【飯P】深夜文具 Moonlit 大学の研究室を出たのは、いつもよりずいぶん遅い時間だった。扉のホワイトボードにある『孫悟飯』のマグネットを、『在室』から『帰宅』へ移す。
夜風を受けて歩きながら、僕はレポートの未完成部分を思い浮かべる。資料は揃っているのに、どうにも文章が流れない。こういう時は、机に積んだノートやペンを取り替えて、気分を変えるのが一番いい。
路地裏の小さな店、ひっそりと壁に照らされる看板……少し前から、気になっていた。古びて黒ずんだ木の板に『文具』とだけ彫られ、店名や営業時間の提示はない。昼間はいつもシャッターが下りているその店は、夜にだけガラス扉から店内を覗くことができた。今日も、深夜のビル街に、やわらかな光が漏れている。
ゆっくりと扉を押すと、真鍮のドアベルから角のない音が響いた。
店内は、静謐そのものだった。壁一面の棚には、整然と文具が並んでいる。上の方のものを取るために、スライドできる梯子が設置してあった。横にはAからN、縦には1から9と番号が振られており、古い図書館のような、不思議な秩序を感じさせる。
店を左右に区切るように、長机が真ん中に置かれていた。鉢植えの植物が飾られ、印鑑ケースや写真立て、筆箱にペンスタンドと、少し大きさのある商品が並んでいる。どれも、あまり派手ではなく、落ち着いた佇まいだ。
……インクは、どうやら壁の棚のようだ。壁全体が棚でとても広いため、探すのに少し難儀するかもしれない。
入り口から奥へ縦に長く伸びる店の、一番向こうに、会計らしきカウンターと、淡い青に照らされた大きな水槽があった。美しく整えられた水草たちと、無造作なようで計算し尽くされた配置の流木……アクアリウムと、いうやつだろう。青と緑の間に、小さな魚たちが夢のようにひらめき、店内の静けさの中に、濾過の際に起きるかすかな水音が混じっている。
「……インクなら、B7だ」
急に声をかけられ、目を凝らす。カウンターの奥、分厚い本を片手に、店主がこちらを見ていた。座っていても分かる長身に、澄んだ若葉色の膚……淡いストライプのシャツがどこか、時間の流れから切り離されたような印象だ。
「え、あの……僕、口に出てました?」
「いいや。だが、インクだろう? 顔を見れば分かる」
淡々とそう言って、店主はまた視線を本に戻す。俯いた面立ちは、やや取っつきにくそうにも見えた。切れ長の瞳の、白目ばかりが無闇と際立つ。
僕の欲しい色、藍のボトルインクは、確かにB7の棚に並んでいた。顔を見れば分かる……いまひとつ納得のいかない気持で、瓶を手に取る。ガラス越しのインクは、ラベルを見ようと傾けるたび、切り取られた深海のように濃く揺れた。光の下に翳すと、昏い藍の中にちらちらと銀の糸が走る。
「きれいだな……」
思わずこぼれた声は、思った以上に大きく響いた。行き詰まったレポートで暗澹と濁っていた心が、インクの美しさに晴れていく。早く、このインクで書いてみたい。新しいインクで、新しい視点へ切り替えて。
「良いですね、このインク……文字にしたらきっと、夜空みたいな色だ」
店主を振り返ると、無言のまま本を閉じて、そっとカウンターに置く。水槽の青が瞳に映り込み、妙に神秘的に輝いている。揺れる水草の緑よりも瑞々しい膚の色も、青い光を受けて、なんとも現実感がない。
「……夜に書く奴には、夜の色が合う」
店主は静かに、けれど僕を知っているかのような声音で言った。その口元に鋭い牙が覗くのを見て、僕は急に鼓動が早くなる。造作は攻撃的なのに、滑らかに濡れた白……あの表面に触れてみたら、一体どんな感じだろうか。温かいのか、冷たいのか……きっと、手の甲に吐息が触れるはずだ。
会計のために店の奥へ進むと、突然の人影に驚いたのか、魚たちが水草の間へ舞い込んだ。レジはなく、店主が古びた算盤を弾く。指の長い、若葉色の美しい手……。
「あの……お店、昼は開いてないんですか?」
「夜だけだ。日が暮れてから、昇るまで」
「また来ても、いいですか?」
釣り銭を差し出す手に、墨色の爪が、水槽の照明を受けて艶やかにひかる。座ったまま僕の顔を見上げて、一枚のカードを渡してくれた。紺青のカードには天の川が箔押しされ、たった二行だけ文字がある。
深夜文具 Moonlit
店主 ピッコロ
電話番号も、営業時間も書かれていない、あまり意味のない名刺……。
「客に、来るなと言うわけがないだろう?」
「よかった! また来ますね……えっと……ピッコロさん」
小さな紙の袋に入れたインク瓶を差し出しながら、切れ長の瞳がはじめて微笑んだ。
「ああ、夜に来い。お前が求めるものが、きっとある」
やわらかい微笑から目を逸らせぬまま、僕は差し出された紙袋を受け取る。袋の中で、瓶に閉じ込めた深夜の海は、僕の心と同じくらい波立っているのだろうと想像された。