ゆめのなかでもそばにいろ 零
出られない。四方を砂に囲まれ部屋の中にさえ黄色の波が立つ家の中に、俺はその砂みたいな色の髪をした男と二人きりでいる。俺はその家から、四方の砂から出られない。そいつはいつも暗い目をして、俺が帰ろうとするのをじっとりと拒む。俺がこの地底から脱け出そうと梯子に手をかけるたびに、
「イヤ、な、そこまで帰ることに執着しなくても。」
「砂かきが終わらないんだ……。もう暫く手伝ってくれ。」
など言ってくる。俺はかの珍しい虫、小さな羽虫であるが貴重なそれを探しにきただけだ。だというのに俺は砂に、あの男に阻まれている。露を含んで重い砂を掻きながら、砂の上から覗く、あいつと同じような暗い目に刺されている。
どうして俺はこんなところにいる?
こんな所にいては屹度おかしくなってしまう!
此処から出たい、出たい出たい出たい!
一
「此処から出せ、出せェッ。」
月曜日。六時のアラームが鳴った。青年は意識が覚醒するよりも早く布団を跳ね除けた。発条のように跳ね上がった上体はわなわな震えている。眼窩からこぼれそうなほどに青の目を見開いて、肩で息をする。己の身を掻き抱いた。間髪入れずがらがらの声で叫んだ。
「俺はこんなこと、真平御免だっ。」
その叫び声を聞きつけて一階のリビングから階段を駆け上がる姿があった。青年の名前を呼びながら、どたどたと。その人物はこんがり焼けたパンを頬張りながら、開いた扉から中の様子を覗き見た。
「大丈夫か、長義っ。」
その声にはっとした長義は顔を上げて、
「……今日は、砂の中に閉じ籠められたんだ。お前と一緒にね。あんなところ、二度とごめんだ、息苦しくて敵わない。なあ国広、俺はおかしくなってしまったかな。俺はどうにも、怖くて仕方がない。」
と喚いた。そうしてがっくり項垂れた。国広はパンを口に押し込みながら、長義が横たわるベットに腰掛けた。
「あんたはおかしくなんかなっていない。現に、俺の事をちゃんと認識できている。」
そう言いながら、国広はまっすぐに長義の顔を見つめた。恐怖に沈んだ青が、雨降る水面のように揺れている。カーテンの隙間から差す朝日に反射する銀髪を指で除けてやると、気弱そうなその顔がはっきり見えた。
「弱ったような顔をするな。あいつに言われた通りに、俺があんたのそばに居る。……そら、あんたの分のパンが焼けるぞ。」
国広が微笑んでそう言うや否や、ポップアップ・トースターが軽快な音を立てた。長義は吹き出した。
「ありがとう。もう大丈夫だ。夢から覚めたらお前がいるというのは安心するな。……夢のこと、先輩に連絡しておこう。」
長義は枕元のミニテーブルに置いたスマホに手を伸ばすと、『姫鶴先輩』と題されたトーク画面に手早く文を入力した。二人は食事を終えるとブレザーに着替え、銀糸で二本の線が織られた青いネクタイを締め、学校へ歩き出した。
二
「およよっ? なんかー、いつにも増して長義が大変そうだ〜っ、だいじょうぶ?」
朝。カーディガンの袖をびろびろ伸ばした直胤が、不眠から机に突っ伏している長義の前にしゃがみ込んだ。長義は意味の成さない呻きで答えた。
「直胤、あまり大きな声を出さないでやってくれ。あまり眠れていない。」
首を傾げながら長義を覗き込もうとする直胤を国広が制する。直胤は「あうっ、ごめんっ。」というとニカっと笑って一歩後退りした。直胤は級友である。化学の徒を自称し、その上旺盛な好奇心は科学の枠を外れ様々な方向へ散っている。その散った先で眠りの中の夢にも根を張った。故に直胤は長義の話をしきりに聞きたがる。そしてたまに助言をする。国広に、なるべく長義のそばに居てやれと言ったのも彼である。彼にとって万物は己の好奇心を誘う起爆剤であり、長義もまたそのうちの一つである。
「長義が辛くなかったらでいいんだけど、また話聞かせてほしいなぁ〜っ。」
伸び切った袖をゆらゆらさせてじりじりと後退しながら、直胤は自席に戻っていった。長義は頭をゆっくりあげて、「分かったよ」と微笑み言った。
「ああやって興味を持ってくれる奴がいるのは、救いだな。持つべきものは友人とはよく言ったものだ。あいつの知識は馬鹿にならないし。」
