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    nobutgstgm

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    nobutgstgm

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    ピアニスト台と調律師葬の、葬台。二人が出会う小話。
    子ニコはとにかくスパダリにしたいし、子スタヴは意外と押しが強い子にしたい。

    きらきら星変奏曲 静まり返った教会の廊下を、ヴァッシュはゆっくり歩いていた。この教会を訪れるのはもう何度目か分からないが、前回の訪問から随分と間があいたような気がする。
     盛夏の陽気に浮かされた街筋の賑やかな喧騒とは違い、相変わらず静かだ。ここだけ外界と切り離されていて、まるで別世界に迷い込んでしまったとさえ思えてくる。
     自分のブーツの底が石の床を打つ硬い足音だけが、外界から転がり込んで立てた音のように響いては消える……いや、そうだった、それだけではなかった。
     澄ませた耳が遠くから僅かに聞こえてくる音を聞き取って、自然と口許が緩む。よくよく聞けば、音調を強くしたり弱くしたりしながら、ひとつひとつの音を確認するように。
     そうだ、彼があのピアノを触っている最中なんだった。
     トレードマークの煙草をポケットに仕舞い込んだ仏頂面が、黙々と仕事をこなしているのを想像する。開いたピアノの構造の中へ、灰なんかを落として焦がしてしまったりしないように、というのは仕事人として極当たり前の留意事項だが、極度のヘビースモーカーである彼にとっては、最大の献身とも最上の敬意の現れとも言える。
     
     やがて、急に明るくなった視界に顔を上げれば、夏の日差しに照らされた裏庭に面した外廊下に差し掛かった所だった。
     クックッと柔らかい囀りが微かに聞こえてきて、ヴァッシュは惹かれるように日差しの中へ歩を進める。
     裏庭の奥の木々の木漏れ日の下に、小さな小屋が見えてきた。あの頃から、全然変わらない。中から聞こえてくる愛らしい鳴き声に、そっと金網越しに人差し指を差し出すと、甘噛みしてきた小さな嘴がくすぐったい。記憶通りの感触に、懐かしさが込み上げてくる。
     そういえばあの日も、こんな初夏の日差しが眩しい日だった。
     
     
     
     ヴァッシュは幼い頃からピアノを弾くのが大好きだった。双子の兄であるナイヴズと二人で弾くと、まわりで聞いていたみんなが喜んでくれて、ますますピアノが好きになった。
     やがて、二人の存在を知った見知らぬ大人たちが、二人をどんどん人前に引っ張り出すようになり、気が付けばいろんな所で大勢の前でピアノを演奏するようになっていた。
     ナイヴズは特になにも言わなかったが、自分がおかれた状況に戸惑うヴァッシュは、いつしか昔ほどピアノを弾くのが楽しくなくなってしまった。
     それでもピアノを弾けば、みんなが喜んでくれるから、喜んでくれるなら。そうして、弾き続けること数年あまり。ヴァッシュは、もう人生の半分以上を天才少年ピアニストとして生きてきていた。
     
     教会の礼拝堂で、リサイタルを。
     ある日、そんな話が舞い込んで来た。知らぬ間に日取りが決まり、あれよあれよという間に当日になってしまった。午前中には中都市の外れにある大きくも小さくもない教会へ到着し、形ばかりのリハーサルを行い、夕方に本番を迎えることとなった。
     どうやらナイヴズは別の国での別の演奏があって、今回は来れないらしい。久し振りに一人の演奏会となる。
     天井の高い講堂の真ん中に据えられたグランドピアノは、古いながらもきちんと手入れされた、ヴァッシュが弾けばきっとたくさんの聴衆を笑顔にすることだろう。
     それでもなんとなく気分が晴れない。単純にナイヴズがいなくて寂しい気持ちもあったけれど、それだけじゃない、最近ずっと感じているよくわからない感情。
     なんで、ぼくはピアノを弾いていたんだっけ。
     
