星の海と貴方とアカデミー卒業後、私は博士になるという夢を叶えるため、パルデアを離れていた。
日々研究に追われ、寝る間もないような日もあった。ポケモンたちのことを考えるだけで幸せなのだが、一方でずっと心の中で寂しいと思う気持ちもあった。
「ただいま。」
久々に帰宅したワンルームのアパート。誰もいない部屋に無意識に声をかけてしまう。
今日はもう夜も更けてしまったが、明日は珍しく余暇を過ごせそうだ。シャワーを浴び、何をしようかと想いを巡らせる。いっそ丸一日眠ってしまおうか、なんてことを考えながら、ベッドに転がりスマホロトムを眺める。通知の溜まったメッセージアプリのログを流していると、ふと、ジニア先生とのやり取りが目に入った。
アカデミーに在籍していた頃は先生の研究のお手伝いをして、他愛もない会話をして、フィールドワーク中に撮った写真を個人的に彼に送ったり、なんてことをしていた。
過去のやり取りを少し遡り、あの頃のことを思い出す。私は、ジニア先生のことが好きだった。もしかして、私は忙しさのあまり彼のことを忘れようとしていたのかもしれない。
彼は担任の先生だった。私は彼と過ごす時間と、会話している時間が好きだった。私が彼に抱いていた感情は紛れもなく恋愛感情だ。それでも、彼を困らせたくなくて、彼との関係を先生と生徒以上のものにしたくなくて、ずっと心の奥底に押し殺していた。それに、もし自分の思いを打ち明けても、彼は私の方を見ることはないだろうと、ずっと思っていた。彼は真面目な人だから。
「ジニア先生に会いたいな。」
ベッドに寝そべり、宙に浮かべたスマホロトムを眺めながら思わず口にしていた。呆けながらシーリングライトを見つめる。
明日何をするか。その答えはもう出ていた。パルデアへの往復チケットを購入し、短すぎる睡眠時間のアラームをセットして眠った。
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「どおもどおも。お久しぶりです〜!
*さんが帰ってくるってメッセージを見て、慌てて飛び出してきちゃいましたあ。」
あの頃と変わらない、ずっと聞きたかった気の抜けた声だ。
彼の笑顔を見て、ああ、バルデアに帰ってきたんだ。と思わせる。
今日は授業が休みらしく、テーブルシティの広場で待ち合わせることになった。
「お久しぶりです!すみません、急に呼び出しちゃって。」
「いいんですよお。*さんが元気そうでなによりですー。」
「先生こそ、今日は大丈夫なんですか?先生はいつも忙しそうにしているので…。」
「いえいえ、ちょうど予定も空いていましたし、手持ちの子達と遊ぼうと思っていたんです。せっかくなので*さんの子達と遊ばせてあげてくださあい。」
「やったあ。じゃあ街の外に行きましょう!」
歩き慣れた街並みを抜けて、少し開けた草原へと向かう。ピクニックセットを広げ、自分の手持ちの子達を出してあげると、彼の手持ちの子達と仲良くはしゃぎ回っていた。
「*さん、お忙しいんですねえ。」
「はい、でもすっごく楽しいんです。あっちには知らないポケモンもいっぱいで、勉強することがいっぱいで。」
「いいなあ。ぼくも研究員だった頃、すっごく忙しかったんですけど、楽しかったなあ。クラベル校長に、「たまには家に帰りなさい」って怒られたこともありましたねえ。」
「ふふ、言われてそうですね。確かに、私も家に帰る時間が惜しいくらいで…。」
はしゃぎ疲れたポケモンたちがうたた寝を始める頃、空はすっかりオレンジ色になっていた。ピクニックセットを片付けていると、今日は彼と話したり、遊ぶのに夢中になって何も食べていないことに気付く。
「そういえばぼくたち、何も食べてませんねえ。
もしよかったら、この後晩御飯はいかがでしょうか。せっかくなのでご馳走させてくださあい。」
彼の方から、願ってもいない提案をくれた。私はそれに二つ返事で了承する。
「何かリクエストはありますかあ?」
「…そうですね、先生のおすすめ…とか…。
あっ、もし先生がお酒を飲める方なのであれば、お酒も飲んでみたいです。」
「なるほどお。*さんもお酒が飲める年齢になったんですねえ。それならぜひ連れていきたいお店があるんですよお。
