晩晴晩晴……夕方になって空が晴れること。
「お疲れ様です」
ショーが終わると、いつも、ぼくはその殺人後特有の独特な疲労感と陶酔感に見舞われる。それはまるで、酔っ払っている時の、気持ちがいいのか、気持ちが悪いのかわからない感覚とよく似ていて、この感覚を満足に味わっている時は、なんだか、この世界に存在しているという事実が、どうにも居心地よく感じるのだ。
いま親指で拭ってみせた頬についた紅が、いったい誰のものなのかはわからないが、まあ、ショーが終わったいまとなっては、そんなことはどうでもいい(ショーの最中だったとしても、それは気にするに足らないことなのだが)。
グリモワール・サーカス団に入団して、いったいどのくらいの月日が経ったのだろうか。おそらく、三月ほどは経っているだろう。
ぼくはきっと、新人にしてはうまくやっている方なのだと思う。エアリアルの実力もさながら、その殺人行為自体の残虐性も高く、それならば当然、ここで愉悦を満たそうとする観客からの評判も上々――期待の新人といっても過言ではないような業績を残せていると自認している。
きっと、みんながぼくに期待している。
その事実に、プレッシャーを感じたりはまったくしていない。むしろ、これこそがぼくに相応しい評価だとさえ思っている。この状況こそが、まさしくぼくが望んだものなのだ。
これでいい、これがいい――だけれど、ぼくの身体はそう思ってはいないようだった。
連日まで続くショーを、ぼく自身は良しとしているけれど、それでも、ぼくの身体はやっぱり、死というものを恐れぬ種族でも、疲れを知らぬ人外でもなんでもない、ただの人間の身体だから、恨めしいけれど、どうしても音を上げる時は上げてしまうのだ。
足早にシャワールームへ向かい、髪にべっとりとついた血を洗い流しながら、ぼうっと考える――疲れた。ただ、疲れた。
ここで水をかぶっている間は、なんだか、自身の表面に塗り固められたなにかが削ぎ落とされて、自分の本心と正直に向き合える気がする(まあ、ぼくはいつも正直に自分と向き合っているのだが)。
ぼくは、みんなに期待されている。
その事実を裏付けるように、明日のショーにも、そして明後日のショーにも、ぼくは出演することが決まっている――演りたい気持ちは十分にあるし、もちろんいまにだってぼくは舞台服に袖を通して、また、人を自分のやりたいようにいたぶりたい気持ちさえある。
――だけれど、やっぱり純粋に、身体が疲弊しているのだ。演りたい気持ちと、もう休みたい気持ちが二律背反を起こして、ただ、ぼくの心中に凝り固まった異物を侵入させていく。
明日も演ろう――シャワールームにて誓ったその決意はまるで、ぼくの心象というものを誤魔化す、ペルソナのようだった。
眠たいひとみで、窓の外を眺める。今日は何時から舞台にあがるのだろうか、なんて、一日の当初にまずそう思って、青空から目を背けた。
いつもならすぐに支度ができるはずなのに、なんだか今日はそれが叶わない。自分の身の異変にうっすら気付きつつも、だけれど、知らないふりをして、質のいい寝具の中からなんとか脱出する。
まずは、着替えてしまおう。気品高く見えるように、襟元のきっちりしたシャツと、その上にベストを着て、ああ、そうだ。今日はなんだか冷え込んでいるらしいから、あの落ち着いた色のコートでも羽織ろうか。
整頓されたクローゼットから、目当ての服がかけられたハンガーを見つけると、それらを取って、しばしベッドに寝かせておく。
着心地のいいシルクパジャマの袖を脱ぐと、あとで洗濯しようと、事前に決めておいた定位置に収納して、白いシャツをまとおうとする。
シワのない、長い袖のシャツに袖を通して、ボタンを何の気もなしに(と、思い込み)止めてみるが、やっぱり憂鬱感が振り払えない。
ああ、なんだ、なんだかおかしい。気にしないようにしていたけれど、おかしいのだ。いつもはこんな調子じゃないのに――こんなんじゃ、まるで、精神力の弱い子どものようじゃないか。
ひとつ、ふたつ、みっつと、ボタンを通していくたびに、なんだか息が詰まる。今日のことを考えるたびに、明日のことや、明後日のことを考えてしまうのだ。
もう、ぼくは十八なんだ。再来年には二十を迎えるんだし、そろそろいい加減にしなければならない。
ベストを着て、黒のタイトズボンを穿くと、その上からベルトを通す。全身鏡でひとめ確認して、自分の理想通りの装いができていることがわかると、ひとつ安心できるけれど、それでも、のちに、だらしない鬱屈感が這い寄ってきて、また、はあ、と溜息をひとつついてしまうのだ。
はやく、この生活に慣れないといけない。この仕事はぼくの身過ぎに、そして、ぼくの尊大な嗜虐心を満たしてくれるものなのだから――おそらく、ぼくは優秀であるから、この生活がこの先ずっと続くだろう。それなのに、こんな状態をずっと維持してしまっていたら、もう生活どころの騒ぎではなくなるのだ。