     無心のままにそぞろ歩いていると、突然、視界が明るくなった。どうやら建物の中から気付かない内に出てきていたらしく、裏庭に面した外廊下に出てきてしまったらしい。
    「どこだろう、ここ……」
    「だれや」
     あたりを見回していたヴァッシュに、不意に問いかける声があった。
     声の方へ振り向くと、一人の少年が小さなバケツを下げて立っている。ヴァッシュと同じくらいの背格好でいて、少し伸びた黒髪の前髪の隙間から見える瞳がどこか大人っぽくて、落ち着いた雰囲気のする少年だった。後ろにはちょうど、木漏れ日に照らされた小屋がひっそりと佇んでいる。
    「こんなトコでなにしてるん」
    「……散歩、かな?」
     ヴァッシュがそう言いながらちょっと小首を傾げると、バケツを持った少年は呆れたような顔になった。はぁ?と発せられた声は、怪訝そうだ。
    「かなって、オドレ自分のことやのによお分からんのか」
     聞き馴染みのない訛った口調で更に問われて、ヴァッシュは、ハハハ、とぎこちなく笑った。
     でも少年の言うとおりだった。自分の気持ちがよくわからないなんて、自分はどうしてしまったんだろうか。
     ピアノを弾くことが、聞いてもらえることが、大好きだったあの頃とは、なんだか変わってしまったみたいで。変わってしまったのが、ナイヴスなのか、周りの大人たちなのか、もしかしたら自分自身なのか……。
    「……まぁ、泥棒やないなら何でもええわ」
     黙ってしまったヴァッシュから視線を外した少年はバケツを足元に置くと、小屋に作りつけられた大きな窓に手をかける。
     何が始まるんだろう。見ていると、ポケットから取り出した鍵で南京錠を開けて、そっと窓枠を引き開けた。
    「わっ!なに!?」
     窓が開かれるのと同時に、バサバサと中から何かが、少年に向かって飛び出してくる。勢いよく少年にぶつかり、頭に飛び掛かり、その身体に群がるように集まるたくさんの何か。
    「なにって……ただのハトやん」
     目を凝らすと、それはヴァッシュが両手のひらを広げてようやく足りる程の大きさの鳥だった。わさわさとハトが舞う中で、少年は平然としている。
    「ねぇ、きみ、大丈夫?」
    「大丈夫もなんも、いつものことやし」
     さも普通のような口調でそう言った少年の肩に、頭に、ハトがたくさんとまっている。
     肩にとまった一羽の柔らかそうな胸を、少年がそっと反対の手の指先でくすぐるように撫でる。そうしている間にも、その手の甲にもまた一羽舞い降りてきた。勢いよく飛び出してきたハトたちは、空へ飛び去ってしまうことなく、裏庭の陽だまりに舞い降りて毛づくろいをしているようだ。
     ハトだらけの少年を、ヴァッシュは不思議な出来事を目の当たりにしたような顔で、マジマジと見つめた。
     ヴァッシュにとって鳥とは、空を自由に飛んだり、遠くや高いところにとまっている生き物で、触れられるような距離にいる生き物ではなかったから。
    「なんや、初めて見るん?」
    「……うん。近くでは」
     様子を伺うような視線を受けて「さよか」と言った少年が、おもむろにハトを乗せたまま近づいてきたので、ヴァッシュは思わずギクリと身構えてしまう。そんな姿を見て、少年は少し笑った。途端にさっきまでのどこか大人びた雰囲気がふわりと柔らかくなる。
    「腕、貸してみ」
    「ちょ、ちょっと待って」
    「ええから、ほれ」
