知らない貴方見上げると、真っ黒な静寂の中に小さな光がいくつも瞬いてる。あまりの美しさに圧倒され、「わあ」と声を漏らすと、吐いた息が白となり、暗闇にじんわりと溶けていった。
刺すように冷たい風が草原を揺らす。フィールドワークのために設営したテントから光が漏れていて、揺れる草花が揺らめいている。その光と、星と、月明かりと、遠くに見える街の光。それ以外は暗闇しかなく、遠くに見えるさまざまな光はまるで宝石のように輝いていて美しい。
パルデアではこんなに冷え込む日は滅多にない。ならば何か珍しいものも見れるかも、と期待に胸を膨らませ外へ飛び出したのだが……。私の好奇心とは裏腹に、やはり寒い日はポケモンたちもどこかで身を寄せているのか、陽が落ちてしまうとどこにも姿が見当たらなくなってしまったのだ。
ひんやりした空気は私の身体から体温を奪っていく。それでも、この光たちから目が離せなくて、私はずっと空を見上げていた。
「夢主さあん。風邪を引きますよお」
ジニアさんの声だ。振り向くと、彼はテントから少し身を乗り出していて、毛布にくるまれた彼はずいぶんと暖かそうだ。なのに、彼は見るからに不安な顔をして、心配していることを隠しきれていない。きっと、寝る前だというのに、テントから抜け出した私がいつまで経っても戻らないからだろうな、と推測する。
「ね、ジニアさん。星がすごく綺麗。見て」
彼にこの空を見て欲しくて、澄んだ空気と闇の中の小さな光達を指差して呼びかける。彼はのそのそとテントから這い出て私の隣に立つと、空を見上げて「わあ」と声をあげる。
彼は私よりも背が高い。少し見上げるように彼の横顔を観察していると、眼鏡のフレームの隙間から見える薄いグリーンの瞳が、星に反射したのかきらりと輝いたように見えた。吐く息はすぐに溶けてしまうのに、彼の輪郭は暗闇の中ではっきりとしている。彼が嬉しそうな顔をしていると、私も嬉しい。「すごく綺麗ですねえ」と彼が呟いて、私の方を見る。
「もう。夢主さんはぼくばっかり見てますねえ」
首を傾げて口元を緩ませた、いつもの笑顔。つられて私も笑顔になってしまう。
「だって、寒い日はジニアさんあんまり外に出てこないから珍しくて」
「寒くなくたって、ぼくはいつでも見れますよお」
「そうですけど、そうじゃなくてですね……」
そう言いかけたところで、彼が後ろから覆い被さる。彼の腕が私の鎖骨のあたりに垂れ下がり、毛布で私も一緒に包んでくれた。彼の体温が背中からじんわりと伝わってくる。
「こうすれば、ぼくじゃなくって星を見ることに集中できるんじゃないでしょうか」
確かに、後ろから抱きしめられてしまえば彼の顔を見ることはできない。けれど、心地の良い温もりと、後頭部のあたりに感じる彼の吐息。それが少しくすぐったくて、星空を見上げているのに彼のことばかり考えてしまう。しばらくすると風が止んで、しん、と空気が静まり返る。すると、ますます彼のことを意識してしまって、まるで私とジニアさんしかこの世界にいないみたいだった。私は静寂を壊さないように抑えた声で「そうですね」と返した。
胸元へ当てられた、毛布を握る彼の手をそっと包み込む。私のために冷えてしまった手を、自分の体温を移すように添える。私は彼の少し骨張っていて、私よりも大きなこの手が好きだ。すりすりと節に沿って撫でてみると、彼はじゃれつくように私に身を寄せる。それが嬉しくって、私も彼に身を寄せる。
「……不思議な空ですね。真っ暗なのに、空は少し明るいみたい」
「気温のせいもあるかもしれませんねえ。そういえば、ぼくもあまり気温の低い日の夜空は見たことないかもしれません」
「ナッペ山だと見られるかもしれませんね。でも夜出歩くのは危ないですし……」
「そうですねえ。パルデアの南の方でこんなに冷えるのは珍しいのですし、ここでの景色はもう見られないかもしれませんねえ」
その時、びゅうっと強い風が吹いた。草原のざわめきが耳を打ち、思わず身体を縮こませる。彼の腕に力が入り、私をぎゅっと抱きしめるその力強さに驚いてしまった。普段の彼は私に優しく、壊れ物でも触るかのように抱きしめてくれるのに。冷えた空気に慣れてしまった頬が熱くなり、胸の奥が高鳴り始める。風の音が止むと、彼の腕が緩んだ。
「痛くなかったですか?寒くってつい……」
「大丈夫ですよ。……それより、ジニアさんって結構力強いんですね。いつもはあんなにぎゅってしてくれないからびっくりしちゃいました」
