無題「狐だ」
小さな声に反応して、スケッチブックに向けていた顔を上げ、振り向く。
ボクと同じつくりをした顔は、真っ直ぐと視線を正面へと向けて、近くの茂みを見つめている様子だった。ややキョトンとしたような表情で、感情の揺らぎを読み取りにくい瞳がそこにある。
何かを言いたげな顔をして、けれど何も言わず。彼はそのままゆっくりと立ち上がると、茂みのほうに近付いていった。
ざくざくと雪を踏み締める音と共に、真っ白な景色の中へ溶け込んでいく後ろ姿。
思わずそれに手を伸ばし、「待って」と声を掛けようとしたところで……彼が一歩、深く踏み込んだ。
「あ……」
一瞬のことだ。茂みの中に消える彼の姿。すぐにギャ、と甲高い鳴き声が聞こえ、続いてパキパキという枝葉を踏む音が聞こえる。
……そして次に現れた彼の手の中には、白い被毛の獣の姿があった。雪狐の成獣だ。……美しい銀色の毛並みに、鮮血が滲んでいる。
「何も、殺さなくてもいいじゃないか」
ボクの文句に彼は小さく肩をすくめてみせる。
「殺さなければ食べられないだろう。生き肝を啜るのが好きだというなら、そうするけど」
「そういう問題じゃないよ」
ボクの言葉に返事はない。ただ少しだけ眉根を寄せると、ボクの隣へと歩み寄ってきた。そして雪の上へと腰をおろし、ボクの手元を覗き込んでくる。
「この景色に、獣なんていないだろ?」
……。なるほど、確かにそうだ。キャンバスに描かれた風景には、狐の姿などない。ただ白い世界が広がっているだけだ。
「……」
何とも言えない気分になってしまって、ボクは黙り込む。それを納得したのだと解釈したのか、彼はふんと鼻を鳴らすと、ボクの手から木炭を奪い取る。
「休憩しよう。そろそろまともな食事を取ったほうがいい。昨晩も、パン一切れだっただろう?」
……その言葉の通り、確かに今日はまだ食事をしていない。だが空腹感は無いし、食欲もいまいち湧かないから……特に気にしていなかったのだけれど。
それでも、食べなければ生きていけないことも分かっている。だから渋々作業を中断して、立ち上がって彼に従うことにした。
「この肉で、シチューでも作ろう。手伝ってくれるよね」
……あまり気は向かないな。そう思って、返答はしなかった。
二人で連れ立って歩き出す。相変わらず、周囲にはボクたち以外の生物は見当たらない。
時折吹き付ける冷たい風が、雪原の上に残った足跡を消していく。まるで世界に二人きりになったかのような錯覚を覚えながら、無言のまま歩みを進めた。
拠点へ到着した頃には、既に空は夕焼けに染まっていた。ああ、この景色も綺麗だ。今日はよく晴れているから、地平線の向こうまで見渡すことが出来る。
「ああ、もう……買い出しをサボったね? まともな姿の食材がほぼないんだけど……」
食材のストッカーにしている木箱の中を漁りながら、彼がぼやいている。ごそごそと物色する音が響いて彼が手に取ったのは、少し萎びかけているニンジンと、芽の出たじゃがいも、それから平気そうな玉ねぎ……何を作るのかがわかりやすいなと思いながら眺めていると。
彼がボクの手に、そっとじゃがいもを握らせてきた。
「……これは」
「皮を剥いて。芽を取るのが面倒なんだ、任せたよ」
彼はそう言うと、自分もニンジンの皮をナイフで剥きはじめた。……ボクなら、ニンジンの皮は剥かないな。面倒だから。けれどそれを指摘してやる気にはなれなくて、芽のせいでゴツゴツしているじゃがいもを手の中で転がした。
+++
夕食を済ませた後も、ボクたちは他愛のない話を続けていた。会話の内容はその殆どがボクのことと、旅人についての話だ。
旅人――〝ボク〟がボクを仕留め損ない、そして、こうして共存するに至った原因。星海の匂いがするあの旅人のことを、〝ボク〟はひどく気にしているらしかった。
「……それで? 旅人との関係は、どうかな。良好なまま保てているかい?」
「さてね。ボクの正体には気がついているようだけれど……何も、言ってこないよ」
