近くて遠い、それでも手を伸ばせば届く距離にいるあなたへ 壬氏から呼び出された。
何かあったのかと急いで来てみれば珍しい菓子が手に入ったと、猫猫は呼び出された、らしい。
「あなたも随分疲れた顔してるわね。呼び出して正解だったわね。少し宮で休んでいけば?」
それは仕方ない。実際忙しかったのだから。
水蓮に心配されつつ、猫猫は壬氏の前の椅子に掛けた。坊っちゃんもやっと執務室から出てきたのよと猫猫に愚痴ってくる水蓮。壬氏も忙しかったようで、目の下には隈がある。
疲れている上に、言われのない文句を人に向けられるのは壬氏も嫌だろう。うっかり口に出さなくてよかったと、猫猫は苦笑いしか出なかった。本当にあぶなかった。
「さすがにそれは……」
けれど、自分だけこうしてサボっているというのも、罪悪感がある。
「坊っちゃんの休憩の相手も必要な仕事でしょう」
確かにそういう役目の人間がいてもおかしくはないのはわかる。なにせ、壬氏は茘の皇弟様である。
そして、目の前に並ぶのは、猫猫には絶対に手に入れることが出来ない品。いつものように、壬氏と並んで普通に食べているが……。
よく考えれば、雲の上の人である皇弟様にお茶のお供にと招待されているという事実は信じがたくも現実である。
しかも、その皇弟様が皇族らしくない、犬のような繊細な御仁であると、知っているから、離れるに離れられず、いつの間にかその存在は、猫猫の中で、ただ大きくなるばかりだった。
それは猫猫の予想を超えた大きな事になっているのだと、少なからず自覚が、あった。
「猫猫、どうかしたか?」
壬氏は屈託のない笑みを猫猫にくれる。
「別に、何かあるわけではなく」
猫猫が笑顔を返せば、瑞月も少し疲れた顔で見返して来た。
「それならいいが」
壬氏は、猫猫の前で間抜けなくらいの大きな欠伸をしていて、眠そうに見えなくもなかった。他人には見せない素の部分に触れることができるのはうれしくもあるが、仕事適当に切り上げて夜は寝ればいいのにと、猫猫は思う。本当に、学習能力のない人である。
猫猫の口調にも、つい呆れが混ざり込む。
「壬氏さまもお疲れのようですが。夜は寝ないと身体に悪いですよ」
壬氏は猫猫の言葉に、苦笑して無言で見てきただけだっだった。
壬氏と一緒に食べて、時々、思い出したように他愛のない話をして。
それだけで、猫猫の今日の仕事の疲れが癒えてゆく。気を張ることなく長く一緒に居れるのは大きい。
「明後日は猫猫も会場にいるのだろう」
明後日は、隣国の王子がやって来る。後宮の水辺でもてなしの宴が予定されていた。壬氏にもそれ絡みの仕事が回ってきていてもおかしくない。
猫猫も、救護班として待機する予定だった。
「まあ、いますけど。壬氏さまには会わないでしょうね」
何か言いたげに、壬氏にはじっと見られている気はするが、猫猫にはどうしようもない。
「…………」
「私達の待機場から、壬氏さまのいる天幕は少し距離がありますからね。高貴な方の対応は上官の管轄で、私達は主に後宮の女性が対象なので、少し離れた場所になるのですよ」
「そうなのか……。つまらない」
頬を膨らし、あからさまにむくれる壬氏は子供のようだ。目の前には、大人びた笑顔を振りまく麗しの皇弟様はいない。猫猫のよく知る人懐っこい壬氏である。
こうやってそばで見ていると、本当に皇族らしくない人だと思う。
だからこそ、今の二人の間の距離は近いのだと勘違いしてしまうのだ。
◇◆◇◆◇
宴の当日、春の日しては強い日差しである。
まだまだ暑さに慣れない時期だ、大変な一日になりそうだと、雲一つない空を仰ぎ見て、猫猫は嘆息する。
日よけのある高貴な方々はまだいいかもしれないけれど、お付きの侍女や官吏達には堪える暑さになるはずだ。
それでも月の君は麗しく、天幕の裏手に現れると、ひとたび歓喜の歓声に包まれる。