「なあ国広?」と、長義は隣に立つ国広を見上げた。国広は煮え切らない顔をして、曖昧に頷いた。
「無理をするなと何度も言ってるだろう……。」
「してないさ、話して楽になることも、大いにある。」
愉快そうに笑う長義に国広はため息をひとつついて、長義の椅子の背もたれをコンコン叩いた。
「図書室、行くだろう?」
長義は一瞬ハッとして、その後すぐに立ち上がった。
「もちろん。先輩方の助言を頂きたい。」
三
放課後。図書室に入ってすぐ、司書室と小さな看板がかかったドアをノックする。国広が小声で中に呼びかける。
「姫鶴先輩、後家先輩、いますか。」
「ん、いるよ。」
「入っておいで。」
二つの声が返ってきた。狭い司書室に、黒地に三本金糸の線を織ったネクタイを締めた生徒が横並びに座っている。赤い髪を肩の上に束ねた後家は嬉しそうに手招いている。国広と長義は招かれるまま、丸椅子に腰掛けた。白から灰にグラデーションが掛かった長髪を高い位置に束ねた姫鶴が言った。
「ちょぎ、また変な夢見たんだってね。ほら、おいで。」
彼は小さなぬいぐるみやキーホルダーをじゃらじゃら下げたスマホをスラックスから取り出して、長義とのメール画面を表示した。そこには今朝見た夢の内容が業務連絡のように順序良く綴られている。姫鶴は幼い時から夢占いなどに明るかった。ゆえに大学部三年の多忙な時期であるにもかかわらず、長義の異変の追求を手伝っている。その友人である後家は本好きが高じて図書館整備活動に参加しているため、姫鶴に巻き込まれる形で知識と情報を提供している。スマホを後家に押し付けながら姫鶴が問う。
「砂の中で暮らす夢、ねえ。ごっちん、なんかそーいう本、知らない?」
「待って待って、それ、ボクも読む。てかおつう、ほんとにキーホルダー多いね。重。」
「あ? うるさ。」
姫鶴はテーブルの下で後家の脛を蹴り付けた。「痛!」と後家が叫んだ。
「一言多いっつってんの。」
「もう、ごめんってば。」
眉を下げて笑いながら脛を摩る。テーブルに置いたスマホをスワイプしながら、後家は顎に手を当て首を傾げてみせた。
「なーんか聞いたことある気がする。ちっと待ってて。」
後家は司書用のPCの前に腰掛けると、カタカタと検索を開始した。図書館整備活動参加者は自由に使用していいことになっている。姫鶴が長義に向き直り話し掛ける。
「ちょぎ、夢のまとめ書き出してよ。」
長義はハイ、と答えると、ブレザーのポケットから小さな手帳を取り出し、適当なページを開いてテーブルに置いた。二ヶ月前からの日付と、『蜘蛛の糸』『変身』『外套』その他、文学作品の名と夢の内容が書き付けてある。姫鶴は手帳を覗き込んで、書かれている作品名を読み上げた。後家は姫鶴の読み上げる声ひとつひとつに頷きながら呟いた。
「欲張って地獄に逆戻り、芋虫になって親に殺される、外套を取られて気を病んで死ぬ……。」
後家がため息混じりに苦笑した。姫鶴は訝しげに長義を見遣った。
「ほんっと、救えね〜って夢ばっか見てんね。」
「まあ。……ですが、今朝の夢では俺は死ななかったんです。閉じ込められは、しましたが。」
姫鶴はへえ、というと、小さく笑った。
「ま、一応、好転って捉えていーんじゃん? 読む本変えたからだろーね。得た知識とか感覚で、夢ってすぐ変わっから。」
手帳の頁をぺらぺら捲りながらそう言った姫鶴が不意に、「ん、なんだろ」と声をこぼした。眉を顰めて長義を見つめる。
「ね、ちょぎ。この、金色の髪の男って誰? 登場頻度高くね?」
そう言われた長義はハテと険しい顔をした。
「毎回、居るんですよ。顔ははっきり認識できないんですが、金髪の、俺と同じくらいの背格好の。」
国広がポツリと言う。
「俺みたいなの、ってことか?」
まあ、と長義が頷いて返す。長義の声と同じくして、後家は目当てを見つけたようで、早速それを印刷してテーブルに置くと姫鶴の隣に座った。
「『砂の女』。安部公房だね。ほらおつう、高等部の時『鞄』って習ったでしょ。あれと同じ作者の作品だよ。」
姫鶴は「あー」と気の抜けた返事をした。
「もしかして覚えてない……? 理解できねー、って愚痴ってたじゃん。」
「あーはいはい、あれっしょ、嫌になる程自由だった、ってやつ。」
「覚えてんじゃん……。」