どこかでひと息つけたらいいけれど、ぼくは息抜きの方法なんて、まるで知らない。与えられた仕事もまともにこなせないようじゃ、きっと他人に「それまでの人間だ」なんて思われてしまうのだろう――それは、すごく癪に障る。
他人にとっての自分の価値が下がるということは、ぼくにとっては腹立たしいことであり、そして、恐怖していることなのである――自分の価値を知らしめることを放棄するという行為を、ぼく自身が平気でしてしまうということが、まず第一に、ぼくのプライドが許さないのだ。
コートをかけたハンガーラックを手に持ったまま、追憶する――かつて読んだ小説に書き記されていた、文章の一部を――「ああ、気付いてしまった。どうしたって自分という存在は、人に頼らないと生きていけないという愚かな事実に、ようやく気付いてしまった。誰かに自分の中をさらけ出すなんていう、気違いじみた露出狂紛いの犯行をしなくちゃ、やっぱりあたしは、ごめんなさい、生きていけないのです。」――なんて文章を。
いま、なんでこれを思い出したのかは知らないけれど、でも、その文章がいま、なんだかぼくに語りかけているような気がして、記憶を振り払おうとする手を、つい止めてしまったのだ。
だけれど、ぼくは別に、そんなことをしなくたって生きていけるのだ。自分一人で抱え込むより、誰かに悩みを打ち明けて、誰かに自分の弱みを見せるほうが、よっぽど、ぼくにとって屈辱的なのだ。
他人に話して、いったい、なにが解決するというのだろうか。ただ、自己解決の行動の前に、ひとつの不要な工程を挟むだけの行為に、ぼくは、如何せん意味を感じられない。
やっぱり、ただ、バカなことを考えただけだった。こんなことで無駄に時間を浪費するより、早く行ってしまおう。
ハンガーラックにかけられた、茶色のトレンチコートを羽織って、また、その袖に腕を通せば、あのサーカステントに行こうと、歩をすすめ――そして、いま向かおうとしている玄関ドアの外から鳴る異音に、思わず足を止めて。
――コン、コン、コン。
「おはよォ〜〜ございまァス!!!☆☆←↑」
聞き馴染みのある、独特の抑揚をした声――返事をしようと口を開くが、口から出すことができたのは、ただの息遣いのみであった。
申し訳程度のノックを三回、モーニングコールとともに、部屋の主の許可もなく入り込んでくる、その声の正体とは――。
「時間的にはコンニチハの方が正しイですカネ??☆☆」
「……やっぱり、あなたですか。」
ぼくが気に食わんとしている男――トイ・ベルそのものであった。
「ゴ名答☆↑↓」
朝からこいつの顔を見るなんて、今日はなんてついていないんだ。
サーカス団でいつもいつも絡んでくる、得体の知れない男――本人は人間だとか抜かしているが、その人の道をはずれたみたいな双眸と、並外れたテンションの高さを見れば、にわかには信じ難くなる。
「イヤァそれにしてモ、今日もスバラシイ日デす!!☆☆↑→」
そのトイ・ベルとかいう男は、ぼくのこの「いかにも迷惑そうな顔」を見ても、目をぱちくり瞬かせるだけで、なにもくらった様子を見せず、ただ、自分本位に話をすすめる。
「……ベルさんがわざわざぼくの部屋に来るなんて、珍しい。いったいどのようなご要件が?きっと、さぞ大層なことがあって来たのでしょうね。」
「ああ、そうそウ!もうスグ仕事の時間ですガ中々こらレないので、アタクシが呼びニ来まシタ〜!☆→↑」
――もうすぐ仕事の時間。その言葉を聞いて、不意に、皮肉を繰り出そうとする舌が止まった。
「そうですね、早く行かないと。」
「準備がまだでシタら、アタクシがお手伝いするコトもでキますヨ!!☆☆☆←↓」
「いえ、結構です。ちょうど身支度を整えて、これから行こうとしていたところなので、ご心配なく。」
あわよくば、いますぐ帰ってほしい。
「なるホド!承知致しました〜!!☆今後もし手伝ってほしいコトガあれバ!いつでも駆けつケますノデ〜!!☆☆→↑」
こういう時は、こいつも物わかりがいいようだ。
「それニしてモチェリー、顔色が優れナイようデすネ〜?☆☆↑←大丈夫デスか??☆」
こういう時だけは、無駄に勘がはたらくようだ。
「……いえ、気のせいではないでしょうか。」
「イエイエ!!☆→アタクシが皆サマのことで見間違エることはゴザいませン!☆☆↑体調がよろしくないノですカ??☆←↑」
「大丈夫です、お構いなく。」
「ですガ無理は禁物デスよ〜!!☆↓↑それでチェリーのステキな笑顔ガ見らレなくなってハ元も子もアリませン!!☆☆→↓アタクシは皆サマに常ニ!☆元気デ笑顔でアッテ欲しいノです!!☆☆☆←↓」
――その馴れ馴れしい愛称で呼ぶなと、ぼくは再三言ったはずなのだが。
「無理なんてしていないので。そうだ、あなたも早く戻らなければまずいんじゃないですか。」