皇帝、玉葉皇后、と猫猫の脇を通り過ぎてゆく。
彼らが纏うのは、煌びやかな衣装と装飾品。
反して、猫猫が纏うのは、何の飾りのない医官の制服。猫猫はそれが悪いとは思っていない。
それでも感じるのは、彼らは皇族で、自分は取り柄のない一人の医局の一員のにすぎないという劣情である。
壬氏と近くで話することもできるのに、その立場には雲泥の差があって、実際にその距離は遠い。
壬氏と猫猫の間にあるのは確固たる身分差である。
なんだろう。もやもやする。
皇族なんて正直なりたくはないけれど、この先も壬氏の隣にいて話が出来る保証はない。それはそれで嫌だと猫猫は思った。
「月の君、相変わらず綺麗な方ね」
姚は猫猫の隣に並ぶ。
誰も近くに居ないと気を抜いていたせいか、今の猫猫の顔は内面の感情を雄弁に語る。
猫猫の気分はあまり浮ばす沈んだままだ。声音もどこか暗くなる。
「そうですね」
「猫猫?どうかしたの?」
姚にすぐに気づかれてしまう程に、きっとひどい状態なのだろう。猫猫は感情に蓋をするように一度きつく瞳を閉じて、開く。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。動いていればきっと、気は紛れるはずだ。
「なんにもありませんよ。予想通り、暑くなりそうなので事前に色々と浮かぶ薬と他にも必要なもの、準備しておきましょう」
「そうよね。この暑さだものね。後から忙しくなりそうよね」
「ええ」
猫猫はモヤモヤとした感情を誤魔化すように姚と燕燕に背を向けた。
猫猫は姚と燕燕が「無理しなくてもいいのに」という視線を向けていたことに気づいていなかった。
実際に、宴では何も事件は起きなかったが、医官たちは皆、多忙に時間だけが過ぎていった。
暑さに熱中症の症状を訴えて医官達の待機所は大盛況だったと言っておこう。
猫猫は、本当に一度壬氏を遠目に見たきりで、壬氏に会うことはなかったのだ。
そんなもんだよな。実際に。
何を自分は期待しているのだと、猫猫は長いながいため息をついた。今の自分にその資格はない。
壬氏の、皇弟様の隣なぞ、おこがましいにもほどがある話だ。
宴も終盤になるとやっと座る余裕も出てきた。今は交代で休憩を取っている。
木陰は、ひんやりとした風が吹いている。
暑い、と木陰で水分補給しながら涼んでいると燕燕が猫猫のもとにやってきた。
「猫猫」
「燕燕、どうしたの?」
「休憩途中で申し訳ないのですが、ここはお嬢様と私で対応するので、こちらの患者さんを見に行ってくれませんか?運悪く、皆、出払っていて」
燕燕が猫猫に場所の書かれた紙の切れ端を見せてきた。後宮内らしい。
「それは構いませんが」
ここは、後宮の北側、指定の棟も以外と近い。
「熱中症の患者さん達を空いてい棟に寝かせていただいているみたいで、そちらを頼みたいです。手伝いも頼んであるそうなので」
「分かった」
猫猫は必要なものを詰めて、持ち場を離れた。
大変だよな、と猫猫は嘆息する。きつくとも、その場を離れられないなんて。
燕燕にわたされた紙に書いてある棟があるのははこの辺りのはずである。
閑散とした、指定された棟の周囲、患者がいるという割に人気がない。ただ、その棟の入口に向う草が踏まれ倒れているのはわかる。
「目印に白い布を入口近くの欄干に掛けていると………あった。ここだ」
棟にの入口近くの欄干には目印の白い布があった。
猫猫は入口の前に立つ。
室内に入って、先に続く廊下を歩いて行くと、そこには何故か壬氏がいた。しかも、暑さにばてている様子もなく、ぴんぴんしているではないか。
ついでに言えば、この棟の中に、患者らしき人は誰もいなくて、居るのは正装の壬氏と高順である。
これはどういうことだろうか。猫猫は、室内を見回し、壬氏と高順に順に視線を送る。
「患者というのは壬氏さまの事でなのでしょうか?」
