肉を這う朱「おかえりなさあい」
重い玄関ドアを開くと、廊下の奥から聞き慣れた彼の声がする。
「ただいま」と返事をして部屋に上がる準備を済ませる。窓から夕暮れのオレンジ色が差し込んでおり、眩しさを感じつつ、今日の出来事を彼に報告しようと浮き足立って彼の部屋へと向かう。
彼の部屋の扉は少しだけ開いており、その隙間からキーボードを叩く音と、時折うんうん唸る声が聞こえる。邪魔をしないように静かに部屋の中を覗くと、先ほどの優しい声とは裏腹に、頬杖をついた彼は難しい顔をしてモニターを睨んでいた。よほど集中しているのか、私がこっそり部屋を覗いていることに全く気付く様子はない。
普段ならここで声を掛け、この後の予定を擦り合わせていくのだが、彼の邪魔をしてはいけない雰囲気を感じ取る。そのまま声を掛けられずに立ち尽くし、彼を観察していると、彼はがちゃがちゃと音を立ててキーボードに指を走らせたかと思えば、動きが止まり、頭を掻きむしる。いつもなら私がフィールドワークに出かけると言えば、よほどのことがない限りは付いてくるのだが、今日は図鑑のアップデートをしたいと寂しそうに見送ってくれたのだ。そんな彼は今私の想像もつかない相手に難航しているのだろう。
と、散らかったテーブルに置いてあるコーヒーカップに彼の手が伸びたところで、ちらりと私を見たかと思えば一拍置いて「うわあっ!」と大きな声をあげた。
「びっくりした……。夢主さん、帰宅されたんですね。おかえりなさあい」
「さっきも言いましたよ。ふふ、全然気付かなかったんですね。ただいま。ジニアさん。」
「あはは、そうでしたっけえ……」
彼と一緒に住み始めてからひと月ほどが経過し.彼もこの生活に慣れてきた頃だ。相変わらず彼も私も敬語を外して話すことに慣れないが、どうやらドアが開いた音を聞いて、反射的に挨拶をしてくれたらしい。「私以外の人が入ってきても、おかえりなさいって言うんですか?」と聞いてみれば「だってこの家に入ってくるのは夢主さんくらいしかいませんから」とあっけからんに答える。
「なんだかとっても忙しそうですね」
「はい、ちょっと煮詰まってまして……。ううん、夢主さんも帰ってきたことだし、少し休憩にしようかなあ」
それならと、こちらに椅子を向けて座っている彼の唇へ静かにキスをする。
「ただいま、のキスです」と微笑むと少し驚いた顔をした後、彼の口元がへにゃりと緩む。
「じゃあ、おかえりなさい、のキスも必要ですねえ」
椅子から立ち上がり、彼の腕が私の背中へと回る。ちゅ、と小さな音を立ててキスを返され、私よりも背の高い彼の胸元にすっぽりと包まれる。
以前はうるさいくらいに鼓動していた心臓の音も、今では安心感と心地よさを感じるようになっていた。ゆっくり唇を離すと少し照れ臭そうに彼は笑う。
「おやつにしましょうか」
「いいですね」
===
「本日のフィールドワークはいかがでしたか?」
「天気が良かったので、くさタイプのポケモンたちが特に活発でした。普段はあまり見られない動きをしていて……あ、これ動画を撮ったんです」
「わあ、いいなあ。これはぼくもまだお目にかかったことがないんですよお。うーん。やっぱりついていけば良かったなあ」
ダイニングテーブルに向き合い、おやつを食べながら今日の話をする。ポケモンの話をしている時の彼は本当に楽しそうだ。お土産として買ってきたシュークリームもお気に召したらしく、あっという間に口に運ばれていった。
ふと、彼を観察していると、指についたクリームを舐め取っているところを目撃してしまった。その時の仕草……唇の隙間からぬるり、と赤い舌が見えたかと思えば、白いクリームが絡め取られる。ほんの一瞬の出来事だったが、その光景がとても煽情的に思えてしまって、思わず見入ってしまう。
「お行儀が悪くてすみません……」
あまりにも私が彼のことを見つめすぎていたのか、しょんぼりとした彼がぽそり、と謝る。
「あ、いえ、そうではなくて……」
「どうかしましたか?」
申し訳なさそうにする彼に、「クリームを舐めとる姿が扇情的でした」、とは言えそうになく、かといって彼のことをじっと見つめていた言い訳についてなんて返事をしようか……と言葉に詰まる。
「……夜、シャワーを浴びたら言います」
「……?」
結局答えは思い浮かばず、先延ばしにしてしまった。私の言葉が理解できていない彼は頭に?を浮かべながら、またシュークリームを頬張った。
===