     緊張で思わずピンと前に伸ばしたヴァッシュの右腕の先、握りしめた拳の上にそっとハトが乗せられた。少しチクリと尖った感触がしたのは、きっと足先だろう。やがて、ふわりと柔らかい羽毛が肌に触れた。横から覗き込めば、ハトは細い足を折って身体を落ち着かせたらしい。
    「どうやら、ソコがお気に召したらしいわ」
     ヴァッシュの手の甲で静かにしているハトの頭を、少年はゆっくり撫でる。やってみろ、と彼の目に促されるまま、ヴァッシュもそっとその身体を指先で撫でてみた。クルゥクルゥと、甘えるような声を出すその温かい塊が、急に愛らしく見えてくる。
     そうやってしばらく撫でていると、不意に少年が「いたた」と声を上げた。
    「へぇへぇ、分かった分かった」
     どうやら、肩に乗っていた一羽に頰を突付かれたらしい。なおも攻撃しようとしてくるのを手のひらで制しつつ小屋の前まで戻ると、バケツの中からざらりと何かを掴んで庭にまいた。
     今度は何が起きるのかと見ていると、ハト達は飛び出してきたのと同じ勢いで、何かがまかれたところへ飛んでいく。ヴァッシュの手の上で大人しくしていた一羽も、バサリと飛び立ち、仲間の元に舞い降りた。
    「なに?」
    「餌や、餌」
     呆れたような声で「見れば分かるやろ、ほんまに何も知らん奴やな」と付け加えられたが、ヴァッシュは話半分に聞いている。ここで起きること何もかもが新鮮で、まるで自分の生活とは別世界のことのようで。
     ヴァッシュはしゃがみ込んで足元をつついているハト達を注意深く観察した。よくよく見れば、確かに何か小さな穀物のようなものを啄んでいる。
     少年は何度か同じ要領で餌をまくと、残りを小屋の中へひっくり返した。小屋の中で大人しく待っていたハト達が、そこに集まってくるのが金網越しに見える。小屋内には、大きな餌箱が備え付けられているらしい。
     小屋から出ていたハト達が足元を啄んでいるのを見守っていると、庭へまかれた餌を食べ尽くしたのか、今度はヴァッシュや少年には目もくれず小屋へ帰っていく。
    「ゲンキンな奴らやで、ほんま」
     最後の一羽が入るのを待って、慣れた手つきで窓を閉め、鍵をかける。それをヴァッシュは、まるで熟練の動物使いを見ているかのような顔で感心して見ていた。
    「……ほんで?」
    「ん?」
    「こんなところで、何しててん」
     空になったバケツを手に、こちらへ向き直った少年に再び問われ、さっきよりも不思議と軽くなった気持ちでヴァッシュは答える。
    「強いて言えば……お散歩?」
    「……強いて言わんかったら?」
    「迷っちゃった、かな?」
     やから、なんでずっと疑問形なんや、と眉尻を下げた少年は小さくため息を吐くと、空いている方の手を差し出してきた。
    「ほんなら」
     無意識に差し出された手に自分の手を重ねる。平生から握手を求められることが多くて、差し出された手を取るのが、つい癖になってしまっているせいだ。いつもは大人の大きな手が相手で、自分と同じくらいの大きさの手と触れあうのは、兄を除けばほとんど初めてで、なんだか新鮮に感じた。いつも周りにいるのは大人ばかりで、同年代の子と話したり、触れ合ったりする機会がない。
    「ワイが案内したるわ、迷子のとんがり」
     ちょっと荒れていて、固くて温かい手に、グイと引かれて歩き出す。
    「えーっと、迷子でも、とんがりでもないんだけど」
    「ほーん、ほな何ていうん」
    「ヴァッシュ」
     君は?と聞くと、チラリと振り返った少年は、ウルフウッド、と名乗った。
     