何ラリーと続く押し問答に、若干の苛立ちを覚えながら、この大柄な男に向かって素っ気ない言葉を返す。こいつも、なかなか諦めの悪いやつだ。いらない気遣いなんかで、ぼくの時間を割くんじゃない。
「ウ〜〜〜〜ン……わかりマシた☆」
「理解してくれまし――」
ようやく諦めたのか、とほっとしたのも束の間、突如、この男はぼくの腕を掴み、そのまま掴んだ腕の持ち主を待とうともせず無理やりに歩いて、ぼくの身体を引っ張った。
「――はあ?」
「アタクシのオススメの場所があるノデス!!!☆☆←↑是非とも、チェリーに紹介したいノデ!☆サァ、行きまショウ!!☆☆→←」
「いや、このあとショーが……」
そう反論をしても、トイ・ベルは聞こえないとでもいうかのように、まったくぼくの話に聞く耳を持たず、また自分本位にべらべらと、ぼくの腕を引っ張りながら、喧しいことを話しているのだ。
――ショーは? というか、ぼくはこれからどこに連れていかれるんだ? そもそも、いったいこいつの目的はなんなんだ。なにがしたいんだ、なにもわからない。
だけれど、ひとつわかることがある――それは、「トイ・ベルがいま行こうとしているところは、たしかに、あのサーカス団ではない」ということだ。
「……待ってください、いったいなにをするつもりですか? このあとショーを控えているのは、ぼくだけじゃない。あなたもですよね?」
「ハイ!!☆ アタクシもショーを控えてオリまス!☆☆→↑ 今回観客ノ皆サマの笑顔を見レないのは残念デスが!☆ マァそんな日もあっテいいデショウ!!☆☆↓→」
「いや、なにも良くないんですが……あの、戻ります。ちょっと、ぼくの話聞いてますか?」
こいつは、なんでこんなに強引なんだ。なにをするかの質問に、まだぼくは答えられていないし、というか、こいつの行動の原理が本当にわからないままなんだが。
ぼくにこんなことして、こいつにいったい、なんの利益があるっていうのだろう。こいつはおそらく、ショーをすっぽかして、どこかに――遊びに行く、あるいは拉致? まさか、ぼくはまた拉致されなくっちゃいけないのか。
わからない、本当に、こいつのしでかそうとしていることが、まるでわからない。
ぼくはいったいどこに連れていかれるんだ……。
――歩いて、何分経っただろう。べらべらとぼくの相槌もなしに勝手に喋る、こいつのうざったい声を聞き続けたせいで、ものすごく経過した時間が長く感じる。
「着きマシた☆☆」
タイルで綺麗に舗装された歩道、それに並んで建っている店、昼下がりなのにも関わらずある人通り。ぼくは、この街を知っている。
おそらく、この地域で比較的栄えている街であろう。飲食店や雑貨屋など、たくさんの店が集まっている――所謂商店街だ。
「…オススメの場所とは、ここのことだったんですか。」
隣に立つトイ・ベルに尋ねると、そいつは、
「ハイ!!☆↑コノ中からアタクシのオススメの店舗を厳選して☆→↓そうデスね――十数店舗ほどデショウか!☆ソコにアナタを連れていきマス☆↓↑」
と、ぼくを掴んでいないほうの腕をうるさく動かしながら、放ってみせた。
「多すぎます。どれだけ連れ回せば気が済むんですか?」
「マア、百聞は一見に如かずデス!☆ きっとチェリーも気に入るコト間違いありマセん☆☆←→さあ、一店舗目へ向かいマショう!!☆↑↓」
トイ・ベルの指先が手に食い込んで痛いほど、彼は強くぼくの手を握って、ぼくの様子など一切伺わないように、ただ、自分のやりたい事しか目に見えていない様子であった(他人を慮る気持ちが、まるで欠けている)。
ぼくの嗜好など一切尋ねない、仮にもぼくが街に遊びにきた女性だったとして、口説いてきた男がこのような行動を取ってきたとしたら、頬に一発平手打ちをしてから帰っていくだろう。
まあ二発くらいぶっても許してくれるだろう――と、くだらない事を考える程には、現実逃避したくなっていた。
「イヤ〜〜☆この店ハとりわけ気に入ってるんデス!!☆☆→↑ この店は来れバ来る程、魅力ガわかるンですヨ〜!!☆☆→→」
……初回のぼくにとっては、まったくもって惹かれない紹介だな。先程の言葉を訂正しよう。やはり、バッグで殴りつけるぐらいはしていいかもしれない。
トイ・ベルは愉快な気分だと言わんばかりの様子(いつもそうなのだが)で店の扉を開けると、軽快に二名で、と声と指とで人数を表した。
店内は昼とはいえ、やはり平日だからか、空いていたようで、すぐに案内された。
窓際のよく日が当たる、ここに来る時が一人であったならば心地よかったであろう。
だが、目の前でニヤニヤニヤニヤ笑って不愉快な視線と、ベラベラととどまる事を知らないひとつも頭に入ってこない喋り、とにかく、この全てがこの環境というものを台無しにしていた。