「患者?なんのことだ?」
壬氏はきょとんと猫猫を見ていた。
本当になんなのだろう。壬氏は、患者と聞いて驚いた様子である。
「違うのですか?」
「私は、医局務めの娘に猫猫を呼んできてほしいと頼んだだけなのだが」
「はい?」
わけがわからなかった。
そして猫猫は時間を置いて燕燕と姚の仕業だと気付いた。
目の前には、機嫌よく猫猫を見ている壬氏がいて、こいつら皆がグルなのだと、猫猫は確信した。
取りあえず、目の前にいる壬氏を抗議代わりに、半顔に見ることにした猫猫である。
それは大した効果もなく、高順に荷物を預かられ、壬氏に長椅子に掛けるように誘導される。
「取りあえずこれを飲め。酒はないが疲労回復にはいいだろう」
壬氏に言われるがままに口に一口含む。檸檬の爽やかな香りの抜けてゆく水、僅かに塩味を感じる。
壬氏の言うように、机上には少しばかりとつまみと飲み物があり、そこに、酒は無い。
「食べても?」
「どうぞ。好きなだけ食べるといい」
壬氏は機嫌よく笑っていた。
先程の不安は残っているけれど、その不安は壬氏の笑顔に薄れて、代わりに猫猫の心の中に広がるのは、穏やかな温かい想い。
不安が薄れれば、猫猫はお腹が空いていたことを思い出し、猫猫は壬氏の心遣いをありがたく貰うことにする。
(この男、顔が、いいだけでは飽き足らず、神通力でも持っているのか?)
いい匂いのする饅頭にかぶりつきつつ、壬氏をうかがえば、相変わらず壬氏は満面の笑顔で食べる猫猫をただ見ていた。
一通り食べると、猫猫のお腹は落ち着いて、猫猫は口の中を落ち着けるように、茶を流し込む。
この男、何がしたかったのかはわからないけれど、絆されるように食べてしまったのは少し癪な気もする。
猫猫は無言のままに、いつの間にか、隣に座っていた壬氏をじっと見てしまっていた。
「大分顔色が良くなったな」
壬氏は、優しく猫猫の頬を撫でて、名残り惜しげにその手は猫猫の頬を離れてゆく。壬氏の手が離れても残照のように猫猫の頬には壬氏の手の温もりが残る。
猫猫は壬氏の言葉に驚く。
休憩した時に、水分と共に塩分も補給したからか、自分では大丈夫だと思っていたのだ。どうやら違っていたらしい。
「………自分では大丈夫だと思っていたのですけどね」
「お前も、大概、人のこと言えないよな。無理だけはするなよ」
壬氏の左手が猫猫に再び伸びてきて、猫猫の左手を掴んで、しばらくして離れた。
「これをもらってくれないか?猫猫が、今日、たくさん頑張った褒美だ」
壬氏の右手にあるのは、過去にもらった簪とは比にならないくらいの高価な物なような気がする。
花を模した銀細工の簪。その中心にあるのは、壬氏の頭にある簪と同じ玉色の石がはまっていた。飾りの裏面には、何やら模様が掘ってある。見ただけで高そうなものだとわかる。
壬氏は穏やかに笑って、しばらく猫猫をただ見ていた。
そして、猫猫の乱れた髪にその簪を優しく挿した。
「よく似合っている、きれいだ。お揃いだな。これで」
壬氏は笑みを深めて、いっとう綺麗に笑んだ。
「…………っ………!!」
猫猫の鼓動は、一気に跳ねて、落ち着かなくなる。
そして、壬氏に繋いだままの手を咄嗟に引かれて、あっという間に抱き寄せられていて、猫猫は逃げ遅れて戸惑う。
(そんなことしたらっ……)
猫猫は、暑い中動いていたからかなりの汗をかいているのだ。羞恥心に駆られて身動ぎするけれど、猫猫の力では壬氏に敵わない。
壬氏は離す気はないのかそのまま猫猫をその腕の中に閉じ込めたままだ。そして頭に不意に感じたぬくもりは、壬氏の唇、なのだろう。
きれいじゃないのに、本当に特殊趣味な皇弟様である。
ここにいてはいけないのだと思いつつも体は素直に壬氏の抱擁を受け入れてしまっていて、それ以上は逃げる気は猫猫には全く起きなくて、その場所の居心地の良さに諦めてしまった。
