飼い殺し 物音で目が覚めた。時計を確認すると、まだ深夜と言える時間だ。……扉を隔てた隣室から、がさごそと何かを漁るような音がする。ふと隣を見れば、彼の姿がない。
「……」
寝ぼけ眼のままベッドから降り、部屋の扉へと向かった。そうっとドアを開けて、どうしたのかと覗き込むと……彼の背が見えた。
ちょうどシンク下の収納を開き、そこからフライパンを取り出したところだったようだ。かまどの上にそれを置いて、油を引き、火をつける。それから保冷庫の方へと向かい、中から卵をひとつ取り出した。……そこで、ボクと目があった。
「……起こしてしまったかい?」
彼の手が二個目の卵を手に取って、保冷庫の蓋が閉じられる。ボクは何も言わずに首を振って、彼の方へ歩み寄っていく。
彼はボクに場所を譲るように一歩横へずれると、手にしていた卵をフライパンの中へと割り入れた。
「夜食かな」
「そんなところ。少し、お腹が空いてね」
「……昨日、あれだけ食べたのに?」
「食べ盛りなんだ」
ボクはそれ以上何も聞かずに、彼の横で調理の様子を観察する。パンを薄く切り皿に乗せる仕草は、初めのころと比べれば随分手慣れてきた。力加減がわからなくてパンを潰すなんてことも、今ではほとんどなくなった。
「キミも食べるだろ」
「いいのかい?」
「ひとりで食べるのは味気ないからね」
彼はボクのために椅子を引いてくれる。そこに腰掛けて、目の前に置かれた皿を見つめる。切り分けられたパンの上に目玉焼きが乗る。半熟の黄身がつやつやと輝いている。
「朝食みたいだ」
「簡単なものでないと、夜食にならないだろ。……それに、この食材はボクのものではないし」
そう言うと、彼は自分のぶんのパンにかじりつく。ボクもそれに倣って、ひとくちかじってみる。ほどよく塩胡椒の効いた、シンプルな味付けだ。
「おいしいよ」
素直な感想を口にすると、彼は少し照れたような顔をして、ありがとうと短く答えた。それから……少しだけ間をおいて、口を開く。
「でも、キミの方がもっと上手く作れるだろう」
「……」
ボクは黙ったまま、また一口、パンを食べる。目玉焼きくらいなら、気をつければ、誰だって上手に作れるはずだ。彼はボクの返事を待たずに言葉を続ける。
「今は、それでいい。……これから、キミ以上に完璧になってみせるから」
「……それは、楽しみだね」
ボクは笑ってみせれば、彼はそれに満足げに微笑むと、「そうだろう」と言って、残りのパンを食べきってしまう。
そんなことで張り合っても仕方ないと思うのだけど、彼にとっては、……日常生活の小さな所作ですら、ボクに似せねば気が済まない。
それは、ひどく息苦しい生活ではないだろうか。鳥として生まれた生き物が、四つ足の獣を真似して生きるような――
「……キミがボクの真似をするのをやめたら、ボクたちは一体どんな関係になるんだろう」
ふと思い浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、彼は不思議そうな顔でこちらを見た。
「どういう意味だい?」
「そのままの意味だよ。……たとえばボクが、アルベドという身分を捨てて、キミの元から去ったら」
彼は目を細めて、ボクの瞳の奥を探る。その視線から逃れるように、ボクは俯く。
「そうしたら、キミはボクの模倣をしなくてもよくなる。……それでいつか、ボクを求めなくなって、ボクのかたちを忘れていくんだ」
そうして、正しいかたちを手に入れる。〝アルベド〟ではない、新しい身分だ。新たな自己同一性を手に入れさえすれば、彼はこの世界を、もっと自由に生きられる。温かな陽の下で、鮮やかな色を知ることができる。……ボクの存在は本来、彼には、必要のないものだ。ボクから彼に与えられるものは、劣等感だけだから。
彼はしばらく無言でいたが、やがて小さくため息をつくと、肩をすくめた。
「そういうところが嫌いなんだ」
冷たい声色だった。
思わず顔を上げて彼を見る。冷ややかな視線が、ボクを射抜く。
「もし、そうしたくなったらボクに言うといい。……今度はボクが、キミを、飼ってあげるよ」
そう言って、彼は笑う。
「お似合いの服を着せて、美味しい餌で太らせて、可愛い可愛いって撫で回して、新しくつけた名前で呼んであげる。……きっと、楽しい毎日が過ごせるよ」
彼の表情は、どこまでも穏やかだ。まるで子供に言い聞かせるような甘い声色で、彼は囁く。
「今のボクみたいにね」
ああまるで、それでは、飼い殺しにされる家畜のようだ。