今頃、きっとサーカス団内は欠勤だかで多少なりのざわつきを見せているのだろう、と考えると、気分が憂鬱になった。こんな風にすっぽかしてしまっては、ぼくの尊厳に関わる。
何か返事をする気力もない。はやく解放されたい――という事しか、今は考えられない。
それぐらいしか頭になかったものだから、店員がメニューを聞きに来ても、まともに見る気にもなれず、とりあえずといった形でおすすめを選んでしまった。
正直まったく知らない店の、自分の好みか、好みでないかも分からないおすすめなど、恐怖感しかないのだが、今になってはそんなことは些細なものである。
今にでもサーカス団のほうに戻らなければ、あのショーはいったい、どうなってしまうのだろう。ぼくが好みかどうかもわからないおすすめを頼んでいる間にも、時間というのは無情に進んでいくのだ。
それなのに、この状況を作り出した当の本人である目の前の男は、ここのオススメは最高だとか、適当なことを抜かして、ヘラヘラ笑っているのだ。
本当に、腹が立つ。おまえはどうでもいいけれど、ぼくの評価がまずどうなるか知ってやっているのか? 昔のぼくならば、絶対にこいつの腹に一発は打ち込んでいたのに。
そんな考えが頭を過ぎるが、行動に移した時に被るデメリットを考えて、いや、やっぱりやめよう、と思い直し、精一杯に拳を握る力を弱め、なんとか自身を制止した――それに、店の中でいきなりお見舞いしてしまったら、もうサーカス団員の内輪もめ程度じゃ済んでくれないだろう。
「…あの、お先に失礼してもよろしいですか? ぼくが頼んだ分の代金は支払うので。」
「イエ!!☆ 代金のコトは気にしなくて結構デス!☆☆↓→ アタクシが連れてキタのデすかラ、これからの分も全てアタクシが負担しマスヨ!!☆☆←↓」
「はあ……。」
だめだ、話がまるで通じない。こいつの耳は、自分の目的に不都合な言葉をすべて遮断する機能でも持っているのだろうか。
「お待たせしました。」
ウェイトレスがぼくの前へと運んでくるは、「当店のおすすめ」と呼ばれる食べ物であった。一見すると、さっぱりとした味わいの、なんだかぼく好みの料理のように見える。
まあ、変に脂っこくはなさそうだ。こんなものを食べているより、はやく仕事に戻った方がいいのだが。
ウェイトレスの手を軽く目で追って、あの男の頼んだ料理を一瞥する――彼が頼んでいるのは、ソースが満遍なくかけられた、いかにも肉厚で大衆的なステーキ料理であった。
ショーが控えているというのによく食べられるな。いや、こいつはそもそも出る気がないのか。
出てきた料理に年甲斐もなくはしゃぐトイ・ベルを見てから、視線を自分の頼んだ品に戻した。
「ワァオ☆☆やはり何回見テもスバラシイですネ〜〜☆☆←↑いやァありがとうございマス☆☆←→」
「よく頼まれるんですか?」
「イエ!☆☆ 頼んだコトは今回ガ初めてデス☆☆↑↓」
――なんなんだ……。
頼んだ料理も出てきてしまったしで、いよいよ帰るという選択肢を取ることが難しくなってしまった。仕方ない、これを食べ終わったらもう勝手に帰ってしまおう。こんな奴に構っている時間はない。
それに、きっと一日ばっくれるより、遅刻だとしても行った方が、評価的にはいいだろう。
「ささ!☆冷めてシまう前に食べマしょうカ!!☆☆→ いただきまス☆☆←↑」
「……いただきます。」
観念したように頂戴の言葉を口にすると、席に置かれている、フォークを左手に、ナイフを右手に持って、いつものように食べ始めてみせる。
ナイフで料理を一口大に切り分けて、フォークに刺して、口の中に入れる。そうして、口の中に入れたら、口を閉じてしっかりと咀嚼し――飲み込む。
ぼくの予想通り、味にしつこさは感じられない。まあ、三ツ星のシェフの料理と比べたら満点はつけられないけれど、悪くはない。
そういえば、こいつの食事をしている姿は、あまり見たことがなかった気がする。少し拝んでやろうか。もし礼儀作法が稚拙なようだったら、そのときは、存分に見下してやろう。
再度、ぼくはトイ・ベルのほうへ視線を寄越した――いま食べる分の肉を、一口大に切り分け、フォークに刺したステーキを口の中に入れ、口を閉じて、何も言わずに咀嚼して、飲み込む。
この国にきちんと則ったテーブルマナーだ。仕事を身勝手に放棄するほどのちゃらんぽらんな性格をしているのに、意外にテーブルマナーはなっているようだ。もしなっていなかったら、鼻で笑ってやったというのに。
トイ・ベルとの食事はぼくが思ったより閑静に終わり、想像した光景よりかはリラックスして(ぼくはショーのこともあって、気が気でなかったが)腹を満たすことができた。
「大変美味しかったデスネ〜!!☆☆↑↓ 美味しかッタでショう??☆☆→←」
「まあ、悪くはありませんでしたが。」
「また休暇の機会がガあれバ来まショウね!☆☆↑」
――ぼくは、これが休暇とは到底思えない。この男とずっと一緒にいなきゃいけないだなんて、余計疲れるに決まってる。
