残香 気がつけば、彼女の姿を探すようになっていた。
いつだったか、彼女がぼくにぶつかったことがある。ぼくも大概考え事をしながら歩いてしまうため、人にぶつかることは珍しくないのだが、その時のことが妙に印象に残っている。
ぶつかった時にふわりと香った、シャンプーか何かの香りだ。香りについて知見を持ち合わせていないため「甘くて優しい、良い匂い」としか表現できない。女子生徒からそういった、所謂良い匂いがすることは珍しくないのだが、彼女の香りは違った。
気持ちの悪い話だが、正直ずっと嗅いでいたいと思った。香ったのは一瞬なのに、ずっとあの香りを覚えている。他に似た香りもわからないまま、せめてもう一度、と、あの香りを求めるようになっていた。
ぼくは教師だ。
この言葉の意味が、重くのしかかってくる。こんなぼくでも教師だ。彼女に聞くわけもいかず、かといって、ぶつかるほどの距離まで近付くわけにもいかない。我ながら気持ち悪い理由だが、それでも彼女を目で追いながら、またチャンスが訪れないものかと思うようになってしまった。
興味のある対象を観察するのは得意な方だ。そうすると、彼女の些細な動きや癖が嫌でも目に入ってしまうようになる。特にぼくは表情や態度が表に出やすいらしく、あまりにも彼女に気をやると、この想いが誰かに悟られてしまうかもしれないため、なるべく意識して彼女を見ないようにしていた。そんなことをしていると、今の自分がどれだけ愚かであるかと自己嫌悪に陥るほどであった。
彼女は真面目な生徒だ。出した課題も遅れず提出するし、ぼくの授業もよく聞いてくれる。ぼくが生徒たちに質問をすると、率先して手を挙げて答えてくれる。ポケモンのことが好きで、育てるのも上手だ。
ぼくがこんな状態になってしまってから発見したことがある。最近の彼女はよく笑っていて、友達の女生徒と頬を赤らめながら笑う姿をよく見かけるようになった。ぼくはその姿に少しの胸の高鳴りを感じた。そんなふうに思ううち、彼女がぼくに質問しに来たときも、問題の解き方がわからず不安そうにしていた顔が、陽が差し込んだように明るくなった時は胸の奥がぎゅっと熱くなった。
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中庭では色々な生徒がポケモンと遊んでいたり、時には中央のコートでバトルをしている。ぼくは授業の終わりに時々ここでぼーっとするのが好きだった。しかし、今では無意識に彼女を探してしまっていて、今日は姿を見ることができるだろうかと、少しの期待を持つようになってしまった。
いつものルーティーンがこんな邪な考えになってしまっていたことに気づき、自己嫌悪の感情を持ったその時、彼女の友達と、彼女がエントランスから歩いてくるのが見えた。思わず頬が緩んでしまったことを自覚し、慌てて何も考えていないふりをしようとすると、ちょうど、彼女の友達が何かを耳打ちし、彼女の顔が真っ赤になり、その恥ずかしさを隠すように照れ笑いを浮かべるのを見た。
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彼女のあの香りはなんの香りなのだろうか。いっそ、彼女に直接聞いてしまった方がよいのだろうかと、考え事をしながらエントランスを歩く。と、どん、と胸元に何かかがぶつかった。
「わああ!すみませえん!」
言い慣れてしまった、謝罪のセリフ。また考え事に夢中になって、誰かにぶつかってしまった。その時、ぼくのあまり好きではない、わざとらしいほどの科学的な香り……香水の香りがした。
「わっ!ごめんなさい!こちらこそぼーっとしてて……」
自分の目の前にいたのは、件の彼女だった。ぼくと同時に謝罪の声を挙げた彼女は、ぺこりと頭を下げるとまた忙しなく走り出す。
「エントランスは走っちゃだめです……よ……」
教師として、後ろ姿に声をかけたものの、彼女は待ち合わせていたであろう相手を見つけて笑いかけていた。きっとぼくの声なんて聞こえていないだろう。彼女は他のクラスの男子生徒に、今まで見たこともないような笑顔で、肩を寄せ合いながら歩いて行った。
ぼくは少しの間、言葉を失って立ち尽くしていた。あの香りは、きっと、もう知ることはできないのだろうと悟った。ぼくが追いかけていたものは、彼女ではなく、彼女の香りだったのだろうか。
こうしてぼくの想いは、きっと誰にも知られることなく終わりを告げた。