幽婚 現世へ移った理由はただ退屈から逃れるためだった。最初こそ楽しんでいたが長年生きていれば退屈とは何度でも訪れるもので、結局狭間に隠れ住んで数十年に一度地上へ降りるだけになった。
前回は何も収穫がなかった。そして今日、およそ三十年ぶりに地上の様子を見に外へ出る。
短い年月では大物は現れない。
大成の芽が出るのは世界中でもごくひと握りだ。その中で己を満たすものを見つけるとなると、砂漠で目当ての砂粒一つを探し出すくらいには確率が低い。つまるところ全く期待していなかったのだが、今回は当たりだった。
山の上を飛行中に人の気配を感じて目をやると、沢山の動物に囲まれて林檎を食らう男がいた。その場に留まり凝視する。どうやら採取したものを動物たちにも分け与えているらしい。
他の人間と違うのは、餌付け目的にやるのではなく完全に自然と共生していることだ。警戒心の強い野生生物が人間相手に、報酬を求めずただ懐いている。自然派を推進する集団などは過去にもいたが、実際に共存を果たした人間は見たことがない。
また魂が清廉そのもので邪心が全くないというのも初めてのことで、前述を抜きにしても恐ろしく魅力を感じる自分がいる。表情や体付きに目がいって仕方がない。これが人の言う一目惚れなのだろうか。
何もかもが未知の逸材を捨て置くには惜しいと、人のふりをして近付いてみた。
「しかしいい天気だ……なっ!?」
「お〜これがお前の感触か♡」
ただ、新発見に喜ぶあまり目的の人物へダイブする形となったが。
「何モンだおめえ!?今、空から落ちてこなかったかっ!?」
「何もないところから人が降ってくるわけないだろ、お前の錯覚だ」
「無理がねえかそれ…」
理解を諦めたのか苦笑する男をハグから解放してやり、地面に座り直す。
男を囲っていた動物たちは皆逃げ出したらしい。驚いたのが大半だろうが、恐らくは自分が何者なのかを悟ったのも理由に挙がるだろう。人間と違い、今も自然界に身を置く彼らは異類の出現に鋭い。
「あーあ、皆どっか行っちまった」
「悪かったな。お前、名はなんて言うんだ?」
「オラか?オラ孫悟空だ」
「ン〜ちょろすぎて心配になるな、今後二度と知らない奴に名前教えるなよ?」
「?…で、おめえは?」
「ベジット。よろしくな?悟空」
悟空の手に持っている林檎を指差し、食べていいか訊ねると、分け隔てのない悟空はすぐにこちらへ渡してきたので早速齧り付く。その辺に生っている一つに過ぎないのに、極上の甘味が口内に広がった。
「特別ってのはこういうことか」
「??何言ってんだよさっきから」
「こっちの話だ」
それから悟空の家へ案内させ、簡単に住居の情報を得たオレはその後も悟空の元へ通い詰めた。
悟空と過ごす日々はただ会話するだけなど他愛ないものだったが、これまでの空虚な時間が嘘のように充実していた。
「よう、会いに来たぜ」
「おわっ!…おめえいつも急に来るなあ」
「一途だと言ってくれよ?ほら、挨拶のハグ♡」
神出鬼没なオレに戸惑いながらも、悟空はすぐに笑って迎えてくれる。順応性が高いところも愛おしい。この温もりを腕の中で確かめるハグを挨拶ということにして、会う度存分に味わった。しかしここ最近は、かつての退屈とはまた別の不足感に襲われている。
気付けばオレは悟空の全てに惚れ込んでいて、ただ観察を続けるだけでは到底足りなくなっていた。そうなれば次の段階に進むのは必然のことだ。機会を待って実行する予定だったが、そうもいかなくなる。
頭の中でアイツの声がした。
『お前が見ていたのはこれか、ベジット』
遡ること一週間前。幽世に鎮座する男の前へ、ベジットは現れた。
「なんだ、こんなとこまだいやがるのか」
「…突然帰ってきたと思ったらそれか。何の用だ」
やり合う気か問うと、ベジットは鼻で笑いながら否定した。ただ用事ができたのだと言い、実際に数分も経たず現世へ引き返していった。
思い返せば現世から切り離された隠れに篭っていたベジットの気は、ある日を境に頻繁に外へ出るようになっていた。幽世に戻ったときもやけに機嫌が良かった。何かあると考えベジットの視界を覗くと、その瞬間世界が変わっていくのを感じた。
ベジットの視界越しに見たものは一人の人間の姿だった。
あの飽き性が執拗に接触するほどの人間だということは魂を見れば一目瞭然で、現世の生まれとは思えないほど類まれな輝きを放っていた。
しかし短命の星に導かれたらしく、後数ヶ月で急死してしまう最期が視えた。当然ベジットも知っているはずで、死の兆しを見計らって何か行動するつもりだろうことは奴の性格から想像できる。
それが悟空という、数多の人間の中から現れた奇跡の存在を手放したくないからだとも容易に理解できた。自分も今まさにそう考えているからだ。今すぐ欲しくなるほど興味をそそられるものが現れるとは思ってもみなかった。ベジットほど待ってはいられないことを自覚し、呼び掛ける。
『いいものを見つけたな』
『チッ……いつから覗いてた、悪趣味な野郎が』
『人間を騙って近付く貴様のことか?』
『邪魔するなよ。オレが最初に見つけたんだ』
ベジットが見せ付けるように悟空の顎を指先でなぞり、笑う。悟空はきょとんとして見つめている。
