ずるい「キミのものになりたいな」
俺の胸に頬を擦り寄せながら、彼が呟いたのは、そんな小さな告白だった。
アルベドの部屋を訪れて最初に目に入ったのは、椅子に座ってくつろいでいる少年の姿。にこやかに「やあ」と声をかけてくる彼の手には、湯気の立つマグカップが握られていた。
……その中身を見て俺はすぐ、彼が〝アルベド〟ではないことに気が付いた。
ミルクの量がいつもと違う。取っ手にかかる指のニュアンスも異なっていた。飲み干したマグをテーブルに置く仕草だって……。
これは、アルベドではない。
……詳細は省略するけれど、アルベドは今、ふたり居る。片方は俺のよく知るアルベド。そしてもう片方は、アルベドへ成り代わろうとして失敗した、彼そっくりの偽者。
彼らの間に何があったのかは、分からないけれど……アルベドは、この偽者を排除しなかった。あまりに繊細な話題だから直接聞くわけにもいかず……。
ただ、アルベド本人は、俺がその事実――「偽者はまだ生きていて、たまに入れ替わっている」ということ――に気がついている事を知っているようだった。
だからこそ、何も言わないのかもしれない。俺にすべての判断を委ねようとしているのか、あるいは。……想像したところで、俺にはアルベドの意図はいまいちわからないけど。
……恋人にすら、言えないことなのかと、少しだけ落ち込んだりもしたが。今はある程度、割り切ることができていた。
「どうしたんだい、そんなに見つめて……」
困ったように、そして少し恥ずかしそうに笑いかけてくる彼に、なんでもないと頭を振って。……擦り寄ってくる彼の肩を抱きながらも、俺はぼんやりと、こう考えていた。
俺は〝アルベド〟しか愛せない。
……偽者は、俺とアルベドの関係をよく知らない。けれど、恋人であることは理解している。だから表面上の接し方を真似てくる。
こうして微笑んでみせて、彼のように触れてきて、幸せそうに息を吐くのは、アルベドの真似をしているに過ぎない。
そう思っていたのだけど……。
「キミのものになりたいな」
――これは、どういう意味だろう。俺のものになりたい……とは。もの扱いするのは少し気が引けるけど……〝アルベド〟はもう、俺のものだろう。ならばこの偽者の彼も、それを理解しているはずだ。なのに何故?
……でも。これを指摘してしまえば、今までの関係はすべて崩れてしまう。
わざわざアルベド本人が、偽者の存在を言及しないのはきっと、この偽者にも「アルベドとして生きること」をゆるしたからだ。
ひとつの果実を分け合うように、人間としての幸福を、この子にも与えたかった。
……指摘すれば、アルベドのその思想を、そしてこの偽者の存在を、否定してしまうことになる気がして。何も言えないまま、彼の顔を見つめていた。
「空だけの、ボク。……ふふ。素敵な響きだ」
うっとりとした声、擦り寄せてくる頬の熱。その言葉は、自分はアルベドではないと、そう宣言しているのと同じことだ。なのに、こんなにも幸福そうに……。
……我慢、できない。
「アルベドは、俺のものだよ」
アルベド「は」、だ。では、君はどうだ。そう聞いたつもりだった。……彼は、俺の胸に顔を埋めたまま、ふるふると首を振る。
「ボクは、違う」
その返答を聞いてようやく理解した。……俺が、彼が偽者だと勘付いていること。それを知られていたのか。
気をつけていたはずだけれど……隠し通せるはずなんてないとも思っていたから、不思議なことではない。
「困らせてしまってすまない。……今まで指摘しなかったのは、ボクを傷つけたくなかったから……だろう? 理解してるよ」
落ち着いていて、ゆっくりとした話し声。アルベドと同じ……けれどどこか、こもっている熱が違う。そんな声色だった。
そこまで理解しているのに。どうして自分からばらしてしまったんだ。……いや、違うな……拒絶されたから、ばらしたのか……。
「旅人。ひとつだけ、お願いしたいことがあるんだ」
嫌な予感がする。この流れで言われることなんて、本当にふたつくらいじゃないか。けれど聞かないわけにもいかない。頷けば彼は顔を上げて、俺の目を見ながらこう言った。
「一度でいい。ボクを、抱いてほしい」
……今にも泣きそうな顔をして、やや上擦った、悲壮感のある声色で。……アルベドとは、違う。比べてはならないと分かっていてもなお、そう感じてしまう。彼はこんな、苦しそうな顔なんてしない……。
「……アルベドに、聞かなきゃ」
「彼に許されたら、抱いてくれる?」
言葉を遮るようにして彼は言う。まるで駄々をこねる子供のようだ。俺の頬に手を当てて、指の先で耳たぶを触る。その仕草にすら差異を感じてしまい、だんだんと自分が嫌になってきてしまった。
「できないと思う」
「……抱いてくれ、は贅沢かな。なら、身体に触れてくれるだけでいい。それでも?」
俺の手を取って、自分の胸元へと導く彼……俺は思わず、その手を振り払ってしまった。……その直後、自分が何をしたかを理解して、後悔する。
「……ごめん」
反射的に謝ると、彼の表情はさらに歪む。瞳に涙を浮かべながら、唇を震わせて。
「一度だけで、良いんだ」
「……無理だ」
「口付けだけでも……」
「それはもっと駄目」
言い切ると、とうとう耐えられなくなったらしい。ぼろりと大粒の涙を流して、そのまま俺の胸に抱きついてきた。その背中をさすってやりながら、俺は考える。
……どうしたら、諦めてもらえるだろう。どうしたら、これ以上傷付けずに済むだろう。きっぱりと断って、この場から逃げ出したほうがいいのだろうか。
「……キミのものになりたい」
もう一度、彼が呟く。言葉の意味は先程と全く同じものなのに、さっきよりもずっと、重たく聞こえた。
積もるのは罪悪感ばかり。俺はただ、彼の背中を撫で続けることしかできなかった。