あっ、辛いものは大丈夫ですかあ?」
「少しだけなら…」
「わかりましたあ。それじゃあタクシーを呼びますねえ。」
カラフシティに向かう途中、彼は今から行くお店のおすすめ料理を話してくれた。街へ到着すると、妙に嬉しそうで、スキップでもしそうな勢いに着いていく。子供みたいにはしゃぐ彼を見て、愛おしさに胸が締め付けられる。
小洒落たお店では顔馴染みらしく、店主のハイダイさんと少し会話した後、店の奥へと案内された。
彼のおすすめ料理とお酒を嗜みながら、色々な話をする。彼の好きな料理のこと。私の研究のこと。パルデアではない地方にいるポケモンのこと。昼間あれだけ話したのに、話題は全く尽きなかった。
彼はあまりお酒は強くない方らしく、気がつくといつもはおしゃべりな彼が、私の話す言葉にニコニコしながら相槌を打っていた。
「……先生、結構酔ってます?」
「はあい。ふふ、*さんがお話ししてくれるので、嬉しくってつい飲みすぎちゃいましたあ…。えへへ…。」
グラスを片手に、彼はいつもよりもへにゃへにゃになってしまっている。お酒を飲むと素が出ると言うが、彼はずっとこんな感じなのだろう。そんな自分よりも歳上の男性に、思わずかわいい、なんて思ってしまう。
「私ばっかり喋っちゃってるので、今度は先生の話も何か聞きたいな。」
「そうですかあ?じゃあぼくからですねえ……。うーん…。
あっ、そうだ。*さんが生徒だった頃、野生のポケモンやパルデアの景色の写真を定期的に送ってきてくれたじゃないですか。あれ、ぼくすっごく楽しみにしてたんですよお。」
私が今回帰省のきっかけになったやりとりだ。
課外授業の定期報告も兼ねて、自分が見た景色を彼に送り、それに対して簡単なコメントを返してくれていたのだ。
「でも、*さんが卒業しちゃってえ……。送ってくれなくなっちゃったから、ぼく、ずっと寂しかったんですよお。受け持ちだった生徒たちが卒業すると、すっごく寂しいんですけど、*さんが卒業された後はもうすごくて…。
何日かは色んな先生に「ジニア先生、元気ないですね」って言われちゃうし…。」
唇を尖らせて、いじけたように話す。
「だって、卒業しちゃったから、送ったら迷惑になるかと思って…。」
「そんなことないですよお〜。」
「それに元々、課外授業の定期報告のつもりで送っていましたし……研究の方が忙しいのもあって…送っていいのかな〜…って…」
「うう…送ってもいいですよお。ぼく、そんなことで怒ったり迷惑に思ったりなんてしないですよお。」
しゅん、と落ち込む彼を見て、そんなに私とのメッセージがなくなってしまったことが寂しかったのだろうか、と傲慢にも少し嬉しくなってしまう。
「じゃあ、また連絡しますから。そんなに落ち込まないでください。」
「やったあ!嬉しいなあ。ぜひお願いしますねえ〜!あ、他の地方のポケモンのお写真もぜひお願いします〜!」
喜びを隠しきれず、さっきまで落ち込んでいた表情は嘘みたいに、子供のような笑顔になった。
にこにこと笑っていたかと思えば、拗ねていじけて、悲しそうな顔をして、今度はきらきらと目を輝かせている。彼のころころと変わる表情は見ていて飽きない。
ああ、私はこの人のこういうところが好きなのだ。
=====
店を出て、彼に御礼を言う。外はすっかり暗くなっており、冷たい風は別れの時間が近付いていることを思い出させる。
「港まで送りますよ。少し歩きませんか?」
彼の歩幅に合わせて、隣を歩く。この時が永遠に続けばいいのに、と月並みな言葉を思い浮かべながら、すっかり酔いも冷めてしまった。
このままパルデアを出てしまえば、また会えなくなってしまう。彼への想いを、このまま押し殺してしまえば今の関係は続くだろう。だが、話してしまって、今の関係が壊れてしまったら…?彼を困らせたくない気持ちと、今の関係よりも、先の関係もあるかもしれない。わずかながらの希望と、不安と焦燥に駆られる。わかっているのはもうすぐ港に着いてしまうことだけだ。
独りよがりに考えを巡らせていると、少し歩いたところで、沈黙に耐えかねたのだろうか、彼が話を切り出した。