夜になっても彼は自室で時折うんうんと唸っている。私がシャワーを浴び終えても部屋から出てくる気配がないので、声をかけると彼はへろへろとした足取りでバスルームへと向かって行った。
私はといえば昼間の光景を何度も思い出していた。食事をしているところはもちろん、それこそ唇を重ねたこともあるのに、先刻の不意に見えた舌……食べ物を食べている姿だから当然なのだが、まるで捕食しているように見えた行動が脳裏に焼き付き、私の中に今までになかった情欲がじわり、と湧き立つ。 彼の肌に舌を這わせ、歯を立ててみたい。そして、私の肌にも同じことをして欲しい。うまく言語化できた感情はこれだけで、彼に吐露してしまいたい気持ちと、どう思われるか、という理性的な気持ちが頭の中をずっと巡っていた。しかし、今忙しいであろう彼にそんな話をしていいものだろうか……。
「……さん、*さあん」
「うわあ!」
突然呼びかけられ、大きな声を出してしまった。座っているソファの後ろからシャワーを浴び終えた彼に声をかけられたらしい。物音が聞こえないくらいに、考え事に夢中になっていた。
「びっくりさせちゃってごめんなさあい……。夢主さん、全然気付かなったから……」
「すみません、ちょっと考え込んじゃってました」
「今日のぼくとおんなじですねえ。
それより、おやつを食べていた時の話なんですが……。ぼく、すっごく気になっちゃって、作業も手がつかなくなりそうで……。すみませんが早く言って欲しいんです……」
下手に先延ばしにしてしまったせいで彼に変な心配をさせてしまっているらしい。ただ私が言い淀んでいるのは自分の欲望の話なのにと、申し訳ない気持ちになる。
ソファの隣に彼も座り込む。私と同じシャンプーがふわりと香る。
「えっと、全然大したことじゃなくて…。それよりも、引かないで欲しい……んですけど……」
自分の感情を吐き出すのについ自己保身の言葉を言ってしまったせいで、後ろめたさが募る。ソファの隣に座っている彼の方を見ることができない。彼はきっと、何を言われるのかと不安そうな顔で私を見ているだろう。
「大丈夫です。びっくりはしちゃうかもしれませんが……」
彼ならそう言ってくれるだろうという言葉を、言わせてしまった。先程の言葉を取り消したく思いながら、彼の言葉に意を決して口を開く。
「えっと、ジニアさんの身体を……その、舐めたり、噛んだり……させて欲しいです」
「え?」
恐る恐る彼の方を見ると、あまりにも突拍子のない話をされて、目をまん丸にしている。
「あ!あの、変な意味じゃなくて……。その、ジニアさんを見てたら……そうしたいなって思って……痛くはしませんので……」
もうどうにでもなれという気持ちで矢継ぎ早に言葉を発する。すると、彼は安堵したように笑顔になった。
「よかったあ。嫌われちゃってたらどうしようと思ってたんですよお〜。
ぼくでよければ、いーっぱいしちゃってくださあい」
「……いいんですか?」
「舐めたり噛んだりするのはスキンシップ、愛情表現ではよく見られる行動なんですから。ぜひ!許可なんていりませんよお」
「そう…ですよね。ポケモン達にもよく見られる行動ですもんね……」
腕を広げておいでと言わんばかりのポーズを取る彼に、なんだか納得させられてしまった。私が変に返事を先延ばしにしてしまったせいで、彼を悩ませてしまったことにまたもや申し訳ない気持ちが募る。
「そうですよお。それに、ぼくは夢主さんになら何をされてもいいと思っているので。」
「それは私を信用しすぎでは…」
さらりと彼が言ってのける。彼が嘘のつけない人間であることは承知しているが、あまりにもストレートな告白に嬉しいような、申し訳ないやらでくすぐったくなってしまう。
「はい、お好きなところをどうぞ」
にっこりと笑って私を待つ彼は、いつもの彼だ。どこでも、と言われたが、迷わず彼の右手を取る。少し大きな手のひらと、すらっと伸びた指。手の甲を向け、人差し指の先をぺろりと舐める。そのままがぶがぶと歯を立てつつも痛くないように加減しながら何度か甘噛みをする。
彼の肌からはボディソープの香りが広がる。私と同じボディソープの香り。普段冷たい彼の手も、シャワーを浴びた後は温かい。彼の体温を感じながら、自分の歯と舌で彼の肉と骨の厚みを堪能する。そのまま、時折噛み付くように歯で肉と皮膚を挟んだりしながら手の甲へと進む。手のひらへ到達すれば、挟むように大きく口を開き、がぶり、と優しく歯を立ててみる。
