楓可不『夏のせいにして』 HAMAツアーズからは車で一時間と少し。半世紀以上前から高い知名度と人気を誇るその海水浴場は、来訪者数こそ最盛期からは落ち込んでいるものの、地元や近隣都市の住民から未だ根強い支持を受けているらしい。
「可不可! 多分もうすぐ海が見えるよ」
楓の言葉通り、急に開けた視界には海が広がっていた。ぽつりぽつりと人影が浮かぶ水面が、夏の日差しを受けてキラキラと反射する。緩やかに弧を描く水平線はHAMAの海とは違い、どこまでも続いて見えた。
可不可が小さく感嘆の声を上げると「窓開けようか」と楓が助手席側の窓を開けてくれた。途端に流れ込んでくる熱気に潮の香りが混じる。それは愛するHAMAのものとよく似ていたが、ずっと鮮烈だった。
そのまま海岸沿いに車を走らせて数十分。目的地の海水浴場はまだ朝早い時間にも関わらず賑わっていた。
海の家から離れすぎない場所にシートを敷きパラソルを立てた。大人数で来たら交代で荷物番をするらしいが、今日は二人きりだ。最低限に抑えた貴重品は防水ポーチで身につけて、飲み物を入れたクーラーボックスだけを置いていくことにしてある。
「はい、可不可。日焼け止め」
ちゃんと塗ってね、と楓が差し出してくれた日焼け止めを受け取る。手のひらに少し取って楓に返す。顔、腕、脚……楓と交互に日焼け止めを手に取り、丁寧に塗り広げていく。
「ごめん可不可、背中塗ってくれる?」
「うん! あ、あとで僕にも塗ってね」
羽織っていたシャツを脱いだ背中が可不可の眼前に晒される。思ったよりも広いその背中は特段筋肉質というわけではないが、可不可が体重を預けても大丈夫だと思える程度には頼もしい。ほんのり日焼けした腕よりも少し白い背中だが、その上を滑らせる可不可の手はそれ以上に白く浮き立って見える。真っ直ぐに伸びた背骨を数えるように辿ると「くすぐったいよ」と笑い混じりの抗議の声が上がった。手のひらを押し付けると少しだけ沈んで受け止めてくれる感触を思い出してしまい、可不可はそれを振り切るように首を振った。
「はい、おしまい」
「ありがとう」
交代、と背中を向けるように促される。パーカーを脱ごうと可不可が手をかけるよりも早く、後ろから回された楓の手がファスナーを捉えた。戸惑う隙も与えられないままパーカーが脱がされた。
「か、楓ちゃん……僕やっぱり自分で――」
「だーめ。塗り残しがあったらそこだけ焼けちゃうでしょう?」
可不可の主張は即座に却下され、楓の手が可不可の背に触れる。日焼け止めを、塗っているだけ。塗ってくれているだけ。そう思うのに、触れられたところがじんわりと熱を持つような痺れるような心地がした。
「ね、首とか耳の後ろも塗った?」
「塗って……ないかも……」
でもそこは自分で、と言うよりも楓の手が触れる方が早かった。よく塗り残してここだけ焼けちゃうんだよね~と笑う声が耳を擦る音に掻き消される。楓が耳の凹凸を丁寧になぞる度に背中が震えた。もう限界だ、そう言おうとしたところで楓の手がぱっと離れた。
「楓ちゃん……」
可不可が声を絞り出しながら振り返った時、楓は普段と変わらない様子で日焼け止めの蓋を閉めていたが、可不可と目が合うと頬を引き攣らせた。じわじわと頬が赤くなっていく。
「あー…………ごめん、そんなつもりじゃ……」
目を泳がせてる様子を見るに、その言葉に嘘はない。自分だけが勝手に意識していたことが余計に恥ずかしい気持ちもあるが、自分以上に狼狽える楓が可愛く見えて、可不可は楓の手を取った。
「行こう、楓ちゃん!」
せっかくの海、初めての海水浴だ。胸のざわめきはまだ収まらないけれど、この暑さのせいにしてしまえばいい。足が沈み込む砂浜の歩きにくさも、足を止めたら火傷してしまいそうな熱も、繋いだ手が汗ばんで滑るのも、それだってきっと。