彼は、ふぅと小さく息を吐く。……ボクと入れ替わり「アルベド」としての生を謳歌するには、旅人の存在はやはり一際気にしなければならない。クレーや生徒たち、あるいは友人の面々が相手ならば、ある程度は誤魔化せる。だが本能的に察知できる旅人だけは……シーツに一点ぽたりと染みた、血痕のようなものだ。見逃すことは出来ないのだろう。
「キミこそ。……旅人のことになると、やたら口を挟んでくるけど。何かあったのかな」
「……何もないよ」
そう短く返答するも、彼の視線はまだ、ボクの顔に注がれたままだ。
「嘘つき」
「……っ」
言い返そうと口を開こうとした瞬間、頬を摘まれた。そのまま横に引っ張られる。
「痛い」
「それは良かった。……ボクに隠し事をするだなんて、許さない。早く、洗いざらい吐いてくれ」
どんな立場から言っているんだ、それは。許すも、許さないも無いだろう。……ただ、旅人は彼に対して、ほんの少し距離を取っている様子だから……そう考えれば、根掘り葉掘りと聞きたくなるのも当然か、とは思うけれど。
「……本当に、痛いよ。離してくれるかい……」
眉をひそめながら、ボクは言った。すると彼は不機嫌そうにしながらもぱっと手を放し、ボクの正面に座り直す。それからじっとこちらを見つめてくるので、観念して口を開いた。
「……旅人と、旅に出ようと思っていて」
「はぁ!?」
彼は素っ頓狂な声を上げ、信じられないと言わんばかりに大きく目を開く。
「なんっ……ちょっと、待って。それじゃあキミ……ボクを置いて……」
「うん。しばらくは戻らないつもりだ」
ボクの言葉を聞いて、彼は絶句した。……当然だ。ボクだって、まさかこんなことを考える日が来るだなんて思わなかった。だが……旅人がモンドへと戻り、ボクを連れ出そうと手を差し伸べてくれた、この機会を逃してしまったら、きっと後悔する。
……数秒の間を空けると、彼はふるりと首を左右に振る。
「駄目だ。そんなこと……認められない」
そして彼は、強い口調でそう告げる。その瞳には怯えの色が見え隠れしていて、少しだけ申し訳なくなる。それでも、一度決めたことなのだから譲れなかった。
「どうしてだい?」
「どうしてもだ!」
ボクが尋ねると、彼はヒステリックにそう叫んで、椅子から立ち上がった。そしてずかずかと近寄ってくると、両手を伸ばしてボクの両肩を掴む。
「キミはっ! ……いや……キミが、居なくなったら。ボクは……どうすればいい」
悲壮感に満ちた表情を浮かべながら、彼が訴える。その言葉は、まるで子供の駄々だった。彼が、ボクに……いや。ボクの存在そのものに依存していることは知っている。けれどこれはあくまで一時的なものだ。彼はきっと、いつか、ボクの「アイデンティティ」を欲しがらなくなる。
彼が自分自身という存在をありのまま受け止められるようになれば、ボクの存在など不要になるだろう。
「ねぇ。何か、言ってくれ。……ボクを、一人にしないでくれ……」
「大丈夫だよ。キミは一人じゃない、騎士団の皆やクレーがいる」
「違うっ!」
泣きそうな声で懇願してくる彼を宥めようと口にした言葉だったが、すぐに否定されてしまった。彼はぐっと唇を噛み締めて、ボクの目を真っ直ぐに見据えている。
「ボクは……ボクには、君しかいない」
そう呟いたきり、俯いてしまう。その身体が小さく震えていて、思わず手を差し伸べそうになるが……途中で思い留まる。
「……ごめんね」
結局、口から出てきたのはその一言だけだった。しばらくの沈黙の後、彼は顔を上げて、ボクを見る。
「……ボクは。……ボクは、連れて行って……くれないのか」
ぽつりと、消え入りそうな声で尋ねられた。……正直なところ、連れて行くかどうか迷っていた部分もある。けれど今の彼にそれを言えば、ますます意固地になってしまう気がする。
「……一緒に行こうか」
悩んだ末、ボクはそう答えた。すると彼はぱっと顔を輝かせて、「本当かい?」と弾んだ声を上げる。ああ、なんて分かりやすい子なのだろう。まるで主人を見つけた子犬のような表情をして、顔をぐっと近づけてくる。
「旅人に確認を取って、騎士団への休暇届を出してからになるけれど」
「……分かった」