テーブルの下でまた硬い音がした。後家が呻いた。脛をさすりながら後家が話し始める。
「長義くんが夢で見た範囲では停滞から抜け出そうとしてるけど、迎える結末は停滞でしかない。でも夢の中で死ななかっただけ成長であり変化、って感じがするな。」
「本の系統変えたってのは知ってんだけど、じゃあ今なに読んでんの?」
「注文の多い料理店とかですね。」
国広がスマホを起動させ、写真を表示する。そこには長義の部屋の本棚が写っている。
「宮沢賢治とか、新美南吉なんかの童話を揃えるようにはしている。」
姫鶴が国広のスマホをひょいと取り上げ一瞥する。
「懐かし。確かに前よか明るいの読むようになってんね。……てかこの本棚、まじで生真面目〜って感じ。もっとラフなやつ読めばいいのに。」
姫鶴が鼻で笑いながら呟いた。あーでも、と付け加える。
「ちょぎ、ラブコメとか読めないっしょ。」
「読もうと思えば……?」
「嫌そうすぎ。爆笑。」
「苦手なんですよ、甘ったるい恋愛譚は。」
長義が顔を背ける。その頬を姫鶴が突く。
「なんで苦手なの?」
「確かにそれ気になる。高校生なんて、初めて恋して後悔してってのが常っしょ。」
後家が尋ねた。姫鶴が続いた。先輩二人に詰め寄られ、「なんと言えばいいか……。」と口篭る長義の代わりに国広が口を開いた。
四
「こいつは愛とか恋について理解できないだけだ。恋愛行為も、それに続くらしい生殖行為についても、意味も理由も必要性も理解できない。それは長義だけじゃなく、俺も同じだ。」
後家は「へえっ」と気の抜けた声を上げた。後家と姫鶴が詰め寄る。
「まだ高校生なのにルームシェアして暮らしてるなんて、途轍もない覚悟と愛以外の理由ないだろうに。友達だからって理由だけじゃ二人暮らしできないよ。ねえ、おつう?」
「そーそー。俺たちも昔やろうとしたけど寮の同室すらしんどくて無理だったし。」
二人の目の色が変わる。俗っぽいものを求める、好奇の目に。二人の関心が自身の夢ではなく思春期の恋心に移ってきたのを感じ取った長義が、すっと手を挙げて二人を制した。
「先輩方、俺は恋話などしにきたわけではありません。茶化されているように思えて、少し傷付きます。」
長義は二人を睨み付けた。二人はぎょっとして顔を見合わせた。
「んえ、そんな意図無いけど。」
国広が慌てて、長義の肩を掴んだ。
「長義、言葉が強い……。」
国広に微笑みながら言う。
「伝えねばわからないこともあるだろ。」
失礼かとは思いますが、と前置きして、長義は口を開いた。
「俺たちの間には先輩方が期待するような淡い心はありません。それに、恋に焦がれるのを望むことも、愛欲に堕ちたいと思うことも、まだ、というか、金輪際、きっとありません。」
それに、と続ける。手帳を自分の元に引き寄せて、どのページにも書いてある『金髪の男』の字を指差す。
「俺は怖いんですよ。一緒に暮らしている奴と似た男が、夢の中にも現れてくることが。俺は何か、こいつに嫌なことをしてしまったのではないかと。いっそ、夢の中で俺を殺すなり共倒れするなりして、俺に嫌われたいなど思っているのではないか、と。」
長義が国広の頭をするりと撫でる。国広が目を見開いて、長義を叱り付けた。
「あんた、何を言ってるんだ、俺がそんなこと、思うわけないだろっ。」
長義は国広を見つめ、ゆっくり頷いた。国広の耳元で囁いた。
「分かってる、分かっているつもりでいたい。だが。……先輩達に曰く、同居が二年も成立してるのは愛以外に理由がないらしい。俺はそれが腹立たしいんだ。今は少し、黙っていろ。」
国広が俯いた。長義は再び二人のことを見つめた。長い睫毛から覗く青い目には、世紀の発見をしたような明るい光が灯っている。
「俺はこいつを信じているから、こいつしかまともに信じられる奴がいないから、夢の中で外套を奪られたり林檎を投げつけられるたびに、こいつが俺に嫌われたいなど思っているのではないかと勘繰ってしまうわけです。決して、あなた方の思うような愛などでは、ない。」
「姫鶴先輩、仰ってましたよね。望むことが、夢の中にまで付き纏ってくることがあると。ともすればこの夢どもは、俺ののぞみの成れの果てなのだろう。」