「だって夢主さんはどこもぼくと違って細くて、柔らかくて、力を入れたら壊れちゃいそうで……」
「ふふ、大丈夫ですよ。痛かったらちゃんと痛いって言いますから」
「でも、痛い思いはさせたくないですよお」
彼はいつも私を気遣ってくれる。少し不器用なその優しさに私と彼は少しずつ歩み寄って、お互いを探り合っていく。また少し私の知らない彼の一面を知ることができたことに胸のあたりがぎゅっと熱くなる。
彼の腕の温もりと力強さに包まれながら、また空を見上げる。真っ暗なはずの空の中に透き通った、見えない青が見える。その中に幾つもの小さな光が瞬いて、決して届くことはないのに、手を伸ばしてしまいそうになる。ひんやりとした空気の中に私の吐く息が溶けていって、2人で静かに呼吸をしていると、まるでこの広い世界に私たちしかいないみたいに思えてしまう。
「ねえ、ジニアさん」
「はあい」
静かに名前を呼ぶと、彼が少し身を寄せてきたのがわかった。何度も繰り返したことのあるやりとりに嬉しくなって、首を彼の方を向ける。彼と目があったので、少し背中を後ろに伸ばして彼の頬に私の頬を擦り寄せるように近付けると、
「……真っ暗で、私たちしかいないみたい」
「フィールドワークに来たのに、ぼくたちしかいないと困っちゃいますねえ」
「確かに……。すごく綺麗な景色だから、目的を忘れちゃってました」
「いいんですよお。普段は見られない景色を見るのもフィールドワークですから」
「それじゃあ、さっき強く抱きしめてくれたのも普段と違うジニアさん、ですね」
「そうかもしれませんねえ。でも、ぼくの顔をずーっと見つめる夢主さんはいつもの夢主さんでしたよお」
悪戯に彼が笑う。普段から私はそんなに彼のことを見つめているのかな、と少しこそばゆくなってしまう。
「だって、ジニアさんはいつもと変わらなくて……でも、私がまだ知らないジニアさんを知れたのも、こんなに寒いからですよ」
「……じゃあ、ぼくのまだ知らない夢主さんも、もっと教えて欲しいですねえ」
そう言って、彼はじゃれつくように顔を私の髪に埋める。冷えた空気のせいとも違う、ぞくりとした感覚が背筋を走る。思わず彼の手を包む指に力が入ってしまうと、彼は指先だけで私の手を撫でる。
「髪、冷たいですねえ。そろそろテントに戻った方がいいと思いますよお」
「……そうですね。戻りましょうか」
私がそう答えると、彼は私を毛布で包み、肩を抱いてテントの方へ促す。暗闇を惜しみながらテントへ入ると、ランタンの柔らかな光が眩しい。先ほどのどこまでも孤独な世界ではなく、狭くて暖かい空間に心地よさを覚える。「よいしょ」と、彼が腰を下ろすと、その隣に私も寄り添うように座り込む。彼と私を包むように、私の肩にかかっていた毛布を被せ、彼の手を握る。彼の少しひんやりとした指先が、私の指に絡まっていく。
「……ジニアさんの手、ずっと冷たいね。ごめんね」
「いいんですよお。それに、夢主さんの手は暖かったですし。
あ、でも1人で夜に出歩くのはだめですよ。危ないので」
「今まで何度もありましたし、ポケモン達もいるので大丈夫ですよ」
「それでも心配です。夜に出歩くならぼくも一緒に、です」
心配性だなあ、と少しはにかむと真面目な顔をしていた彼の顔も緩んで笑顔になる。「じゃあ私についてこられるくらい、体力をつけてくださいね」と言うと「まいったなあ」と眉を下げて笑う。
2人で顔を合わせたあと、彼が私の肩へもたれかかる。静寂の中、ランタンの光が2人の影を映してゆらめく。暖かくて、心地の良い空気に少し眠気を感じていると、彼が大きく欠伸をする。
「そろそろ寝ましょうか」
「そうですねえ……。このまま寝ちゃってもいいですかあ……?すごく落ち着くので……」
「だめです。ちゃんと寝袋に入らないと風邪引いちゃいますよ」
「でも……夢主さんの匂い……ぼく……好きなんですよお……」
言葉が途切れ途切れになっていく。私の肩にもたれかかる彼の声は次第に小さくなっていき、規則的な寝息になった。寒いのに外に連れ出してしまったのは私のせいだと、少し申し訳なさを感じて彼をそのままにしておく。
彼を起こさないように、ランタンの明かりを消して「おやすみ」と呟く。返事はなく、彼が完全に眠ってしまったことに安心し、彼の髪をそっと撫でてから、彼の暖まった手を握り、目を閉じる。
彼の呼吸と、重さと、体温。さっき見た星空を思い浮かべながら、今日のような少しだけ特別な日がまたあればいいなと、期待と嬉しさを胸に秘めて私はゆるやかに眠りに落ちていった。