カニ飼い2号さん ――浅く水の張られた桶の中、黄色い生き物が水を噴き上げている。
「これは」
「カニだよ」
かがみ込んで桶の中を覗き込むボクの隣で、彼が言った。見れば分かる、これはカニだ。いわゆる黄金ガニと呼ばれている、黄色い甲羅を持つ甲殻類。調理するととても美味しく、このカニと同じ名前の料理もある。カニが先か、料理が先か……というのはさておいて。
「美味しそうだね」
「……あげないよ」
彼はそう言うと、カニの入った桶を守るようにして自分の方へと引き寄せる。まるで子供のような仕草だった。
「生き物を飼ったことがなかったから、飼ってみようと思って」
言われてみれば、桶はかなり深いものが選ばれているし、砂も敷かれている。潮の香りはしないから、淡水で生活しているものを捕獲してきたのだろう。カニはボクたちの視線なんて気にする様子もなく、水の中でハサミを動かして、身じろぎをしている。
「……ボクの許可なく、ボクの部屋で飼うなんて」
「いいじゃないか、これくらい」
言いながら、彼は桶の中のカニに手を伸ばす。その指先が触れそうになった瞬間、カニは素早く横へと逃げていく。
彼は楽しげに笑みをこぼすと、もう一度手を伸ばしてみる。またカニは逃げる。……いじめて楽しんでいるようにしか見えないが、これが彼なりのコミュニケーションのつもりなのだろうか。ハサミを上げて威嚇されるたびに、嬉しそうな表情を浮かべていた。
「からかってすまないね。ほら、エビでもお食べ」
彼がビンの中から取り出したエビの剥き身をつまんで、カニの口元へと差し出す。するとカニはそのハサミを使って器用に掴むと、小さな口にくわえ込み、ちまちまと咀嚼しはじめた。
「……可愛いね」
その様子を見て、思わずつぶやいてしまう。うん……水棲の生き物も、中々。普段は獣ばかり見ているけれど。
「気に入ってくれたみたいだね」
満足げに微笑む彼の顔を見て、ボクも頬が緩んだ。……カニは意外と寿命が長いから、飼いきるのは正直難しいと思うけれど……まあ、ボクも一緒に面倒を見てあげることにしよう。
「……名前は?」
ふと思い立って訊いてみた。ここまでしっかり飼おうと準備をしているからには、名前くらいはもうついているだろう。
「バター添えだよ」
……それは。料理……じゃないか?
「食べる気満々じゃないか」
「死んでしまったら食べるけど。それ以外では絶対に食べたりしないよ」
「それはそれでどうなんだい……?」
カニ……もとい〝バター添え〟にもう一匹エビを与えながら、彼は苦笑した。名前も、葬り方も、本当にそれで良いのだろうか。そう思いはするが、今さら何を言っても仕方がない気がしたので、黙っていることにした。
「いつか名前をつけたくなったら、その時に改めて、名前をつけることにするよ」
……。それなら最初からつけなければいいんじゃないかと思ったのだが、それを言うことはしなかった。
「キミにも、そろそろ名前をつけてあげようか」
「……」
彼は何も言わずに、ただ肩をすくめた。それが返事ということらしい。……彼に名前がつくのが先か、バター添えがバター添えでは無くなるのが先か、それともバター添えが本物のバター添えになってしまうのが先か……。どれにせよ、先は長そうだ。
ボクはそんなことを考えながら、桶の中に手を突っ込んだ。水の冷たさと、横歩きで逃げていくカニ。揺れる水面を眺めて、ボクは小さく笑った。