「今日はすごく楽しかったです。久しぶりに*さんとお話しできて…*さん、アカデミーにいた頃よりもすっごく成長していて、ぼくはとても嬉しかったです。」
私の成長を喜んでくれることに胸が苦しくなる。きっと、彼にとって私は今でもただの一生徒でしかないのだと。
「ありがとうございます。…‥そう言ってもらえて、嬉しいです。」
「よかったあ。それに、夢に向かっている**さんを見たら、ぼくも頑張らなくっちゃって思ったんです。*さんからは学ぶことがいっぱいですねえ。」
港の明かりが近付いてくにつれ、私の心の迷いはどんどん膨らんでいく。彼はは私のことをこんなに褒めてくれているのに、私は彼のへ好意を伝えるかどうか、独りよがりな悩みを抱えている。困らせたくない。でも、自分の気持ちを打ち明けたい。
考えを巡らせることでいっぱいになり、返事ができないままでいると、先生が「*さん、大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。何か返事をしなきゃ…。今日このまま解散すると、次に会えるのはいつになるかわからない。もう会えないかもしれない。だったら………。
「あのっ、先生」
「はい。」
いつもの優しい声だ。私の声は震えている。視線は足元を見つめたまま、上げることはできず、後に続く言葉を必死で探す。
「私もっ、今日は……楽しかったです。………その、パルデアに帰ってきたのは………本当はジニア先生に会いたくて、帰ってきたんです。」
言ってしまった。
恐る恐る顔を上げると、彼は少し驚いた顔をしていた。
「……それは嬉しいなあ。ありがとうございますー。」
穏やかな風が頬を撫でる。まだ遠い港から、波の音が聞こえるくらい静かな夜だ。
彼はにこりと微笑み、私の言葉を待っている。私はゆっくり、少しずつ口を開く。
「……本当は、アカデミーにいた頃から……ずっとジニア先生が喜んでくれるのが嬉しかったんです。ずっと、ずっとジニア先生のことが好きなんです。今も。
ずるい人間でごめんなさい……。」
「え……。……それは本当ですか…?」
「はい。本当です。」
彼の足が止まった。一歩先へ進んでしまった歩みを止め、後ろを振り返ると驚いた表情をしていた。私は、自分の中の感情を抑えきれず、そのまま話を続ける。
「私、先生と過ごす時間がとても好きで、先生の話を聞くのが好きで、ずっと先生と一緒にいたいと思っています。」
「*さん……。」
言ってしまった。もう後戻りはできない。
それでも、私は彼に伝えたかった。独善的で、ずっと胸に秘めていた想い。
港からの明かりに、2つの影が伸びている。
恐る恐る彼の顔を見ると、返事に困っているようだったが、すぐにいつもの優しい表情に戻った。
「ありがとうございます。…えっと、そんなこと言われたの初めてで……本当に嬉しいです。」
彼の顔が赤くなっていき、少しずつ言葉を進めていく。
「ぼくね、今すごく幸せなんです。*さんが卒業してからずっと寂しくて。
*さんはぼくにとって、とても大切な教え子です。進路の話をした時にぼくみたいな研究者になりたいって言ってくれたの、本当に嬉しかったんですよお。」
「先生……。」
幸せだ、という彼の言葉が私の胸に響く。じんわりとした温もりが広がり、私も先生に会えて幸せです、と喉まで出かかった言葉は、頬を赤らめながら彼の笑顔が少し悲しそうな表情になったのを見て引っ込んでしまった。一瞬の間にこの先の彼の言葉を想像してしまう。
「…………でも、*さんは生徒で、ぼくは先生なんです。だから………」
言い淀む彼の言葉を遮るように、私は口を開く。
「先生、……ううん、ジニアさん。私もうジニアさんの担任でも、アカデミーの生徒でもないんです。
これは私のわがままです。生徒じゃなくて、ひとりの人間として見てくれませんか?」
「え、……えっと………。」
彼の顔がさらに紅潮し、耳まで真っ赤になっている。目線を逸らしながら、口元が緩んでおり、困ったような笑ったような表情をしている。そんなジニアさんが可愛くて、愛おしくて、思わず笑ってしまった。やっぱり私はこの人が好きだ。
「……*さんはずるいなあ。そんなこと言われたらぼくだって、ぼくだって……。」
