楓可不『遣らずの』「リニアが……うん……うん。……はぁ。わかった、わかったから!」
怒ったような口調だが、ほんの少し楽しげな可不可の声が響く。可不可の声色から察するに通話相手は父親だろうか。社長として振る舞う時よりもすこし子どもっぽいと言ったら可不可は心外だと怒るだろう。
「もう……仕方ないでしょ。……うん。わかったって、また来るから……。はいはい、気をつけてね」
通話を終えた可不可が小さくため息をつく。お待たせ、と戻ってきた可不可は当たり前のように楓が座るソファの隣に腰掛けた。
「お父さん、なんだって?」
「この豪雨でリニアが止まって今日は帰れないって。子どもみたいに駄々こねてた」
「あはは、可不可が来るの楽しみにしてたもんね」
病院で顔を合わせる可不可の父、理非人はいつも穏やかで優しい人だ。可不可のことを大切に思うあまり、HAMAハウスに住むために家を出る時はかなりしつこく……いや、熱心に引き止められたという。今回も実家に荷物を取りに行くついでに楓と泊まると聞いて大層喜んでいた。
「こっちでもこの雨だけど、向こうのほうがひどそうだからね……無理してでも帰って来ようとするから絶対やめてって言っておいたよ」
「はは……お父さんらしいね」
リビングの大きな窓はカーテンに覆われている。厚手のカーテンに遮られてもなお、漏れ聴こえてくる音から雨脚の強さが窺える。最新の予報ではこれから明け方にかけてさらに雨は強くなるらしい。
「じゃあ俺たちもひどくなる前に帰ろうか」
「えっ」
「えっ?」
立ち上がった楓を可不可が見上げる。思わず問い返した楓を真っ直ぐに見つめる瞳を見つめ返すと吸い込まれそうになる。瞬きでそれを打ち切るが、微笑んで自分の隣をぽんぽんと叩く可不可に促され、楓はもう一度ソファに腰を下ろす。寮のソファとも、病室の椅子とも違う感触で沈み込む。
「落ち着かない?」
「……うん」
可不可の実家、と言っても可不可がここで過ごしたのはほんの短期間だ。楓がこの家に来たのも、引越しの手伝いをしたり、理非人に顔を見せに来る可不可に付き添ったりしたごく数回だけ。可不可の言う通り落ち着かないのだ。
「ふふ、来てからずっとソワソワしてるもんね」
「う……あんまり来たことないから……」
「え~早く慣れてよ。これから何度だって来る機会があるんだから」
可不可が楓の肩にもたれるように頭を乗せる。甘やかな距離にもまだ慣れないが、触れる体温が心地よくて、目を閉じる。
「うーん、でも今日は帰らない? 今ならまだみんなも起きてるだろうし」
「でもこんな雨の中の運転、危ないんじゃない?」
「これくらいなら平気だよ」
「そうじゃなくて」
がばっと身を起こした可不可が楓の顔を覗き込む。眉を上げて楓を睨むように見上げた。
「せっかく二人きりなんだし、ってことなんだけど」
可不可、と名前を呼んだ声は少しだけ掠れてしまった。雨音に雷鳴が混じる。音は遠い。雨も先ほどと比べてそれほど強くなったわけではない。リビングが静まり返ったせいで耳を打つ鼓動はどちらのものだろうか。
「ね。運転、できそう?」
「……うん。やめておこうかな」
満足げに微笑んだ可不可が立ち上がる。部屋、こっち、と差し出された手を取る。冷えた指先に、視線がからんだ瞳の奥に、灯った熱に引き寄せられてその指先に口づけると、可不可は急かすように楓の手を引いた。