現金だよな。と我ながら思う。
「ずっと動き回っていたから、汗臭いでしょう。離してくれませんか?」
それでも、気になって壬氏に言えば、壬氏からは楽しそうな笑い声がした。
「いいにおいだ。頑張り屋さんのな。猫猫、ごくろうさま、大変だったろう。この暑さだ」
ちらっと壬氏を見上げたら視線が合ってしまって、猫猫の鼓動は更にはねてゆく。顔が赤いという自覚はあったが、もういまさらである。
「……ええ大変でしたよ。おかげで疲れました」
どうせ逃げられないのならば、甘えるのも悪くない。
大人しく壬氏に身を預ければ、再び、壬氏が頭に感じる壬氏の少し高い体温で。
(特殊も特殊過ぎるだろ)
さすがに、猫猫は思わず半眼に思わず見てしまった。
壬氏が抱擁を緩めたのはしばらくしてからのことだった。猫猫を抱きしめて満足したように、壬氏の頬はすっかり緩んでいた。
「もっと、補充してもいいか?」
いつもなら文句の一つでも出る猫猫なのだが、壬氏から離れたくなかった猫猫は、
「特殊趣味が過ぎるのでは?」
そう言っただけで、そのまま壬氏の腕の中にいた。
「特殊趣味で構わないぞ」
それは壬氏と猫猫のいつものやり取りだ。
猫猫が壬氏の頬に手を伸ばせば、壬氏は猫のように、頬に擦るように触れてくる。
想い合う二人に言葉は必要なく。
不意を突いて、壬氏から重ねられる唇からは、籠もる熱すぎる熱を伝えてくれる。はじめは啄むように何度も触れていた口づけは次第に、角度を変えて、深く交わる。
壬氏の口づけは先ほど食べていた砂糖菓子よりも甘く溶けてしまうようだ。
猫猫はその熱にずっと触れていたくて、気づけば壬氏の首に腕を絡ませていた。
「…っ……ま、猫猫っ……」
再び、壬氏に強く抱きしめられて、その劣情は落ち着いてゆく。今は、壬氏は猫猫の事だけを見てくれているのだ、それが何より嬉しい。
猫猫はこれでは壬氏に黄色い歓声を送る女たちとなんらかわらないではないかと自嘲気味に笑む。
それでも手放したくはない。貴方の隣は。
国中のどの女性よりも、貴方の隣にいることが出来ることは嬉しいけれど、今はそれ以上に側にいても怒られない地位というのも悪くないのではとふと思った。
壬氏の側にいることが出来るのは妃という地位以外にはないのは確かだ。
今まで散々色々と理由付けて否定してきたその地位だけれど。
壬氏の隣にいたいという感情には勝てない気がした。
過去の自分からしたら、壬氏との口吻だけで、不感症だと思っていた体が甘く熱をはらむだなんて信じられない事だった。
この先に何が起こるのかを思うと怖くはあるけれど、壬氏に初花をあげると言ったのは嘘ではなくて。
だからこそ、猫猫も今回は期待した。その先があることを。
避妊の準備もなしに関係を持つなんて後先考えない事だとは知っているけれど、今はそれ以上に壬氏に触れていたいという感情の方が勝っていた。
だからこそ、予想が外れた時の落胆は大きかったりするものである。
(あれだけ、煽っておいて………嘘だろう)
猫猫は起きた現実に唖然としていた。
目の前には、猫猫に口吻だけをしてきて、期待するだけさせておいて、その後は、満足したように猫猫を抱きしめている、猫猫よりも一つ歳上の大男。見目麗しい皇弟様である。
一度目は、嵌って閨事の準備して行ったというのに、帰れと言われ。
それから数年経った今も、口吻だけで、満足したようににこにこと、猫猫を抱き枕よろしく抱きしめている謎の多い男である。
まあ、一度目の時のように、帰れと言われなかっただけマシなのだろうけれど、はけることのないこの欲をどうしてくれようと悶々としてしまう猫猫である。
(こいつ本当に付いてるのか?………いや、実際に見たことはないがきっと今以上に、宦官薬飲んでいても元気な蛙がいた)
それは、何の変化なのだろう。
壬氏はどこにその欲を落としてきてしまったというのか?