俯いて、顔に影を落として考え込んでいる。静寂の時が無限に流れていくような錯覚をする。それでも、私は先生にまっすぐに向き合い、返事を待つ。
「…………ぼく、今まで*さんのことそういう目で見たことがなくて……。本当に、少し心配になるけど、とっても優秀な生徒だと思っていますし、*さんとお話ししている時も楽しくて、ぼくもずっとお話ししていたいと思ったこともあります。*さんが課外授業に行ったまま授業に顔を出してくれない日が寂しかったこともあります。
さっきお店で話したように、*さんからのお写真とメッセージのやり取りがなくなっちゃって本当に寂しいと思ったことも、全部本当です。」
「ジニアさん……。」
「本当に、ぼくなんかでいいんでしょうか。正直、*さんにぼくは勿体無いくらい素敵な人だと思っています。
でも、そんな*さんがぼくのことを好きと言ってくれたなら………ぼくはそれに応えたいです。」
彼の顔が顔を上げ、彼と目が合う。六角形のレンズの奥にあるライムグリーンの瞳は、ポケモンバトルの時のような真剣な眼をしていた。きっと彼は本心でそう言ってくれたのだ。
今すぐ彼を抱きしめたい気持ちが湧き上がると同時に、彼の指先が私の手に触れ、ぎゅっと握り締められる。彼の大きくて、少し骨ばった手から、じんわりとした体温が伝わってくる。
「………ジニアさん……。
私、ジニアさんのこと、絶対幸せにします。ありがとうございます。」
「ふふっ、それはぼくのセリフですよお。
ぼくの方こそ、こんなですが…よろしくお願いしますねえ。」
いつもよりも口元が緩んだ気の抜けた笑顔を見せる。愛おしいと思った瞬間、握っていた手をほどかれ、抱き寄せられる。
「*さん、大きくなりましたねえ。アカデミーにいた頃より、ずっと成長されたんですね。」
彼の胸元に顔を埋めると、ふわりと良い香りがする。ああ、幸せだ。ずっと想い焦がれてきたジニアさん。私の今のこの幸せを、彼にも分けてあげたいと、そのまま背中に手を回し、抱きしめ返す。心臓の鼓動が彼にも伝わってしまいそうなほど大きな音を立てる。
「私、大きくなりました。ジニアさんに並びたくて、早く大人になりたかったんです。」
「急がなくても、ぼくはずっとぼくのままですよお。」
「はい。それでも、私はジニアさんに追いつきたかったんです。ジニアさんは、素敵な人だから。」
「……*さんは本当に、こんなぼくにはもったいないくらいです。ありがとうございます。」
よしよし、と頭を撫でられる。ぎゅっと強く抱きしめて返事をすると、また抱き返される。
しばらく抱きしめあった後、彼の腕がわたしの体から離れる。ぎゅっと閉じていた目を開け、目の前の景色が彼の首元になった瞬間、頬に彼の手のひらが触れる。
「好きです。*さん」
「私もです。好き。大好き。」
彼の首に腕を回し、また彼を抱きしめ返す。背中に手が回され、より体が密着する。私も彼も、お互いの体温と鼓動が伝わるほどに熱く、遠くからは波の音と、彼の心臓の音が聞こえる。
「またパルデアに帰ってきてください。いつでも待っていますから。」
「ありがとうございます。ジニアさんに負けないくらい、すごい研究者になります。」
「**さんならなれますよお。だって**さんは、ぼくよりもすごいんですから。」
港までの道のりを、手を繋いで歩く。次第に潮の匂いが強くなり、風は冷たさを増していく。それでも、彼の体温は温かく、不安も迷いも今はない。
「今日は星がよく見えますねえ。」
そう言われて、顔を上げると、深い黒の中にはいくつもの光があった。俯いてばかりだったことを思い出しながら横を見ると、夜空を背景に、目を細めて笑う彼の横顔があった。冷たい風の中で、彼の笑顔だけが暖かく浮かんで見えた。
「本当だ。綺麗ですね。
私、さっきまで俯いてばかりだったかもしれないです。」
「ぼくもです。だから、今日はこんなにも星が綺麗に見られることに気付きませんでした。
*さんと見ることができて、よかったなあ。」
こうやって、彼と一緒に、これからも少しずつ思い出を増やしていくのだろう。
船の音が聞こえる。別れを惜しみながら、少しずつ歩みを進めていく。ジニアさんの隣にいる未来のために、少しずつ。