「…仕事をすっぽかして来ていることを忘れたんですか?ぼくたちは今無断欠勤扱いされているんですよ。」
「オヤァ?☆ そうでしたネ〜!!☆☆→↑」
「"そうでしたね"ではなく――」
「マ、今戻ってモ夜戻っテモ変わりまセン!☆☆ さぁ、次に行キまショう!!☆☆☆↓←」
本当にいい加減なやつである。もうこのまま無視して帰ってしまおうか――そんな思考に気付いているかのように、トイ・ベルはぼくの腕を掴んで、「自分のしたいようにするんだ」とでも言うかのように、また、ぼくを連れ回しはじめた。
つぎに連れられた先は、窓から日差しが差し込む、暖かみのある雑貨屋であった。ドアを開ければ、チリン、と聞き心地のいい鈴の音がはずむように鳴り、やわらかなウッドの匂いがぼく達を歓迎する。
――店内の装飾は、一律に、ヴィンテージもので揃えられており、それは、まるで一昔前のレトロのような雰囲気を彷彿とさせていた。
「ココはヴィンテージものヲ売っている雑貨屋デス!!!☆☆↓→ 店内の雰囲気が落ち着イているでショウ?☆」
ゆったりとした雰囲気に合うようにと、店内には、心地のいいアナログじみたローファイ・インストルメンタルが流れている。
「確かに、落ち着いた雰囲気ではありますが。」
「ソウでしょウ、そうデショう!☆ 探索するのモひとつの楽しみ方デスよ!!☆↑↓ デハ! せっかくナノで一緒に周りまショウね〜!!☆☆←↓」
「いえ、ぼくは一人で……。」
……ああ、本当に人の話を聞かないのか。
周りをよく見渡すと、壁一面に並べられた色とりどりの雑貨がまるで時の流れを静かに囁いているように感じる。
手作りの陶器や、古びた棚には所狭しと様々な品物が並んでいる。色褪せた本や使い込まれたカップアンドソーサー、どこか独特な形をしてオブジェクトたちがまるでそれぞれが物語を持っているように静かに息を潜めている。
どこか懐かしい雰囲気のそこは張り詰めていた気持ちが心なしか安らいでいくようだった……。
「コレなどドウでショうカ??☆☆→↓ チェリーの雰囲気にピッタリだト思いマセン?☆↓↑ アタクシはぴっタリだと思いマス!!☆ 良いですネェ〜買いまショウ!!☆☆←↑」
――こいつさえいなければな。
静寂と安堵が入り込む雑貨店の中で、その落ち着いた雰囲気に浸りたいという願う気持ちは横にいるこいつにかき消された。
見せられた雑貨は悪趣味なものも多いが、たまにはぼくの好みのものもある。
普通に一人で来たかった。この雑貨店は……。
それにしても、何故こいつはぼくにこんなにも付き纏ってくる? 朝、あんなに「大丈夫だ」と伝えたのにも関わらず、まるでそれが一切合切耳に入っておりません、とでも言うように、ぼくの言動を無視して連れ回す。
――なんだ? この男は何がしたいんだ? ぼくを強引に連れ回してまで欲しい見返りがあるとでも言うのか。まあ、そんなものに応える気はさらさらないが……。この男の笑顔の真意が読めない。
目の前のやつばかりに気を取られることにも疲れたからと、ふと、自身の右側に置かれているオープンシェルフを一目見る。
その木製のシェルフは、金色の小さなミラートレイスタンドに、クラシックな不思議の国の兎のようなオブジェ等の、様々な装飾品によって、そのダークウッドの身体を絢爛に着飾っている。
オブジェたちはそれぞれ、我先にと主張せず、まるで協力しあってひとつの世界を表現せんとしているようで、とても華美であるように感じられた。
「オヤ!そレガ気になりマスか!!☆☆→→ イヤ〜お目が高いデスね〜!!☆☆↑↓」
「見ていただけです。」
――本当のところは、興味があるのだが。なんだかこいつに連れられた場所で、なにかに興味を持ったという事実を、この連れてきた張本人に知られるのが癪で、変に逆張ってみせて、シェルフに差し伸べようとした手を、素の位置に戻してしまった。
「イエイエ!!☆ 手に取らないのは勿体ナイですヨ〜☆☆←→せっかくなんデスから買いマショう!!☆↑↓ アタクシが全て負担しまスから☆←←」
さあ、何が欲しいですか? と、ぼくがなにか言うより先に、トイ・ベルという男はそう続けて、ぼくが選ぶよりも先に、トイ・ベルという男は目についたオブジェを一つ手に取り、「ア! チェリー、これなんかドウでしょウ!☆↑→」とぼくに見せつけた。
――いちばん、悪趣味。
「すてきな美的感覚をお持ちですね、ですがそれはあなたに譲ります。」
「お褒めの言葉大変光栄デス!!☆☆↑ そんなニ気に入ッテいただケましたカ?☆ ではコレもチェリー、アナタに差し上ゲまス!!☆☆☆↓←」
……こいつ、分かってやっているのか? いや、きっと無意識なのだろう。それならば、余計にたちが悪い。
「……お心遣い感謝します。」
この男の言動に腹が立ったから、ほかとは少し値段の高いものも買ってやったのは、すこしだけの内緒である。