     
    「さ、着いたで」
     ウルフウッドの案内で、二人は数分もしないうちに目的地である礼拝堂へ辿り着いた。
    「こんなとこに、なんの用や」
     講堂の入り口で足を止めてしまった同行者を振り返る。立ちすくむように動かなくなったヴァッシュの表情は、どこか曇っていて。
    「おい」
    「……これから、ここでピアノを弾かなきゃいけないんだ」
     弾かなきゃ、いけない。
     自分の口から出た言葉を、ヴァッシュは自分の耳で捉えてもう一度考える。
     いつから、僕は弾かなきゃいけなくなったんだろう。ピアノを弾いて、それを聞いてもらうこと、それだけで楽しかったはずなのに。どうして。
    「へぇ、あれを?」
    「うん」
     すごいやん自分、ウルフウッドが感心したように言うのを聞いて、そんなことないよ、と小さく返す。本心だった。そんなことよりも、ウルフウッドの方がすごいと思った。ハトの世話をしてて、あんなに懐かれていて、本当にすごいと心から思っていた。
     さっきまで繋いでいた手のひらを思わず握り締めて、それ以上なにも言えずにいるヴァッシュを他所に、ウルフウッドは臆面もなく言った。
    「なぁ、なんか弾いてや」
    「え、」
     ここまで連れてきてやったお代や、なんて言い出すから断れない。ヴァッシュは不承不承頷いてピアノベンチに座ると、あとについてきたウルフウッドが横に立った。
    「何が聞きたい?」
     せやなぁ、と少し考えたウルフウッド。
    「アレ」
    「あれ?」
    「アレや、」
     ほら、なんやったかな、と首を捻るも、題名が思い出せないらしく、しまいにはフンフン、とハミングをし始めた。
    「えぇと……きらきら星?」
    「そう、それや」
     唯一弾ける曲、と言ってニッと笑うウルフウッドに、ヴァッシュは頷いて鍵盤にそっと指を乗せた。横からの視線を感じてチラリと盗み見ると、どうぞ、とでも言いたげな表情が促してくる。
     ヴァッシュは、す、と鼻から軽く息を吸って、指を滑らせるようにして弾き始めた。最初の二小節が過ぎる頃にはいつもの感覚が蘇り、指が次へ次へと動いて曲になっていく。
     初めは穏やかに、四分音符を並べて。右手は軽やかに、左手は滑らかに。それから、きらきらと装飾をつけて、流れる様に。徐々に細かく複雑な主旋律へと変わり、転調して、また元の主題に戻っていき……ちょうどキリが良い所まで弾いてそっと曲を切り上げると、ヴァッシュはそっと横に佇む気配に顔を向けた。
    「あの……どうだった?」
     目が合っても何も言わないウルフウッドに、恐る恐る尋ねる。良くなかったのだろうか、期待外れだったのだろか……まさか彼が聞きたかった曲はこれではなくて、もっと別の……?
     沈黙に耐えられなくて、もう一度口を開こうとしたとき、ウルフウッドが弾かれたように手を叩き始めた。たった一人の拍手が、天井の高い講堂にやたら大きく響く。
    「一番や」
    「え?」
    「今まで聞いた中で、一番やった」
     上手く言えんけど、今までで一番、なんやきらきらしとったわ。そう唸るように言ったウルフウッドの瞳が感激しているように瞬いていて、ヴァッシュはぎゅ、と胸を掴まれたような気がした。
     同年代の少年に、正面から手放しに褒められた経験はあまりなくて、照れくさい。
    「あ、そうだ」
     面映ゆい気持ちを誤魔化すように、タラララと鍵盤の上で指を転がしながら、思いついて口を開く。
    「この曲、弾けるって言ったよね?」
    「おん、まぁ、オドレみたいにはよう弾けんけどな」
     それを聞いて、彼の指先に手を伸ばす。
    「一緒に弾いてくれない?」
    「はぁ?」
     イヤイヤ無理やろ、と引っ込む手を、今度はヴァッシュが引っ張って、鍵盤の上へ連れてきた。
    「知ってる所だけで良いからさ」
     首を振るウルフウッドを無視して、先ほどと同じようにポピュラーな主題をゆっくり弾き始めた。彼の瞳を見上げると、う、と戸惑った声を漏らした後、観念したのかピアノベンチの端に腰を降ろした。
    「ゆっくりやで」
    「うん」
     もう一度、初めに戻ると、ぎこちない人差し指が一緒に動き始めた。何度も主題を辿りながら、繰り返して曲を紡いでいく。
    「ふふ、上手い上手い」
    「ちょ、あかん、気ぃ抜いたら分からんなりそう」
    「……あ、間違えた」
    「せやから無理やってゆうてるやん」
    「違うよ、ふふ、僕が間違えたんだ」
    「なんやそれ、紛らわしいな」
     横で笑う気配がする。真剣に、だけどどこか楽しそうな顔が、すぐ隣にある。それにつられて心が弾む。ここで聞いているのは、ヴァッシュとウルフウッドの二人だけで、それ以上でも以下でもない。何も気にしなくていい。
     こんなにも気分が軽いのは、久し振りなような気がして。何度も主題を繰り返していると、ついについて来られなくなったウルフウッドが先に手を離してしまった。広くなった鍵盤を端から端まで駆け上がって、曲を締めくくる。こみ上げる高揚感に、思わずウルフウッドに抱き着いた。
    「わ、なんや!」
    「すごい!すごいよ、ウルフウッド!」
    「いや、すごいのはオドレやろ」
     離れろや、とバタバタ暴れる身体から、温かい香りがする。晴れの日に干したシーツの香りとそっくりだと、ヴァッシュは人知れず笑った。
    「なんや、楽しい顔できるやん」
     むに、と横から頰を摘まんだウルフウッドこそ楽しそうな顔をしていて、ヴァッシュにはそれが一層嬉しくて。
     
