【飯P】インクが尽きるまで 悟飯が差し出したのは、一本の万年筆だった。一目でそれと分かる立派なもので、濃い紫の軸に、金であろうペン先がよく映えている。
「これ、受け取ってください。昔、初任給で買って……ずっと使ってたんですけど」
初夏の陽は暮れかけて、窓の外には、気の早いひぐらしの声が響いていた。
「あまり書き物はしないが……」
「僕が死んだあと、僕のこと、思い出したら書いてほしいんです。花を見て、雨が降って、海へ行って、何かの拍子に思い出したら……一緒にこんなことしたとか、言っていたとか……僕がどれほど、ピッコロさんのこと、好きだったか」
悟飯の提案に、思わず動揺を露にしてしまう。いつか向き合うべきなのに、先延ばしにしてきた問題だった。悟飯は先に死出の旅へ踏み出し、おれは現世へ残される。
「わざわざ書き付けなくても、忘れない」
「でも、僕らの寿命の違いって、何百年もあるでしょう? 十年経って五十年経って百年経ったら、記憶は薄れます。書くことで、僕を生かしておいてください」
尚も手を差し出すので、仕方なく複雑な思いで受け取る。万年筆は見た目よりもずっしりと重く、よくあらためれば、愛用していたというだけあって細かな傷や擦れもあった。
「……いつか、別な人を愛したり、僕のことを覚えているのが辛くなったら、この万年筆も書き付けたものも、海にでも捨ててください」
「そんなこと、するものか」
「賭けてもいいですよ、いつか手放したくなります」
悟飯は得意気に胸を張る。おれのことなら何でも分かるというような、いつもの不敵な笑顔だ。
「僕が賭けに勝ったら……僕が勝つ時は、ピッコロさんは僕のこと忘れたくなってるんだから、何ももらえませんね。ピッコロさんが勝った時だけ、何か……」
人を薄情者のように言う悟飯に苛立って、おれは握りこんだ万年筆を悟飯に突きつけた。窓から差し込む夕陽が、万年筆のクリップに目映く宿っている。眩しさに目を閉じた悟飯に乱暴に言い放つ。
「だったら、おれが勝ったら生まれ直して来い。もう一度鍛え直してやる、その弱気な精神も含めてな」
「……愛用品をプレゼントした弟子に言う言葉? 厳しいな、僕のお師匠様は……まぁ、いいですよ約束します。でも僕が勝ちますよ、絶対」
悟飯は既に勝ち誇って笑い、万年筆ごとおれの手を押し返した。そんな賭け、はじめから結果が見えている。どれほど時間が経とうとも、悟飯を忘れたりしないし、この万年筆を捨てたくなるわけもない。
「きっと手放したくなる時が来ます。その時、僕がいま言ったことを思い出してね。それまでは覚えていてほしいけど、あなたの邪魔は、したくないから」
まだ真夏になりきれていない夕陽は鋭く、はねた黒髪に踊っている。手の中にある万年筆は、金属で作られているのに、不思議とあたたかみが感じられた。
「……だけど、僕が死ぬまでは僕のこと、ずっと見ててくれなきゃだめですよ」
おどけて言って、悟飯はおれの腕を引いた。戯れのごとく唇が重ねられ、抱き寄せる身体は力強い。懐かしい鼓動と、聞き慣れた呼吸。いつかこれが消えてしまうなど、今は想像すらできなかった。
あれから十年経ち、五十年経ち、百年経ち、二百年経ち……数えるのが億劫なほどの年月が過ぎた。あいつの言葉や、共に過ごした記憶を書き付けた帖面は、何冊になったか分からない。
悟飯が天寿を全うし、一頁目に書き付けたのは、「賭けてもいい」と自信たっぷりな笑顔で言った悟飯の様子だった。
手放したく、忘れたくなったことなど、やはり一度たりともなかった。
「賭けはおれの勝ちだったな……なのに」
いつになったら、賭物を受け取れるのだろう。約束すると、言ったじゃないか。
何を見ても、どこへ行っても悟飯が思い出され、書くことはいくらでもあった。そのたびこの万年筆をインクに浸した。インクの代わりに悟飯の記憶が詰まっているようで、捨てずに積んだインクの空瓶は、あと一つで壁全体を覆い尽くしてしまう。
――最期の言葉が、なんだったか。こんなことまで書き付けたのに、お前はまだ約束を果たさないのか? インクの空瓶が壁を覆い尽くしてはじめて、おれが賭けに勝ったと証明されて、その時こそ……もはや、こんな夢想に縋ることしかできないおれは、今夜も文机へ向かう。
万年筆のペン先は磨り減り、何度も何度も修復したため、譲り受けた時と同じ金属は残っていないかもしれない。軸の紫色はすっかり褪せて、ほとんど黒にしか見えなかった。
今日聞いたひぐらしの声からは、あの日聞いた声も、荒野の片隅の木立で聞いた声も、死別が訪れるまでの何十年で、何百回も共に聞いたどの声も思い出され、どれを書き付けるべきか迷った。