくれ」と弱気になっていた。
それを聞いたマックスと呼ばれた少年は
「バカ言うなよ…それに今日はレインの好きなもやしのナムルが給食出るぞ。オレが全部食べてもいいけど!」
とイタズラな笑みを浮かべながら走り出した。それを聞いたレインは許さないと言いながら追いかけていった。
脚にずっとしがみついていたフィンはそんな兄たちの背中が見えなくなるまで手を振っていた。
約束の日。レインは日も昇らぬうちから父親が起きるのを側で待っていたようで、隣のベッドから悲鳴が聞こえてこちらも目が醒めてしまった。
「気を付けていってらっしゃい あまり森の奥にはいかないでね、それから――――」
「分かったよ、君はいつも心配しすぎるんだから。大丈夫さ」
ハハッと笑って軽く返される。こっちは本当に心配なのに。
「フィンが起きる。早く行こう」
「そうだな、レインは後ろに乗ってくれ」
この世界での唯一の移動手段である、箒にまだうまく乗れない子供がいる家族向けの箒に跨り、彼らは出発した。ちょうど朝日が昇ってくる頃だった。
「兄さま…どこなの、ぼくをおいてかないで」
「また熱が上がってきたわねえ…」
熱に魘されているまだまだ小さな息子を見るのは辛い。こんな時に代わってあげられたらといつも思う。
レインたちを見送ったあと、家に戻ると寝ていたはずのフィンがヨロヨロと起きてきて兄のことを呼んでいた。抱っこで持ち上げようと手を伸ばそうとするとその手を叩かれ「兄さまいないの!どこにもいないの!」と彼から聞いたこともない大声で泣き叫び、地面に大の字になりあの手この手で宥めに宥め、落ち着きベッドへ運び寝付かせ、今に至る。
兄がいないことにいつから気がついたのだろうか。
生まれたときから親よりも側にいたレインは、フィンにとって大切な心の拠り所の1つなのだろう。そんな人物が自分の元を離れ、いつの間にか一人ぼっちになっていた事はこの幼い子には耐え難い現実だったのだろう。
この先、大人になっていくにつれて思春期を迎えたとき一体どうなるのか、楽しみと不安が頭をよぎる。そんなことを考えていると、魔法伝言機に連絡が入った。
内容は、
「レインがカブトムシを見つけたんだけど、図鑑に載っていたやつと違うからそれを見つけるまで帰らないってちょい怒ってます。帰りは遅れると思います。」
思わず口から嘘でしょ…と声が漏れる。予定では昼過ぎには到着するはずだった。
図鑑に載っていたやつというのは恐らく、マホウノツヤピカリビートルだろう。1本角を有しており、手のひらに乗る大きさで通常は茶褐色だが、夜になるとオーロラ色に発光する昆虫だ。ここ最近兄弟2人はこの昆虫に大変興味を持っていた。しかしこのマホウノツヤピカリビートルは私たちの住んでいる地域にはいない。もう少し暖かい地方に生息している。
それをレインまだ知らなかったのだ。
弟のためならレインはどこまでも本気になれることをこの時知った。
兄がいなくてべそをかく弟、弟のために生息地が異なる虫を探そうと躍起になる兄。
親から見ても仲良しで微笑ましいが、この子たちはあまり離れ離れにしないほうがいいのかもしれない。
「ママ…?」
「んー?」
「フィン、おなかすいちゃったの」
「そうなのね〜フィンの好きなシュークリーマンのパンあるよ?食べる?」
「っうん!フィンね、シュークリーマンだいすき!」
「そうよね!ママとリビングに行きましょうか!」
フィンにパンと薬を飲ませ、時刻は夕方近くになっていた。フィンは微熱にまで熱が下がって、機嫌がいいのか、恐竜やドラゴンの形をした人形で夢中になって遊んでいる。レインたちはどうしているだろうか、と思っていると、玄関のベルが鳴り響いた。
「フィンがみてくる!」
玄関までとてとてと走っていく姿の後を追う。
「ホー・ホー」
相手は待ち望んでいた兄と父ではなく、フクロウ便だった。サインをしてフクロウに持たせる。
「フクロウさんだ! かあいいねえ」
フィンは動物が好きだ。この世界にありふれたフクロウでさえも見かけるたびにニコニコと喜ぶのだ。
「また来てくれるといいね」
玄関先で闇の色を含んでいく空に吸い込まれるようにして飛んでいったフクロウを私たちは眺めていた。
「ただいま」
と背後から聞こえた。ああやっと帰ってきたかと振り向くと、
「レイン、寝ちゃったんだ。図鑑のじゃない、大きいのじゃないとフィンは喜ばないとか泣きながら怒っててさ、ここに着く前に静かになったんだ」
あらそうなの、と相槌を打つ前にフィンが聞いた。
「パパ、兄さまねんね?」
「そうだぞ、ねんねだからシーッだぞ」
「しーっ!」
「そうだ、さっきのフクロウ便は?」
「カブトムシさ!レインが起きるまで念の為開けないほうが良いと思うよ?」
「ん……」
「兄さま!フィンいーこだったよ!あそぼーよ!」
「ふぃん」
父親の腕の中で抱かれていた彼は、その高い位置から弟へ手を伸ばした。フィンはその手を両手で嬉しそうに包み、頬ずりをした。
レインは弟を前にすると自分がどんな状況でも、兄になる。レインの中では自分は二の次なのだ。寝ぼけた眼でもしっかりと弟を見据えている。それを察したのかレインの止まり木になっていた旦那が口を開く。
「レイン、降りて今日何を手に入れたのかフィンに見せるといいよ」
「うん」
玄関に入り、抱っこから床へ降ろし先程届いたフクロウ便の荷物を渡した。
「パルチザン」
レインの固有魔法、剣を飛ばす魔法。それで開かれていくフクロウ便の荷物。今はまだ小さなナイフほどの大きさだけれど、レインは二本線。いずれかなりの使い手になるだろう。親も鼻が高い。
「土?ねえ兄さま、土だよこれ?」
「いいや、土じゃない」
ゴソゴソと土をかき回すレイン。そこから出てきたのは黒光りをしている一本角を有した昆虫、カブトムシだ。
「わあー!すごい!すごいね!」
「ああこいつはオレが捕まえた」
「すごい!兄さま!すごい!」
フィンは興奮のあまり、鼻水が垂れてきている。レインはどう捕まえるのが大変だったとか父親よりも大きかったなど、今日自分が体験したことをフィンに伝えている。フィンもうんうん、と久しぶりの兄の声に大きく頷いている。
「今日はお互いいい経験になったみたいね?」
「遠出だったから疲れちゃったな、なあ今夜は乾杯しないか?」
「ふふっ悪い話じゃないわね」
こうしてエイムズ家の夜は更けていったのである。