消えることのない、性欲という、根本的に男が逆らえないという大きな欲を。
壬氏の蛙は猫猫を抱きしめていても、大きくなることはないのか、壬氏は普段と変わらない様子だ。
(壬氏は仙人にでもなる気なのか?)
壬氏は猫猫に、お揃いだと簪をよこしてきたことを思えば、壬氏にとって、決して小さな存在とは言いがたい。
壬氏が猫猫にくれたのは、細工の細かい、皇族御用達の一品と考えられる。簪の裏には壬氏の持つ皇族としての紋が彫られていて。
今まで壬氏からもらった簪とは意味が違う気がしていた。
そこまでしておいて、お手付きにするでもなく、恋人としては初歩も初歩の段階でそこまでの笑顔になれること自体が猫猫にとっては謎である。
壬氏が優しい人であることは知っているけれど、猫猫としても、これまでの積もる壬氏との関係を思えば、好意を寄せる相手に女の子らしく触れてほしいと思うのは道理。
今のままでは、皇弟としての壬氏の隣を歩くことは出来ない身分である。猫猫は何度それを自覚させられたかわからない訳だが、いい加減猫猫はそれに飽きてきたのは確かだ。その度にもやもやとしてしまう自分が女々しくて嫌いだった。
(今の壬氏とのこの状態は、半端なんだよな)
いつ突然に壊れるともしれない、砂の楼閣と変わりない。
横から、理由のわからない隣国の妃に、壬氏の隣を奪われるのは猫猫としては癪なのである。
猫猫は、玉葉后の敵にはなりたくないことは変わっていない。
ただ、そこに固執して、目の前にある幸せを溝に捨てるのも、間抜けな話であることに、気づいていた。
(決めた)
それで、壬氏との関係が切れたとしても、それだけの関係であったということだ。長々と曖昧な関係を続けるよりはマシな気がする猫猫である。そうならないことを願うのだけれど。
猫猫は、壬氏の膝の上、壬氏に意を決して壬氏を見上げた。
壬氏は猫猫をぽかんと見ていたが、普段と違う猫猫の表情に気づいたのか、ただ猫猫を見ていた。
「壬氏さまの。私が、貴方の隣を、歩くにはどのようにしたらなれますか?」
「よく歩いているじゃないか。何を奇妙な事を言う?」
「そういう意味では、ありませんよ」
猫猫が真面目に、じっと見つめれば、壬氏の頬は見る間に赤くなってゆく。
「……………っつ………!!」
「いい加減待ち焦がれるのも少々飽きました。壬氏さまとの話せて距離は近いのに、今日の宴の席に向う壬氏さまは私には遠い存在だった。今の私では、壬氏さまの側に行きたいのに行けないのです」
「それは………」
どこか言い淀む壬氏に、猫猫は、心からの笑みを向ける。壬氏の右手をつかまえて、猫猫は、柄もなくばくばくと跳ねる鼓動のある所に導く。衣越しでは音が伝わっているのかはわからないけれど。
「あの日の夜から私の覚悟は決まっているのですよ。壬氏さまの全てを受け入れると。こんな鶏ガラでは満足できませんか?」
壬氏は、赤らんだ顔で、何度か首を横に振って、真剣な眼差しを猫猫を見ていた。壬氏の空いた手が、優しく猫猫の頬を撫でて、壬氏はふわりと笑った。
「そんなことは決してない。俺の隣にと望むのは、猫猫しかいない」
