道迷い「おい」
澄んだ空気の向こうに、青空を背景として山頂がそびえている。木漏れ日が差し、小鳥のさえずりが響く中、俺のひとつ前を歩いている狐が、先頭を進む狸へと声をかけた。ぶっきらぼうな呼びかけに、無愛想な声が応える。
「なんだ」
「同じところを回ってないか?」
「……俺も思った」
狸は足を止めて、睨めつけるように狐を振り返る。続けて、高圧的に口を開いた。
「この直前でルート取ってたの、お前だろ」
「は? 俺の段階じゃあ予定通りだったろ。お前が間違えたんだ」
「根拠のねえこと言うんじゃねえぞ。俺は計画書通りに進んでる」
また始まった、とため息をついた。生命が関わる登山において、喧嘩というものはご法度だ。だというのに、彼らは登る度になにかしらの喧嘩をする。ある日は荷物持ちの分担、ある日は食料の分配、ある日は装備品の貸し借り。キャンプ中であれば、互いに掴みかかることさえある始末だ。なぜ一緒に登っているのだろうといつも思う。
ましてや、道迷いだ。遭難している可能性すらある。冗談じゃない。そう考える俺をよそに、二人の言い合いはテンポを増していく。
「金のことばっか考えてるから、目印を見落とすんだ」
「女ウケのために登ってるお前に言われたくねえな。人に荷物背負わせて登った山の写真で歓声あげられて楽しいか?」
「はっ、僻みか? 適材適所だろ。お前は女から金を取るからモテねえんだよ。男らしく奢ってやりゃあいいのに。人間性の問題だ」
「人間性? お前が今何股かけてるのか考えてから言え。そもそも、誰から借りた金で奢ってると思ってんだ?」
小柄な狸だが、腰を落として凄む様子には、身長にして20cm以上離れた俺ですらたじろぐような迫力があった。しかし対する狐は一歩たりとも引く様子はなく、端麗な顔を歪めて鋭く言い返している。山に木霊する容赦のない大声を風が煽って、小鳥がばたばたと飛び去った。
「そんな立派な出資者様が道間違えてんじゃあ世話ねえな」
「間違えたのはお前だ」
「洗先輩はどう思います?」
「あ!?」
まずい、矛先がこちらに向いた。慎重に言葉を選ばなければ、と思ったときには遅く、口が滑る。
「運だろ」
「んなわけあるか、ギャンブラーがよ」
「ふん」
「狸お前鼻で笑ったな?」
狐がにやりと目を細めた。狸の冷たい目が、しかしどこか愉悦を含んで、ぎろりと俺を睨みつける。嫌な予感がする。その予感を裏付けるように、狐が八重歯を覗かせた。
「そもそも、この山を選んだの、誰だっけなあ?」
「大ベテランの洗先輩だったんじゃないか? 登ったことがあるらしいぞ」
「へえ、それは心強いな。ほら、さっさと案内してくださいよ、先輩?」
「まさかできないとでも? 先日のパチで運を使い果たしましたか?」
ついさっきまで、そこ二人で言い合っていたくせに。誰かをいじめるとなると、最高の相棒になりやがる。一転、一丸となって俺を責める二人の顔は、このために二人で山を登っているのではないかと思うほど生き生きとしていた。余計なところで息が合うらしい。
「うるせえうるせえ! それで負け代返せたんだからいいだろ。おら、こういうときは潔く引き返すんだよ。狐、GPS見ろ。狸はコンパス」
「えーい」
「うす」
間の抜けた返事を返して、各々自分の作業に入っていった。救いようのない二人だが、山が好きなことだけは本当だと言う。喧嘩をしているときには互いに本気で、どう見たって険悪なのに、彼らはたしかに悪友で、親友らしかった。