――五店舗? 六店舗? とりあえず、それぐらいまわった気がするが、覚えていない。途中から数えるのをやめてしまった。
ぼくを連れ回してくるアホ(通称トイ・ベル)が、馬鹿のひとつおぼえみたいにどこの店でも買いまくるせいで、手荷物がいっぱいになるし、そろそろ朝からひとつも変わらぬテンション感にも慣れてきた。
「先程の店モよかっタデスネ~!☆☆↑ そウだ! 次は服屋にいキましょウ!!☆→←」
もうこいつは全てを決定事項のように話すんだということも理解してきた。それに、よりによって一番荷物が多くなるやつじゃないか。
街並みは相変わらず煉瓦造りの建物が連なり、観光地然とした活気のある一面と、古い都市特有のどこか冷たさを感じさせる雰囲気が交差している。
ぼく――いや、これまで耐えてきたことを考えると「被害者」と呼んでもいいかもしれない――は、トイ・ベルの後ろ姿を眺めながら、もはや空虚な心で歩みを進めていた。
服屋と言いましても……もう荷物が入りきらないのでは――? と言いかけたが、口を開く間もなく、あいつが口を開いた。
「こノ店デス!☆ 素敵でスネ〜〜!!☆☆→↑」
案の定、ぼくの声はこいつの声にかき消される。
目の前には、ガラス張りのショーウィンドウが煌びやかに光る高級感のあるブティックがあった。
中を覗くと、店員はきっちりスーツを着こなした上品そうな男性と、流れるような思ってもいない褒め言葉を操る女性がにこやかに接客をしている。
「さ、入りまショウ!!☆☆←↓」
トイ・ベルは、もはや躊躇う様子もなく、扉を押して、僕の腕を引っ張り店内に入った。ついて行かざるを得ないぼくは、ため息をつきながら後に続く。
中は外観の印象通り、高級感そのものだった。柔らかな絨毯が敷き詰められた床に、天井から下がるシャンデリアが上品な光を落としている。
整然と並べられた洋服やアクセサリーたちが、まるで展示品のように存在感を放っているのを見ていると、「触るな」と言われている気さえする。どれも、ぼくの存在感には毛ほどもないが。
正直この店内で一番高級感があり存在感があるのはぼくだろう。その事実になんだか少し申し訳なくなってきた気もする。
「コレ、良いト思いませんカ〜??☆↓↑」
トイベルが一つのものに目を留めた。シンプルながらもラインが美しいコートが、マネキンにかけられている。
手に取る様子はないが、彼のキラキラした目を見ていると、すでに、頭の中で購入リストに加えられている気がしてならない。
一方で、ぼくはといえば、手持ちの荷物の重さを確かめながら、できるだけ周囲のものに触れないようにしていた。変に触れて、汚して、弁償させられたら面倒くさい。
たまにすれ違う店員たちは、明るく柔らかな笑顔を浮かべているが、視線だけは鋭くこちらを観察している気がする。まあ、だからなんだと言った感じなのだが。
「次コッチも見てミマショウ!☆」
トイ・ベルは再び動き回り、アクセサリーコーナーへと向かう。煌びやかなショーケースの中で、宝石が柔らかなライトに照らされてきらめいている。
眩しさに、ぼくは無意識に目を細めた。宝石の眩しさではなく、ショーケースに映るぼくの眩しさに対してだ。
「これ、チェリーの髪色に似合ウと思いマスよ!☆↓ オヤ、コチラも…――! …――?」
彼が次々と指をさすたびに、ぼくの中の疑っていた部分が、どこか沈んでいく気がする。
こいつは何も考えていないように見える――。いや、まあ実際何も考えていないんだろうな。と、数店舗まわったところで思い始めてきた。
何かを欲しがる素振りもない。演じている風でもない。こいつは、ただ、素がおかしいんだろう。
「……ぼくは、この宝石の方が自分自身似合っていると思います。」
ぼくに釣り合ってはいないが。まぁ、及第点と言ったところだろう。
トイ・ベルはぼくの言葉を聞くや否や、目をさらに輝かせて、「おォ~!」と、妙なテンションで声を上げた。
「さすガチェリー!☆ 自分の似合ウものも分かッてマスネ~!☆☆←↑」
その言葉に、ぼくは小さく肩をすくめるだけで返事をしなかった。
別に褒められるために言ったわけじゃない。そもそも、そんな軽薄な言葉を素直に受け取るほど、ぼくの感性は単純ではないつもりだ。
それでも、トイ・ベルは飽きる様子もなく、今度はぼくが見ていた宝石の隣に並んでいる、別のアクセサリーに視線を移した。
金細工の、繊細なデザインのブレスレットが、ケース越しに、控えめな輝きを放っている。
「コレなんかモ素敵デスヨ!☆☆↑← チェリー、つけテみてはドウでスか?☆」
彼が無邪気に提案するたび、ぼくの疲労感と、少しばかりの好奇心が、綯い交ぜになっていく。
ぼくみたいな気位の高い人間、利益でいえば、絶対的に、利用したほうがためになるのだ。なにかにこじつけて、対価をせがんだ方が、絶対にいいに決まってる。
