楓可不『消えない』 背後から身体を貫くような衝撃。あの小さな身体のどこに、楓を突き飛ばすだけの力が眠っていたのだろう。
突き飛ばされ、ドアの隙間をすり抜けるようにコントロールルームから転がり出て。心臓が激しく暴れているのは全力で走ったからというだけではない。全身に酸素を送り出そうと拍動してもなお停止した脳では、何が起こったのかすぐには理解できなかった。
主任、と楓を呼び無事を確認した生行が完全に閉じたドアに向かって可不可の名を呼ぶ。返事のないドアに手を当てた幾成が眉をほんの数ミリ顰めて首を振る。
じわり。倒れ込んだ時についた手や擦りむいた傷の痛みがようやく伝わる。心臓の音が煩い。耳鳴りのように思考を邪魔されている。行かなきゃ。
どこへ? 可不可のところへ? それとも――
地鳴り。轟音。そして、聴いたことのない音を伴って押し寄せる海。渦巻く水の塊に飲み込まれて、意識が途切れた。
薄暗いながらも見慣れた天井が目に入る。全身がじっとりと湿っているが、身体を包み込むのは海水ではなく柔らかな寝具。隣から聞こえる規則的な呼吸。目を閉じて、薄い胸を微かに上下させる温もりにそっと触れ、確かめるように耳を寄せた。トクリ、トクリ。穏やかな鼓動に目を閉じる。可不可の命の音が聴こえる。可不可が、生きている。
「可不可」
呼びかけた声は夜に溶けて消える。
可不可に突き飛ばされたこと。楓はコントロールルームを脱出し、可不可だけが取り残されたこと。可不可が、自らと引き換えにする形で楓を救けようとしたこと。「どうしてこんなことをしたんだ」と怒りたくても、可不可は目の前にいなくて、もう二度と会えないかもしれないこと。理解した時にお腹の奥底で渦巻いたものの正体を楓は知っていた。可不可が釣りを教えてくれると約束をくれた日。会いに行った可不可に会えなかったあの時に味わったものと同じものだ。
こわかった。こわくてこわくて堪らなかった。
可不可に言ったように、楓が可不可の立場でも同じことをしただろう。けたたましく鳴り響くアラート音。閉まりゆくドア。目の前を走る大切な人の背中を全力で突き飛ばせば自分はともかく可不可だけは助かるかもしれないと思えば、楓も迷わず可不可に手を伸ばしたはずだ。
大切な人を犠牲にして生かされたことへの罪悪感や後悔が、どれだけ生かされた者を傷つけるのか。身をもって味わっても、それでも楓だって可不可に生きてほしいと願うだろう。
「楓ちゃん?」
頬に触れた温もりがもぞりとうごめく。覚醒し切らない輪郭のない声に呼ばれて目を開けば、薄暗い中で金色が瞬く。道標のようなその瞳に導かれるように手を伸ばす。触れた輪郭を撫でれば、可不可は気持ちよさそうに目を細めた。
楓は身体をくっつけたまま布団に潜り込み、可不可をそっと抱き寄せた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん。楓ちゃんこそ。嫌な夢でも見たような顔してる」
「そう、なのかな。忘れちゃった」
「……そっか」
楓の嘘に可不可はきっと気づいている。可不可が楓の嘘に気づいてることに、楓が気づいていることにも。ふたりで下手くそな気づかないふりをして、背中に回した腕に弱々しく力を込める。
頼りない腕で、愛しい温度がそこにあることを互いに確かめるように。
可不可の小さな手が背中を撫でる。まだそこに残る痛みに気づかないふりをして、楓は静かに目を閉じた。