「なんだかぼくのリキキリンがまだキリンリキだった頃に、たくさん噛まれた時のことを思い出すなあ」
そう言って、言葉の通り手持ちのポケモンの子を撫でるような手つきで私の頭を撫でる。
「それって、私がポケモンみたいってことですか?」
「うーん、なんでしょう。甘えてきているなあ、かわいいなあって思うんです。よしよししちゃいますねえ」
「うう……」
私のこの気持ちは愛情表現なのだろうか、と少し照れくさくなってしまう。情欲だと思っていたのは、本能的な感情だからだろうか。それでも私の頭を撫でてくれている彼の手が心地良くて、もっと、もっとせがむようにと彼の肌を刺激する。
指を口に少し含み、ちゅ、と吸い付いてみると、歯を立てると指が口の中で蠢き、歯列をなぞったり、唾液を絡めた指で口内を蹂躙される。ちゅぽん、と指を口から離すと、彼の指は私の唾液でべとべとになっていた。
「夢中になっていましたねえ」
「はい…。ありがとうございます。変なお願いを聞いてもらって」
「いえいえ、夢主さんの珍しいお姿を見ることができて嬉しかったです。
……よければぼくも夢主さんの手を噛ませて欲しいなあ」
彼はそういうと、自身の親指を私の唇にそっと這わせる。その仕草にぞくり、と先ほどまでとは違う別の感情が這い上がってくる。
「だめ……ですか?」
不安そうな彼の問いかけに否定できず、こくん、と頷く。彼の目はレンズの奥で私を見つめる。その瞳はいつもの彼と変わらないのに、まるで私を狙っている捕食者のような気さえしてしまう。
「じゃあ、ぼくの番ですねえ。ちょっと失礼します」
彼は私の右手を取り、人差し指にがぶりと噛み付いたかと思うと、あの時見た赤い舌が私の指を這う。その光景に思わず釘付けになってしまった。
彼の舌は味見をするように、ぺろぺろと少し舐めてはちゅ、と音を立てて口付けをし、指先の方へ進んでいく。生温かく、ぬるりとした感触に、先ほどと同じぞくぞくとしたものが背中を駆け上がり、思わず声が漏れてしまう。すると、私の手を見つめていた彼の視線が、眼鏡のレンズ越しにこちらへ向かう。私をみてにこり、と笑ったかと思えばがぶり、と鋭い刺激が手の甲に走り、矯声をあげてしまった。
「ふふ、食べちゃいましたあ」
なんて、悪戯に彼は笑う。その仕草を見た瞬間、ぶわりと被虐的な気持ちが芽生えてしまった。普段はあんなに優しいジニアさんが、私を痛みを与えるような行動を取ったこと。彼の赤い血の通った舌と、それが自分の身体を這い回る感触。私が持っていた本能的な情欲は、彼の行動によって塗りつぶされてしまった。私は、彼に食べられたかったのだ。
「痛くなかったですか?」
「………あの、ジニアさん」
「はあい」
「私、ジニアさんに食べられたいのかもしれません」
「はい。……え?」
私を見つめる彼の目はまん丸に開かれている。「……今、なんと……?」と聞き返す彼は、まだ私の言葉が理解できていないらしい。
「さっき、ジニアさんに噛まれて…本当は少し痛かったんです。でも全然嫌じゃなくて……むしろもっとして欲しいって……」
「え、えーと………」
「すみません、こんなこと急に言われても困りますよね……」
彼はううん、と顎に手をやり唸る。返事に困っているのだろうか。やっぱり、今日の自分はなんだか変だ。なんて思っているとちらり、と私の方を見て意を決したような表情で口を開く。
「実はぼくもさっき手を噛まれている時に同じことを思っていました。
普段は理性的な夢主さんが、ポケモンみたいにじゃれてくれて……。その時の夢主さんの表情が……その、なんていうか……すごく興奮してしまいました」
珍しく彼の頬が赤く染まっている。普段はストレートに感情を言葉にしてくれる彼も、こういった感情を言葉にするのは慣れていないらしい。こうやって、ぽつりぽつりとゆっくり言葉を話す時はすごく考えながら話している時だ。
「なんだか、今日の私、変です」
「ぼくもです……。あの、今手をつけているお仕事がひと段落したら、続きをさせてください」
「それって……」
「……これ以上は言わせないでくださいよお」
彼は目を逸らして、わざとらしく突っぱねる。私も彼も、同じ考えだったことがなんだかおかしくてつい笑ってしまう。
「ふふ、わかりました。じゃあ……お仕事頑張ってくださいね。」
「はあい。頑張りまあす」
そう言うと、私の唇にキスをする。リビングを出て行く彼を見送り、今日は何時ごろに眠ることになるのだろうか、なんて考えを巡らせた。