楓可不『愛言葉はその手の中に』 潜が部屋を出てしばらくすると添が戻ってきた。ほんのり漂うタバコの匂い。初めは新鮮だったその匂いにも随分慣れてきた。
「戻りましたよ~っと。潜さん帰りました?」
「うん。気を利かせてもらって悪かったね。あれ? 練牙は?」
「あー……なんかマネージャーから電話が来たみたいですよ」
そっか、と返した可不可の手元を添が覗き込む。
「おっ、潜さんからのプレゼントすか? ……わーお。プラチナチケット。さっすが~」
「伝があったんだってさ。ああそうだ。寄せ書きもありがとう。練牙からもらったきりお礼を言いそびれてたよね」
「いえいえ、大したもんじゃなくて悪いくらいですよ」
「そんなことないよ。僕にとっては潜からのプラチナチケットと同じくらいの価値がある」
大げさではない。去年まで可不可の誕生日を祝ってくれるのは父と楓、朔次郎や病院のスタッフ、ついでに雪風くらいだった。自分のためにと用意された手書きのメッセージは使い古された言い回しだが金品に代わらない価値がある。可不可は本心からそう思っている。
「そりゃ良かった。あ、そうそう。その写真、主任が用意してくれたんですよ」
「主任ちゃんが? ……ああ、そういえば」
メッセージに気を取られていて意識していなかったが、確かにこの写真は少し前に楓と出かけた時のものだ。帰り道、少しぼんやり窓の外を眺めていたところを写真に撮られていたことをうっすらと思い出した。でもあの時、楓はもう一枚写真を撮っていたはずだ。朝班のみんなからの寄せ書きに使われた気を抜いている写真ではなく、ちゃんと楓が構えたスマホを向いた写真を。
「主任も一言書けば~って言ったんですけどね。恥ずかしいからいいや、だってさ」
それは聞いていない。寄せ書きを見せた時に「主任ちゃんも書いてくれていいんだよ?」と冗談めかして言った時も笑ってかわされたのを思い出す。裏で一枚噛んでおきながら寄せ書きに参加してくれなかったことを知ってしまっては一言文句を言ってやらなければならない。
「添。ちょっと出てくるね。遅くなるかも」
「了解~っす。あ、もし帰って来なくても、今日も練牙さんにはいつも通りテキトーに言っておくんで」
「……いつもお気遣いどうも。おやすみ」
いつもの薄い作り笑いに、ほんの少しからかいを混ぜた添が「ごゆっくり~」と手を振るのを尻目に部屋を出た。パーティの片付けも終わったらしい寮内はまだ人の気配はするものの数時間前の喧騒が嘘のように静かだ。足音の響かない廊下を、それでもひっそりと可不可は楓の部屋を目指した。大した距離じゃないはずなのに、楓の部屋に向かう時間はいつだって少しだけもどかしい。
立ち止まった可不可は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。ドアを叩く。
「楓ちゃん。まだ起きてる?」
「可不可?」
パタパタと足音が聴こえる。近づいてくる気配に可不可はもう一度深呼吸をして、ドアが開くのを待った。
「どうしたの? こんな時間に」
「これ」
可不可が寄せ書きを差し出すと、楓は目を瞬かせた。
「やっぱり楓ちゃんにも書いてほしいんだけど」
楓は少し悩んだ後、眉を下げて笑うと「入って」と可不可を部屋へ招き入れた。定位置となっているソファに座ろうとした可不可を、楓はベッドに引き寄せ、隣に座らせた。
「ねえ可不可」
「なあに」
隣に座る楓から自分とは違う温度が伝わる。触れたところから混じっていくように、じんわりと身体の片側が熱をもつ。
「あらためて誕生日おめでとう。昔から出かけたり旅をしたりしてる時、綺麗な景色を見たら可不可にも見せたいって思ってた」
ベッドに座った時に言いそびれた、寄せ書きを書いてもらいにきたんだけど、という言葉はいつの間にか意識の外へ。独り言のようにぽつり、ぽつり紡がれる楓の声に耳を傾ける。
「美味しいものを食べたらこれは可不可もすきな味かなって思ったし、お土産屋さんでも真っ先に選ぶのは可不可へのお土産だった」
「楓ちゃんからのお土産、いっつも楽しみだったよ」
相槌を打った楓は少しだけ目を伏せた。
「旅がすきで旅行会社で働いていたはずなのに、それでも何かが足りなくて……可不可がHAMAツアーズを立ち上げて俺の手を引いてくれて、HAMAのために働けてる今が本当に楽しくて満たされてるんだ」
「……そっか」
楓の言葉に嘘はない。飾りも誇張もない。楓の腕が背中に回され、震える力で抱き寄せられた。可不可より少し広い背中に同じように腕を回すと命の音がする。トクトクと、いつもより少し早い。
「生まれてきてくれて、生きてくれてありがとう」
可不可が何度だって救われてきたまっすぐな言葉が、今日もまた可不可の心を満たす。お礼を言うのは僕の方だ、そう言いたいのに喉がつかえる。うん、と幼く返すのが精一杯だった。
頭を撫でた楓が可不可の目元に唇を寄せる。泣かないで、と言われるまで頬を伝う雫に気づかなかった。
「楓ちゃんが止めてよ」
ははっ、といつもの調子で笑った楓の唇は、今度は可不可の唇と重なった。少し離れて、楓が可不可の涙を拭って、また唇が重なる。何度目かのキスの後、楓は内緒話をするように可不可の耳元で囁いた。
「本当はあの写真じゃなくて、その後に撮った方を使おうと思ってたんだ」
「ちゃんとカメラ向いてる方でしょ?」
「うん。でも……ちょっとあれは使えなかった」
今度こそ身を離した楓は可不可が持っていた寄せ書きを抜き取り、テーブルに置くと、代わりに同じ場所で撮られたもう一枚の写真を可不可に手渡した。
「…………これは確かに」
そこに映る可不可は目を細めて微笑んでいる。きっと誰が見ても、そこから溢れているのが愛しさだとわかるだろう。端に書かれた楓からのメッセージを指でなぞってからテーブルに戻した可不可の指に楓の指が絡む。明日の朝、部屋に帰った時に見られるであろう添のにやにやとした顔を意識から追い出して、可不可は目を閉じた。