     
     
    「あとちょっとやし、待っとき」
     音を立てないように細心の注意を払ってそっとドアを開けたのに、こちらのことはお見通しならしい。ピアノに向かうウルフウッドは、ヴァッシュへ目もくれずにそんな言葉を投げてよこした。
    「きみのハト達に挨拶してきた」
     袖を肘までまくって黙々と仕事を続けるシャツの背中に、今度は何も気にせず話しかける。今度こそ集中していて聞こえないかと思ったら、ワイのやないわ、とすかさず返事が返って来た。
    「なかなか帰ってこんから、迷子にでもなっとんか思ったわ」
     笑いながら仕上げとばかりにいくつかの和音を奏でて響きを確認する。人差し指一本ではなく、大きく広げた五本の指が鍵盤の上を靭やかに移動していく。
    「ま、オンボロやし、こんなもんやろ」
     ここへ到着して二時間強、満遍なく全体を確かめて得心したらしい。仕事道具を手早く仕舞う横へ進んで、空席になったベンチに座る。目を閉じて中央の鍵盤を一音押せば、澄んだ音が講堂内に美しく響いた。
     残響が消えていくのを暫く聞いて目を開けると、ピアニストは今日も素晴らしい仕事をしてくれた専属の調律師に向き直る。
    「ありがとう」
    「どういたしまして」
     さっそく煙草を咥えようとしている手元に、講堂内禁煙、と釘をさしながら鍵盤に両手を乗せて軽く指を慣らした。
    「お礼に一曲弾こうかな」
    「そらぁ、光栄の至りやな」
     大真面目な顔で仰々しく頭を下げた彼の労に報いる、一曲を。
     ヴァッシュは、す、と鼻から軽く息を吸って、指を滑らせるように弾き始めた。初めは穏やかに、四分音符を並べて。右手は軽やかに、左手は滑らかに。それから、きらきらと装飾をつけて、流れる様に。
    「いっつもその曲やん」
    「だって好きなんだもん」
     あの日、プログラムにないこの曲を弾き始めたヴァッシュに騒然となる関係者と、驚く聴衆の中で、唯一笑って聞いていてくれた少年の顔を思い出した。教会でハトの世話をしていた少年が、まさか数年後に調律師として自分の前に現れるとは、あの頃は想像もできなかった。
    「ねぇ、一緒に弾かない?」
     誘ってみたが、残念ながら「弾かん」と素気無く断られてしまった。
    「礼やからな、聞かんと勿体ないやん」
     たった一人の観客がピアノベンチの座面のあまりに腰を掛けたのか、肩口に固い背中が触れた。あくまで邪魔にならない位置で、それでいて傍にいることが伝わってくる距離感が心地いい。
     ふわりと近づいた香りはあの頃とは多少変わってしまったけれど、フンフン、と楽しそうに鼻歌を弾ませている顔は、きっとあの日の笑顔と一緒なんだろう。
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