よかった。嫌いだと言われなくて。その言葉に猫猫には安堵感が広がってゆくのと同時に、無為に張っていた緊張の糸が溶けてゆく。
では、どうして手を出してこないのか、それは壬氏が皇族という立場上に関係していることだけは、猫猫なんとなく気づいていた。
でもそれでは、得ることの出来ないものが、あるのだと猫猫は思っている。壬氏は優しいけれど、それだけではいけない気がする猫猫である。
もっと自分の欲を満たそうと望んでもいいはずである。壬氏はそれが出来る立場なのだから。
皇族らしくないけれど、そんな壬氏のそばに猫猫はただ居たいと思うようになった。他人の評価なんて気にならなくなるくらいに。
「だったら何を躊躇うのです。私の全部をもらってください。全部壬氏さまにあげますから」
猫猫は、壬氏を誘うように、壬氏の衣にすりすりと頬を寄せた。
猫猫は間近に壬氏の唾を飲む音を聞いた。
「猫猫は医官になりたいのではないのか?」
「いつかなりますよ。心配しなくても」
「それなら……」
ためらいのある壬氏の言葉。
反して、ためらいのない猫猫の決意。今度は壬氏に届くといいと猫猫は思う。
「でも、貴方は一人にしておくと過労で倒れてしまうでしょうから心配なんです。そばにおいてください。月の君の妃の専任の医官として」
「そんなこと言われると本当に離せなくなってしまうぞ。本当に襲うからな」
「それでいいと言ってるんですよ。こんな高価な簪を私挿して置いて手放す気ないのでしょう」
「ああ、猫猫が自分のものだと、そういうつもりでそれは贈った」
「それでいいんですよ。私も同じ気持ちなので。色々あるけれど一緒にいたいんです。それではだめですか?」
猫猫は上目遣いに壬氏を見上げた。
「いいや。だめじゃない」
吹っ切れたように、壬氏が笑っていた。猫猫はそれを見て、笑みを返した。
何度目か、わからない口づけ。壬氏の唇から伝わる熱は心地よくて、ただ顔を見てお互いに顔を見て笑った。
猫猫の体が、ふわりとい浮いて、猫猫は壬氏が立ったのだと思った。
「壬氏さま?」
壬氏は棟を出てゆくようだ。壬氏の足は棟の出口に向かっている。
この男何をしようとしている?
壬氏の突拍子のない行動に猫猫は戸惑う。これだから坊っちゃんは困るのだが。
「終わったから宮に帰る。猫猫は落ちないように捕まっていろ。高順、後で、棟の後片付けと猫猫の荷物も頼む」
いつの間にか室内に現れた、高順はどこか笑顔で、壬氏の言葉に頷いている。
「歩けますから降ろしてくださいよ」
さすがに壬氏のその行動に焦り、猫猫が言っても聞いてはおらず、壬氏は歩調を緩めず戸口に向かっている。
「嫌だ」
皇弟が使われていない棟から出てきて、その腕に抱えていたのは医局務めの娘兼、羅漢の娘。
「このまま宮にさらってゆくとしよう。ずいぶんと可愛いことされたからな。どうせ結婚するんだ。見せつけてやるといい」
一点の曇もない壬氏は本当に綺麗だった。
これは、煽りすぎたかと後悔した猫猫だった。
ようやく麗しの皇弟が妃を娶ったという話が宮廷を騒がすことになる日も近い。