ある日の夜の話瑞月と猫猫の第一子である長男の颯凜が生まれて二週間あまり。
瑞月は吾子が生まれて以来、猫猫と寝室を別にされてふてくされていた。
寝室を猫猫と離される理由は、瑞月も頭では理解していた。
ただでさえ、睡眠時間削って仕事している瑞月の睡眠を削ってはいけないという、周囲のありがたい配慮であることは。
時々、一人で寝るのが辛くなり、猫猫と吾子のいる子供部屋にたまに補充に寝に行くのがここ最近の瑞月の夜の日常になりつつある。
吾子の世話という一仕事終えすっかり寝入っている猫猫を押しのけて、瑞月は猫猫の隣を陣取る。
吾子は、寝台の横並びに置かれた吾子用に作られた柵付きの寝台にすやすやと寝ていて一安心である。
瑞月は、眠る猫猫を引き寄せ抱きしめて、久しぶりのぬくもりを胸に眠りについた。
赤子の泣き声に瑞月は目を覚ます。
猫猫は珍しく深い眠りにいるのか起きない。
瑞月は寝台を抜け出し赤子を寝台から抱き上げる。
取りあえずおしめ変えるが、それだけではないらしく、泣く。
小さな身体には似合わず、元気に泣く。吾子をあやしても泣きじゃくる。
瑞月は最初の頃程の焦りなく猫猫や水蓮に聞いた知識を総動員して答えを導き出す。
お腹空いたか。
吾子をあやしつつ猫猫を横目に見れど、猫猫は起きない。
仕方ない。
猫猫が起きるまでだ。
瑞月は、猫猫をもう少し寝かせてあげたくて、不意に行動に出る。
寝台近くの椅子に掛ける。
瑞月は夜着の合わせを緩めて、片方の胸を晒すと乳の出ない自分の乳首を、乳をほしそうに探している吾子に含ませた。
吾子が瑞月の乳首を咥えた。
途端に、走る乳首の痛みに驚く。
かなり強いチカラだ。
生命に直轄するから当然ではあろうけど、こんな痛みに耐えているのだと思うと瑞月は複雑になった。
母は強いのだなぁと、しみじみに思う瑞月である。
戸を軽く叩く音の後に
吾子の泣き声を聞きつけたか水蓮が、瑞月の返事待たずに扉が開けられた。
「……坊っちゃん」
「これは……その」
これはかなり気まずい。
焦りで、瑞月の頭は既に真っ白で、その場に固まるしか出来ないでいる。
吾子は必死に出ない乳を求め吸い、出ないと泣き、また見つけた瑞月のそれに食らいつくと吸い始める。そして、出ないと泣くという悪循環を繰り返す。
どうにかしないとと思っていた瑞月に水蓮が近づいて来て。
再び、颯凜が泣き出し瑞月の乳から口を離した所で、水蓮が吾子の頭をゆっくりと引き瑞月の乳首から遠ざけてくれる。
瑞月は、助かったと、バツ悪く夜着の襟元を早々に引き上げる。
当然ながら、吾子は空腹で泣くわけで。
瑞月が水蓮を見遣れば、水蓮は落ち着いた笑顔で、瑞月に笑みをくれた。瑞月の奇行には気を止めるでもなく。
それはそれで助かったと思う瑞月である。
「小さな坊っちゃんはお腹空いてるのだから、それでは無理ですよ。眠りに入る前のぐずりならともかく。
今は、猫猫起こす以外にはないです」
「…………そう、なのか?」
「ええ。そうです」
水蓮に言われ瑞月は吾子を水蓮に託す、水蓮は寝ていた猫猫に声をかけて肩を軽くゆすり起こし、颯凜を猫猫の横に寝かせた。
やっと吾子の泣き声に気づきわずかに猫猫が目を開ける。
猫猫は眠いのか、半ば反射のように慣れた様子で寝たままに片方の胸を曝すと赤子に含ませ、小さな身体を抱き寄せる。吾子はやっとありついた乳に喉を鳴し飲んでいる。
その音は思ったよりも大きくて、瑞月は驚く。
猫猫はまだまだ眠いのか、その瞳は閉じたままである。
痛くないのか、瑞月の顔は微妙に歪んでいた。
「敵わないな」
「ええ…」
「まだ、今はそうですね。小さな坊っちゃんがもう少し大きくなったら貴方さまの出番ですよ」
「楽しみにしている」
水蓮が瑞月にだけ届く声音で囁く。
「おんばは何も見ていません。安心してください」
瑞月はなんとも言えない表情になる。
「ああ」
「ここは後は坊ちゃんに頼みますよ。何かあったらまた呼んでください」
水蓮は部屋を後にした。
しばらくして、目が覚めたのが、猫猫が乳を飲む吾子を抱えたままに、むくりと上半身を起こした。
「瑞月さま。いつからそこに?」
猫猫の問いには答えず、瑞月は己の聞きたいことを猫猫に問う。
「痛くはないのか?先ほどからなんだかものすごい音がしているが。」
猫猫は、慣れた様子で吾子の口と乳首の間に指を1本突っ込み、吾子の口から乳首を外す。
それでも足りないとばかりに泣く吾子の向きを変えて、反対側の乳首を含ませている。
先ほどの勢いはなれど、なかなかの飲みっぷりに、瑞月は感服してしまう。
「ああ、痛いと言えば痛いですけと、少しは慣れましたよ。何度か乳首の先切れましたしね。でも、結局この子が飲んでくれないと大変なことになるんですよ。胸が張って痛いんです。逆に腺が詰まって大変なことになります。」
「………そうか」
女性は母になるとたくましくなるとは聞くが。
元々たくましい猫猫が更に強くなった気がする。
瑞月は猫猫の隣に掛けて、我が子を愛おしく眺めていた。
「あまりじっと見ないでください」
「かわいい我が子を眺めて何が悪い」
「穴が開きます」
なんという言われようか。
だが、猫猫らしい言い回しに瑞月にも笑みが漏れる。
「じゃあ、子育て中の猫を見ることにしよう。それなら文句あるまい」
一瞬、猫猫の目が半顔になるが、すぐに穏やかな母のような笑みを浮かべている。
最近知った、瑞月の知らなかった猫猫の一面だ。
「冗談ですよ。この子たくさん構ってあげてください。この子がさみしくないように」
「そうだな」
それはお互いの過去を思えば出る言葉だった。
お互いに視線が絡んだ。
瑞月は、少し身をかがめると、猫猫の唇に己のそれを重ね、わずかに触れるだけで離した。
猫猫には少し呆れたような目された気がするが、瑞月は気にはしていなかった。
愛おしい。
吾子のためこのくらいで耐えているのだから、触れることを許してほしい。
瑞月は猫猫の頬を挟むようにして、壊れものに触れるように優しく撫でる。
猫猫は何を言うでもなく、瑞月のされるがままである。
何度か撫でて、瑞月は手を名残惜しく頰から離した。
今はこれだけでいい。
近くには猫猫がいて、一粒種の颯凜がいてくれるだけで充分だ。
あとは、何もいらない。
猫猫と視線が絡む。
瑞月はただ穏やかに笑む。
猫猫も瑞月につられるように笑む。
そこには時だけが、静かに、ただ穏やかに流れていた。
月だけが三人を見ていた。