【飯P空P】りんごの庭と鳴けぬ鳥/06.もず 遠くで、甲高い声がした。鋭い金属音のような鳴き声……もずだ。
その名を思い出すまでに、ほんの少し時間がかかった。柿の葉はもうすっかり落ちて、細い枝先に、あの小さな猛禽がとまっているのが見えた。じっと身を膨らませ、風に背を向けている。
「冬は嫌いだなぁ」
背後から聞こえた悟空の声は、「嫌い」と言う割にどこか楽しげで、それでもほんの少し、息が上がっていた。
年末が近付いて、やることはいくらでもあった。流されるようにこの街、この家に腰を落ち着けて、二年になるだろうか。一年も前に書生として家を出て行った悟飯も、今朝は戻ってきている。
古いこの家は、悟空と二人で暮らすには広すぎて、全く使わない場所も多くあった。それでも、年を越すのに何もかもそのままというわけにはいかない。旅暮らしが長く、あまり実感がなかったが……正月とは、そういうものらしい。
糊を煮て、障子を一枚一枚貼り替える。貼り替えてみると、一年の間に障子紙が色褪せていたことがよく分かる。悟飯は、囲炉裏の灰を掃除して、新しい炭へと入れ替えている。迷いのない、慣れた手付きだ。
「ちょっと……休ませてくれ」
柚子湯の準備をしていると、薪を割っていた悟空の声がした。次いで、縁側に腰掛ける気配。妙に深くため息をついている。
なんとなく気になって、湯呑みを両手に近くへ寄ってみる。随分と頬が上気して、息が上がっている。人並み以上に体力のあるこの男が、薪割りくらいで……湯呑みを渡す時、指先が触れてぎょっとした。水にでも浸けていたかのように、冷えきっている。
「手が……」
「ああ、何だか冷えちまって。外にいたからかな」
自分の湯呑みを縁側に置いて、両手で悟空の手を包んだ。ひどく冷たいのに、汗ばんでいる。呼吸も無闇と荒い……。
「お前の手、あったけぇなァ。それに、柚子の匂い……年末って感じだな」
「ああ……そうか」
無邪気に笑う悟空に、何も尋ねることができない。ただ、やわらかく握り返された手を、あたためようと擦った。無骨で分厚く、力強かったはずの手だ。それが何故、今、これほど頼りなく感じられるのか……。
囲炉裏に続いて火鉢を掃除していた悟飯が、自分の湯呑みを持って縁側に出て来る。
「火鉢に火を入れましたよ」
「そうか、ならちっと暖まらせてもらおう」
入れ替わるように悟空が立ち上がり、火鉢へ向かって行く。縁側に腰掛けた悟飯もそれを見送り、静かに庭を見回した。
もずの鋭い鳴き声が、冬の曇天を切り裂くように響いた。先ほど姿を見かけた柿の木へ目を遣ると、枝先にトカゲが刺されて、乾きかけている。はやにえだ。ただの習性だというのに、今日ばかりはやけに不安を煽られる。
「……ピッコロさん、どうかしました?」
はっと気付くと、悟飯が心配そうに顔を覗き込んできていた。なんでもない、と呟いて慌てて立ち上がり、軒下に吊るしていた干し柿に手をのばす。一つ取って手渡すと、嬉しそうに笑った。
「ありがとう……大体、片付きましたね」
「今夜は泊まるか?」
「いいえ。もう少し、先生のところで仕事があるので……でも、年越しには戻りますよ」
干し柿を齧って笑う横顔は、まるで少年のようだ。寒さに赤くなった頬が、健康的につやめいている。
部屋の中を振り返ると、悟空は火鉢の側に背を丸めて、何事かを考えている様子だった。悟飯もそれを振り返り、すぐに顔を上げる。
「なんか、今日のお父さん、ずいぶん疲れてましたね」
「最近、ずっとそうなんだ。医者へ行けと言ったが、聞かない……悟飯、お前からも言ってくれないか?」
「ふぅん……。本人が行かないって言ってるなら、大丈夫ですよ。元々、丈夫だし。それとも、一度診てもらわないと、ピッコロさんが不安ですか……?」
その問いかけに、その通りだと返したかった。だが。
「……いや。お前がそう言うなら、様子を見る」
不安など表明できる立場だとは、到底思えない。本人も、息子である悟飯も、「大丈夫だ」と笑っているのに、たまたま居着いただけの者が何を言えようか。
自分の言葉が、なんとも空虚に感じられた。本心で話していないからだ。悟飯は再び悟空を振り返り、それからおれの手を引いた。
「炬燵にでも入りましょう。僕、お茶を新しく淹れます」
悟飯が湯を沸かしに行くのを見送って、炬燵に入る。火鉢のそばにいた悟空も膝をついて二、三歩歩き、炬燵に脚を突っ込んだ。
「悟飯が来たから、すぐ終わったなァ」
「……そうだな」
口の中で答えながら、天板から蜜柑を取って、皮を剥く。悟空に渡すと、素直に受け取った。すぐに悟飯が急須を持って座り、湯呑みに緑茶を注ぐ。
「お父さん……ピッコロさんに心配かけないようにね、大人なんだから」
「かけてねェよなぁ」
明るく笑ったかと思うと、炬燵の中で悟空の脚が伸びてきて、膝に載せられた。無作法な振る舞いに一瞬だけむっとするが、膝の上の足が動く感触に、言いかけた文句が引っ込む。爪先が、膝から太腿へ、ゆっくりと這い上がってくる。遠慮を知らぬ足は袷の上前にまで潜り込み、更に身体へ忍び寄る……。
「僕、年末にはまた帰ってくるから」
「なんだ、泊まっていけばいいのに」
悟飯は笑い、蜜柑に手をのばす。若者の指が実の底に突き入れられ、手元を見もせずに皮を剥く。
「そうできるなら、そうしてますよ」
父子が蜜柑を口に放り込む。爪先が下腹部に触れるほど這い上がってきた足の裏が、今度は腿の内側へ滑り降りる。同じ炬燵に、悟飯がいるというのに……身動きできず睨み付けても、悟空は悪戯っぽく笑うだけだった。
悟飯が帰るのを、門で見送った。あめ色に暮れる冬の夕陽が、悟飯の輪郭を淡く彩っている。
金属を引っ掻くような鳴き声が、ごく近くから聞こえた。
「もずですね。はやにえが、どこかにあるかな」
悟飯があたりを見回す。四ツ目垣の、裂けて飛び出した真竹の繊維に、逆さまになったオケラが突き刺さっている。
「大きい虫だと、ちょっと気持ち悪いですねぇ」
「トカゲも刺されていた、さっき」
「そう……。ピッコロさん、お父さんは何でもないと思いますけど、あなたが心配で落ち着かないなら、僕が病院へ引きずって行きますから言って。ただの加齢だと、思いますけどね」
悪戯っぽく笑う顔は、父親にそっくりだ。曖昧に頷いて、門を押して出て行く背中を、見えなくなるまで見送っていた。