仕事まで放棄してこんなことをするなんて、慈善活動をする善人にでもなったつもりか? ――いや、それはきっと、違うんだろう――もしそうなら、こんな行為って、なんだか、まるで、馬鹿のすることじゃないか。
「……仕方ないですね。」
――馬鹿なやつ。
「――どこまで歩かせる気だよ?」
「もうスグですヨ〜☆↓←」
あれからまた暫く時が流れて、トイ・ベルが「紹介したい」と言っていた店舗はすべて行きつくしてしまった。
この男――トイに敬語を使うのは、もう、やめた。利益も何も求めてきていないともう分かっているやつに、わざわざ媚びるみたいな口調で話すというのは、なんだか腹が立つし、馬鹿馬鹿しくさえ思うからである。
何店舗まわって、敬語で話すのをやめたのか、何店舗まわって、彼を呼び捨てで呼びはじめたのか――そんなことは、もう過ぎ去ってしまったことなのだから、あまり覚えていないし、きっと、今後覚えておく意味もないだろう。
もう、ここで解散なのか。戻ったときのことが思いやられる。きっと、ひどく叱られて、パフォーマンスで築き上げてきた信用も、一気に落ちてしまうだろうな――。
そんなことを考えていたら、この男が、「デスが!☆ 実はもうひとつ、チェリーに見せタイ場所があルノです!☆☆↑→」と、いつもと同様のテンションで言ってのけるものだから、仕方なくついていって、今、ここまで来たという形だ。
西日のさした、茜空。
懐かしいようなガーデンアーチをくぐると、そこに在るは、白き天蓋のガゼボにつづく、整えられた道に、広々と咲き誇る、紅、ただそのすがた一色の薔薇――そのなかに、風が静かに流れるたび、花びらが微かに震え、甘く濃密な香りが辺りを包み込んだ。
その景色を見て、ふわりと、懐かしい匂いが香る。
以前――それは確か、齢七の頃の、もう記憶の中でさえも、朧げに存在させることしかできていないものであるが、このような場所を、お母様とお父様に連れられて、ともに訪ねたような気がする。
この国では有名な観光名所なのだから、ここに偶然辿りつく奇跡も当然あるだろう――しかし、なんとも偶然というのはあるものである。
「ここは有名な庭園ナんデスよ〜!!☆☆↑↓ ステキな場所デしょウ?☆ チェリーもイギリスの生まレなら一度は来テてもオカシクない場所デスね!!☆☆→↓ それグラい! スバラシイ場所デス!!!☆☆☆↑→」
「……ああ、ここにはぼくも昔来たことがある。昔と全く変わっていないな。」
「やはリお目が高イですネ〜!☆→↑ この庭園はトッテモ美しい場所なンですヨ〜☆☆↓特にこの薔薇ハこの時期にしか咲かず……――」
トイが、べらべらとまた戯言を話し始めたあたりから、ぼくはそれにすっかり興味を失って、そのまま、薔薇のもとへと歩いていく(話の途中で勝手に歩き出すぼくに面喰らわずに、ただ隣についてくるトイもそえて)。
相変わらず、美しい庭園だ。
だけれど、当時は花の匂いだか、この景色の耽美さだかを、あまり理解していなかったし、それに、当時のぼくは、景色の美しさを堪能するというよりは、思い思いにはしゃげて走り回る自由ある行為に意味をもっていたものだから、昔のぼくは、この景色の価値をよく見出せていなかったのだと思う。
懐かしさに想いを馳せながら、トイの口が小休止を挟むように止まったあたりで、ぼくは割り込ませるように言葉をこぼした。
「お母様とお父様……両親と昔ここに来た時」
「ハイ!☆」
トイは、ぼくが口を開くと、自分の話を止めてすぐに返事をして(多分、それがしたかっただけである)、ぼくの次の言葉を大人しく待つ。
「あっちで、眺めのいい場所を見つけたんだ。今はどうなってるか分からないけど、案内してあげるから来い。」
「ワオ!!☆☆← チェリーがアタクシに案内しテくれるノデスか??☆☆↓↓ ナント!☆ スバラシイでス!!☆☆→↑ イヤァ楽しみデスネェ☆☆↑←」
わざとらしい言葉選びも、数時間それを聞かされ続けてしまったのでは、もう、疾うに慣れた。
「こっちだ。」
肯定的な意見を聞くと(まあ、肯定されなくたってぼくは行くつもりでいたが)、ぼくは、行く方向を手のひらで指しながら、体をそちらに向けて、また再び踏み出した。
足元に広がる砂利道は、踏む度に微かな音を立て、僕たちを庭園の奥へと誘い出す。それは、見覚えのある景色――きっと、この先の景色も、ぼくは知っている。
茜の木漏れ日が道を差し、光と影のコントラストを、美しくつくりあげている。道に続く階段を、コツ、コツ、と、木製独特の音を鳴らし、時たま、整えられている辺りの茂みを横目にしてみたりしながら登って、すこしばかり鬱蒼としたこの道を突き抜けようと、ゆっくり、歩を進めていくのだ。
階段を登り終えた先に、高貴な純白のタイルが大きく広がっているのを目にして、この先だ、とトイに話しかけると、彼の一を十にして返す言葉に、耳をやんわり傾けながら、視界が開ける感覚を覚えた。