ベジットを見つめる先には今、視界を共有する者も含まれることを悟空は知らない。挑発に乗ってやることにしてすぐさま悟空の魂を捕捉し、僅かな灯火を消しにかかる。
『あ!?ゴジータお前…!!オレから横取りする気か!?』
『もう遅い。さっさと動かなかったことを後悔するんだな?既に悟空の魂を捉えた。今更隠したところで、どうとでもなる』
『まさか、幽世に……ッ』
『ああ。オレの手で死ねば霊魂は直接こっちに送られる。貴様はもう興味ないんだろ?』
悟空が胸を押さえて首を傾げている。初期症状が現れたのだろう。急死の原因である病はオレの手により急速に進行し、数分もしない内に発症して悟空を死に至らしめる。
死へ進めている間、今までその気にさせるものが現れなかっただけで、オレはこんなに欲深かったのかと頭の片隅で考えていた。これではベジットと何も変わらないと呆れるが、今まで抱えていた不満が一気に解消されていくようで、不思議とすっきりした。
ともかく悟空の支配はオレに移った。後は魂を奪うだけだというときに、ベジットが笑いを噛み殺しているのに気が付く。
『……何がおかしい?』
思いの外不機嫌な声が出たが構っていられない。ベジットは何をするか分からない奴だ。そして、すぐにその勘は当たってしまった。
「なあ悟空、オレいつも貰ってばかりだったろ?良かったらこれ♡食べてくれないか?」
「…あ、うん…何だこれ?」
「見りゃ分かるだろ〜飴玉だよ!ほら、口開けな」
ベジットが摘むようにして持っているのは赤褐色の丸い形状の物体。その気質には覚えがあった。
『まさか、貴様……!』
「ん……?すぐ溶けちまった」
「食べたな?悟空」
「え……うん…?……ッ!!?ご、ほ…っ!」
瞬間、悟空は吐血してその場に崩れ落ちる。同時にオレの支配も弾かれ、魂の在り処を探ることさえ不可能になった。
怒りが湧いて握り拳に力が入る。悟空の魂は外郭が柔皮のように剥がされ、ベジットと混ざりつつある。このまま放置すれば完全に奴のものに成り果ててしまう。
「そうそう、前の血なんて要らないから全部吐き出せ♡なに死にやしない、オレはアイツと違って殺したりしないからなあ♡」
ベジットはオレを嘲笑うかのように血を吐き続ける悟空の背を撫でている。オレによる妨害でさえ楽しいとばかりに、心の底から笑っていた。
『ククッ……簡単に渡すと思うか?オレが大した用事以外で幽世なんて行くわけないだろ』
『やはりそうか…!貴様あのとき…』
『人間をモノにするにはこうするしかなくてさあ、万が一を考えといて正解だったぜ』
悟空に与えられたのは飴玉などではない。ベジットが幽世の大気と自らの血液を混ぜて作ったもので、人間が幽世の民の体液を取り込んだが最後、眷属に近い存在として魂が昇華される。オレやベジットとほとんど変わらない地位に置かれることになり、死を操るような下位に向けた能力は効かなくなる。
何より寿命が消滅し永遠のものとなるのだから、ベジットには格好の手段だったことだろう。
『……ふん、考えが足りないなベジット』
『あん?』
まだ人間の名残はある。床に散らされた血を頼りに、オレは悟空のすぐ傍へ辿り着いた。
「ゴジータ!?」
「…ぁ…ぐ……っ」
「逆らうな。大人しくしてろ、悟空」
少なくなったとはいえ未だ吐血する悟空の顎を上げさせ、口周りが赤黒くなっているのに躊躇うことなく口付ける。数秒交わした接吻で魂が揺らいだのを確認し、悟空から離れた。
「…お前の血の味がする、だが悪くない」
「〜〜〜!?何すんだよ混ざっちまったじゃねえか!!」
オレの体液をも身体に取り込んだ悟空の魂は、オレとベジットの両方の気を宿している。それは悟空の所有者が二人存在することを意味した。
「あーあ…今更戻せねえし…」
「幽世に戻るしかないな、オレもお前も」
「あんな変化もねえ退屈なとこいられるかよ!」
「今は悟空がいる」
あくまで対等の立場を取ってやっているオレに感謝して欲しいくらいだ。悟空の名を出されたベジットは大人しくなり、やがて盛大に溜息をついた。
「ハアーーー……まあ、そうだな…。ゴジータもついてれば誰もオレたちに文句言えないか……」
「話が早くていいな」
「言っとくがオレ今スゲー怒ってるからな???」
「お互い様だろ。…ああ悟空、放ったらかしで悪かったな」
魂が塗り替えられたことで大方悟った様子の悟空は、床にへたり込んだまま不安げにこちらを見上げていた。
「オラを……どうするんだ?」
「あー、まずは別のとこまでついてきてもらう。それからオレとずーっと一緒にいてもらう!オレとなら平気だろ?…な♡」
「ベジット……」
「ベジットだけじゃない。オレも一緒だ、悟空」
「確か…さっきゴジータって…。おめえらどういう関係なんだ…」
「あーコイツ?切っても切れない腐れ縁みたいなもんだよ……ったく、悟空だけはオレのモンになる予定だったのに」
「その一員に悟空も加わってしまったってところだ。悪いようにはしないから安心しろ。それにオレはコイツみたいに狭量ではない」
「悟空のこと殺そうとしたくせに何言ってんだ〜〜???オレは助けるつもりだったんだからな!悟空!」
「……あー…うん……なんか、もういいや」
二人の酷薄な駆け引きの末、現世から一人の人間が消えた。
幽世へ戻った二人はその後、互いに抜け駆けしないことを条件とし悟空を伴侶に迎えたのだった。