「ならばもう、あなたたちに相談することはない。」
一息に言い切ると長義はすっくと席を立った。そして国広の手を握ると無理に引っ張った。国広は体制を崩しかけたが、長義に抱き止められた。
「言いたいことを言えて、すっきりしました。では、俺たちは帰ります。もう、六時ですし。」
帰ろう、国広。自分の体に寄りかかったままの国広の手を握り直し、長義は司書室の扉へ歩き始めた。国広はよろけながら長義について歩くほかなかった。暗くなり始めた司書室に取り残された後家と姫鶴は呆然としたまま呟いた。
「おっそろしーね。」
「賢くて未熟なのって、大変だね。」
「愛って何なんだろ。やっぱちっと、むずいかも。」
五
薄暗い階段をカツカツ降りる、調の狂った音が二つ。国広は長義に手を引かれ幾度か転げそうになっている。焦ったように眉を顰める国広と反対に、長義はいかにも調った歩き方で清らかに微笑んでいた。
「長義っ、待て、先輩達にあんな言い方は……。」
「良いんだよ。勘当されても構わないさ。あーあ、清清した。」
長義の軽い歩調に引き摺られ、慌ただしく階段を滑り降りる国広は度々に長義の名を呼んだ。
「愛には薄汚い欲が絡んでいる。そうに決まってるんだ。だが俺たちの間に、そんなものはない。だよな?」
長義は不意に踊り場で立ち止まって、階段を降りている途中の不恰好な立ち姿の国広を見上げた。薄闇の中に青い目が、訝しげな暗い光を湛えて揺らいでいる。
「それは、そうだが……。」
ひゅっ、と息を吸う音が聞こえた。それを国広が知覚した瞬間に、国広は襟首を掴まれていた。思わずつんのめって、長義に倒れ掛かりそうになった。
「気持ち悪い、だろ。学校に上がる前から一緒に育った、顔のそっくりな奴が、自分のことを好きだった、なんて。下卑た思惑があって、一緒に暮らすようになった、なんて。俺はそんな、気持ち悪いことはしていない、そのはずなんだ。」
長義は噛み付くように叫んだ。人のいない校舎に声が反響している。国広は長義の手を握って、そっと襟首を離させた。
「違うんだろ。あんたに俺への愛はないんだろ。なら、俺も、あんたへの愛はない。一緒に育った中で生まれた、子供らしい拙い絆しか、俺の心にはない。」
「ああ、それでいい、んだ。」
国広が長義の手を柔く握ったまま、階段を降りる。同じ高さに並ぶ頭が、こつりとぶつかる。国広が言う。
「あんたとなら一緒に砂の底に沈んでもいい。麻酔無しに心の臓にメスを入れられても、執刀医があんたなら痛くない。孤島に二人で捨てられても、きっと狂わず清らかに生きていかれる。」
ああ、そうか、嬉しいよ。と長義が零す。窓から入る街灯の薄明かりが、長義の頬をぬらぬら照らしている。白い肌の表面に、一筋水が滴っている。
「俺はこのまま、お前と一緒に砂に沈んでいきたいよ……。これから大人になって、心も肉体も変わっていくなんて、ごめんだ、恐ろしくて敵わない……。」
国広は長義の背に手を回し、トン、トン、と叩いた。長義はしばらくの嗚咽の後、絞り出すように涙を流した。
「俺はっ、俺は、ああやって感情を他人に定義されるのが嫌なんだっ。」
「そうだな。俺だってそうだ。俺は俺、あんたはあんたの心を持っている。」
唸るように泣く長義が、一瞬、はっとしたように目を見開いた。
「俺は……お前の心を勝手に定義した、よな。嫌になるな、されて嫌なことを無自覚にしているなんて、馬鹿の所業だ。」
国広が首を横に振る。
「構わない。事実、そうだからな。俺はあんたと同じだ。同じものを見聞きしてるんだから、同じ心にもなるだろう。」
「ある意味、考えすぎだ、あんたは。」
「あんた、ここ数ヶ月間、変な夢ばかり見てちゃんと寝れてないだろ。そのせいで情緒が不安定になってるんだ。帰って寝るぞ。明日は土曜だからな。うんと寝ろ。」
国広は長義の肩に手を置いて、涙に揺らぐ目を覗き込んだ。長義は震える声で、下手に笑ってみせた。
「あは、なんだか、丸め込まれてしまったな。」
「すまんな。俺はこういう性質なんだ。許せ。」
「許すさ。その代わり、お前も俺のことを許せ。」
「言われずとも。」
全てを有耶無耶にしようと国広が言い回した言葉を長義が素直に受け取った。国広は心中で安堵した。