ボクの言葉にこくりと小さく首肯して、彼はようやくボクの肩から手を離す。それから少し落ち着いた様子で椅子に戻ると、ゆっくりと息を吐き、背もたれに体重を預けていた。
「キミは、ボクのわがままは聞いてくれないのに、旅人のものなら聞いてあげるんだね」
「……そういうわけでは」
じとりとした視線で睨まれ、言葉を濁す。……確かに、そう捉えられても仕方がないような行動を取ろうとした。それは事実だ。自分のことをないがしろにされたと思っているのだろう、彼はむっとして口を尖らせている……。
「……ボクのわがままも、たまには聞いてくれ」
少しの躊躇いの後、彼はぽそりと言った。そしてそのまま黙り込んでしまう。……一体何を要求されることやら。想像もつかないが、あまり無茶なことは言わないで欲しいと思う。しかし、彼の望みは予想外にも、至極単純なものだった。
「……キスしたい」
予想外の要求に、思考回路が停止する。
彼は今、何と? ボクは、聞き間違いをしただろうか。じっとこちらを見つめたまま、返答を待っている彼に、返す言葉が見つからない。
「……嫌なのか」
何も言わずにいると、彼は不満げに眉根を寄せてそう言った。
「いや……」
反射的に否定してしまう。……何故だ。別に構わないじゃないか。彼と口付けをするなんて、初めてでもない。ただ、ここ最近はしていなかっただけ。それに、彼がこんな風に甘えてきたことなんて今まで無かった。だから、戸惑っているだけだ。ボクが考え込んでいる間、彼はずっとボクのことを見つめ続けている。
「……いいよ」
そう言って両腕を広げたボクを見て、彼は嬉しそうに頬を緩ませ、いそいそと近寄ってくる。そしてボクの腕の中に収まった後、そっと目を閉じる。……本当に、子供みたいな人だ。
そっと、唇を重ねる。久方ぶりの感覚は以前とそう変わらない。柔らかくて、よく似た体温だからか、ぬるく感じる。
「……ん……」
小さな吐息が聞こえてきて、彼が身じろぎした。その動きに合わせて離れると、彼から名残惜しそうな表情を向けられる。
「もう終わり?」
ボクの胸元に頭を押し付けながら、上目遣いに見上げてくる。その瞳の奥には期待の色が見え隠れしていて、なんだかとても気恥ずかしい気持ちになった。……駄目だ。このままだと、流されてしまう。一度大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと彼の身体を押し返した。彼は不思議そうに首を傾げると、今度は自分から身を寄せてくる。……これじゃあ、いつも通りじゃないか。ボクは彼の身体をやんわりと押し返し続ける。すると、痺れを切らしたのか、彼が強引にボクの服を掴んで引き寄せた。
「……っ!」
バランスを崩し、床に倒れ込む。背中を打った衝撃に息を詰まらせると同時に、唇を塞がれてしまう。先ほどよりも強く唇が重なり合い、彼は角度を変えて何度もついばんできた。……これは、まずい。
そう思った時には既に遅く、いつの間にか身体の上に乗られてしまっていた。彼はボクの顔の横に手をつくと、上から覆い被さるような体勢になる。そして再び顔を近づけてこようとする彼を、慌てて手で制した。
「待って」
「どうして」
ボクの言葉に不満そうな声を上げた彼は、不服そうな表情をしている。
「これ以上は……ここでは出来ない」
「……そうだね」
ボクの言葉に、彼は素直に同意する。そしてゆっくりと起き上がるとそのまま立ち上がった。ボクも同じように立ち上がり、乱れてしまった衣服を整える。……なんとなく、彼の顔を見ることが出来なくて俯いていると、不意に「ねえ」と声をかけられた。
「続きは、どこでしようか」
「……」
そう尋ねられて、言葉に詰まった。……正直なところ、ここでなければ良い、ただそれだけだ。ボクが黙ったままでいると、彼はボクの手を取り、指を絡めてくる。
「ボクらの部屋でも、いいかな」
「……ああ」
結局、ボクはその提案を断ることが出来なかった。彼はボクの返事を聞くと、繋いだ手を軽く引き、歩き出す。ボクはその手を振り払うことも出来ず、されるがままにその後をついて行った。