「――着い、た。」
トイが隣にいることを確認すれば、そのように口を開けて、だけれどその空を見ると、はっ、と一瞬、息が止まった。
太陽が、木々にいづる。いままで昼というものが、たしかにそこにあったことを示すように――そして、これから月光が地に降るであろうことを示すように――この大空は、ペリウィンクルとタンジェリンを、美しく映しだしていた。
きっと昔も、ぼくは、ここからの眺めが好きだった。だけれど、こうも、この景色は美しく見えるものなのか。
色あせたキャンバスを、美しい色で塗り替えるように、今、ぼくの中の記憶は、鮮明な美麗さで上書きされたのであった。
隣のあいつは、この景色を見て、どう思っているのだろう。今日一日中そうであったように、また、大袈裟に感想を伝えてくるのであろうか。
「おぉ…なんと! スバラシイデス!!☆☆ いやはやこのような景色があるトハ!!!☆☆☆→→」
――ああ、やはり。
「ついみとれてしまいマスね!!☆↓↑ ずっと見ていたいグラいデス!!!☆☆☆↑→」
「当たり前だろ、ぼくも良いと思ってるんだ」
その斜陽に見入ったかのように、ぼくは、うっそりそう言って、金属製のフェンスに手をかけた。
ぼくはそんな感傷的な人間ではないけれど、それでも、夕焼けは、どうにもノスタルジーな気分にぼくを陥らせる。
今日は、なんだか歩きっぱなしだったけれど、それでも、休息ができた気がする。こいつに言うのもなんだか腹立たしいから、言ってはやらないが。
なんの利益も必要としていないということに気付いて、早数時間が経つ。「いや、まさか、まだ化けの皮が剥がれていないだけだ」だとか、考えた時もあったけれど、それでもやっぱり、このトイっていう奴は、いつまで経っても、ぼくの望んだ本性をさらけ出してはくれないのである。
こんな気分なんだから、いっそ、この気にのせて、聞いてしまおうか――。
「…なあ」
「なんデショう!!☆↑↓」
「なんで、今日、ぼくをここまで連れ回したんだよ。別に、ぼくの調子が悪くたって、放っておけばおまえも面倒事を被らずに済んだだろ。」
後ろのあいつが、今、どんな顔をしているのかは分からない。解答を、その晩照を眺めながら待つ――。
んん、という悩む声が、いち――に――さん――数秒ほど聞こえて、そのあと、はっ、と息が漏れるような音がすると――タ、ブーツがタイルを駆ける音が迫り。
「アタクシは皆サマに笑顔で居て欲しイのデス!!☆☆←↓ それはもう、一分や一秒でも長ク!☆ 最近のチェリーは素敵な笑顔が見らレまセン!☆↓ アタクシはアナタの笑顔が見たいノデス!☆」
――なんて、自己中心的で、身勝手なんだろう。自分勝手に、こうやって、今日みたいにむやみに人を巻き込んで、ほかの損害なんて、まるで一切考える素振りもない。
今日のショーのことなんて、再度問いただせば、また、どうでもいいのだとか、彼はきっと、そんな突飛な物事を彼は平気で言えてしまうのだろう。
トイは、ただ自分のしたいようにするのみであると言うように、ぼくの隣に立ち、手をこれでもかと言うほどに大きく広げて、いつものような笑顔で、そうやって、軽々しく言ってのけるのだ。
「……なんだよ、それ……。」
口からこぼれた微笑は、果たして、呆れから来るものなのか、それとも、嬉しさから来るものなのか――正解は、わからない。
だけど、そんなことも、今はどうだっていい。
声に含まれた笑みが、きっと、嘲笑ではないことだけを知っていれば、それでいい。
これだけを理解していれば、自分の心情にもう一度と訊くなんて行為は、もはや野暮なものである。
「――本当に、おかしい奴。」
「光栄です。」
夕焼けの中――それだけ言うと、彼は、口で弧を描いて、笑んだ。
「――デハそろそろ戻りまショウ!!☆☆←↑ 暗くなリソウでスからネ!!☆☆ アタクシとしては、チェリーが望ムならまだまだ紹介したイ店がアりますので紹介致しマスヨ!!!☆☆☆→←」
「いや、望んでないからいい。早く戻るぞ。」
「ハイ!☆」
来た道をたどり、はじめに来た当初とはまた違った景色の感情にじんわりと浸りながら、ガーデンアーチを、また、くぐっていく。
今日は、いつも通りとは到底言えない一日であった。だけど、それでよかった――それがよかったのだと思う。少しばかりは、感謝してやってもいい。
だけれど、連れ回されて若干身体が疲れたから、ガーデンアーチをくぐり抜けた途端に来る現実的なむなしさと思考を、こいつにもすこし押し付けてしまおうか。
「そういえば、おまえも仕事があるのに放って遊びにかまけていただろ。大丈夫なのか?」
「イエ!!☆↑ ひとつも大丈夫デハございまセン!!☆☆→↑ 帰ったら二人一緒にお説教ですネ〜〜☆☆←→」
「――本当に……無鉄砲でどうしようもない奴だな。」