楓可不『レモンの味はしないけれど』 昨日、可不可は楓と恋人になった。「本当に?」と念押しする可不可を楓は「本当だよ」と笑っていた。
だって本当に信じられなかったのだ。キミの隣にいられるのならなんだっていい、そう思っていたのは本当。今まで通り、幼なじみで社長と社員のままでも構わないと思っていたのも。でも楓がずっと一緒にいようね、と言ってくれる理由が、可不可と同じになればいいと思っていたのも本当で、きっとそうならないと思いながらも、ずっと願っていたから。
「明日のお出かけ、本当にデートになっちゃったね」
何度も何度も繰り返し確認する可不可に嫌な顔ひとつせずに何度でも答えてくれた楓がくすぐったそうに笑っていたのだって、出来のいい夢のようだったけれど、楓の手が頭を撫でる感触が現実だと示していた。
以前から約束していた市内視察もとい初デートは、いつも通りの雰囲気になるだろうと思っていたが、そんなことはなかった。可不可が今まで半分冗談、半分本気で「デート」と称していたものはただの外出でしかなかったことを思い知らされた。
服装も、会話の内容も、行き先も普段とそれほど変わらない。戯れに何度か握ったことがある時とは違う、指と指を絡めるように繋がれる手だけがいつもと違って、それだけで可不可の心臓はドクドクと暴れ回っていた。
事前に決めていた場所を回り終え、HAMAの中心地とも言えるエリアが一望できるベンチで一呼吸つく時も、可不可の心臓はうるさいままだった。今日の振り返りをする楓の口調もいつも通りで、でも繋がった指先はぎゅっと絡められたままで、その温度差にくらりとした。
「可不可? 大丈夫? 疲れちゃった?」
ぼんやりとする可不可の眼前で手をかざす楓の表情はやはりいつも通りで、それがなんとなく悔しくて可不可は思わず口を尖らせた。
「僕ばっかりドキドキしてる」
「え? そんなことない、と思うけど」
「楓ちゃんはいつもとあんまり変わらないのに……僕ばっかり浮かれてるみたいだ」
うーん、と楓が苦笑する気配がする。いじけたような態度を取ってしまって、それが少し恥ずかしくて顔を上げられないでいたら繋がったままの手をくいっと引かれた。そのまま持ち上げられた手が楓の胸元に触れる。
「ちょっと触ってみて」
首を傾げながらも緩んだ楓の手から抜け出した手で楓の胸にそっと当てる。ドクドクと脈打つ生命のリズムは、一般的なものよりも随分と速い。きっと、可不可と同じくらいに。
「……ドキドキしてる」
「でしょう? なんでだと思う?」
自他ともに認める優秀なはずの頭が、楓の前では時々エラーを起こしたように働かなくなる。今だってそうだ。簡単なはずの問いに答えられず小さく首を振った可不可に、楓は優しく微笑んだ」
「可不可の隣だからだよ。可不可と約束して出かけるのも、手を繋ぐのも初めてじゃないけど……恋人としてデートしたり、こんな風に手を繋ぐのは初めてだから」
ね? と笑う楓の頬がほんのり赤い。
「ずっとキミのことがすきだったから……キミのそばにいるといつもドキドキしっぱなしだったし、今までと変わらないと思ってたけど……そっか、そんなことなかったんだね」
例えば、楓が店のドアを開けて可不可が通るまで押さえていてくれる時、ドアを通る可不可の手をそっと引いてくれた。自転車とすれ違う時に守るように遠ざける時、腕ではなく肩を引き寄せられた。買い物して荷物が増えたら大きくて重たそうなものを持ってくれる時、空いた手はすぐに楓の手で塞がれた。
ランチのメニューで可不可が迷っていたらいつものように「俺これにするから分けっこしようか」と言ってくれて、いちばん美味しいところを可不可に分けてくれる時、フォークを差し出したまま可不可が口を開けるのを楓の方から待っていた。いつもなら「自分で食べなよ」と苦笑していたのに。
今までと変わらない楓のさりげない優しさにほんの少しだけ「恋人」という色が加わると、些細な仕草がこんなにも甘い。
「僕だけがすきなんじゃなくて、楓ちゃんも同じ気持ちなんだと思ったら前よりドキドキしてるかも」
見慣れた楓の瞳がフィルターがかかったように柔らかに見えていたのはいつからだったのだろう。それもきっと、同じ理由だったんだと今ならわかる。
「楓ちゃんと見るHAMAの街が何より綺麗だと思ってたけど、今日がいちばんだった。前よりも今の方がもっとキミのことがすきだよ」
「俺も……そうかも。きっと、これからもっとすきになるよ」
「ふふっ、すきにさせてみせるよ。覚悟していて」
「可不可が言うとなんか怖いなあ……」
苦笑する楓に思わずくすりと笑みが溢れる。肩を寄せ合って、くすくすと内緒話をするように笑い合って。それが途切れた時にふと訪れた沈黙を破ったのは楓だった。
「ね、可不可」
楓の指先が形を確かめるように可不可の耳をそっと擦る。ちゃりっと小さく耳元で音が鳴る。指先から伝わる熱が、いつになく真剣な楓の瞳がくすぐったい。
「なあに? キスでもしてくれるの?」
「したい。…………ダメ、かな?」
可不可は茶化すように返したが、楓は笑わなかった。それどころか、ほのかな、でも確かな熱に揺らめく眼差しを向けられて、渇いた喉がゴクリと鳴った。
「僕も」
僕もしたい。細く掠れた声は最後まで音にならなかった。けれど可不可の唇をじっと見つめていた楓は可不可の言葉の続きを正しく受け取ったようだ。その証拠に耳朶に触れていた指先がそっと頬を滑り、親指が震える唇を辿り、くっと顎を持ち上げて固定する。ゆっくりと近づいてくる瞳から目が離せず、瞬きすらもできずにいると楓がくすりと笑った。
「目、閉じて」
触れた鼻先を擦り合わせて囁く楓の声に従って、可不可はそっと目を閉じた。