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    イヴァティル ミジスア 学パロ

    セファイドの僕たち「学生証の提示をお願いします」
     歌が終わった先に死の待つステージに立つことよりも予想していなかった展開に、まるで他人事のように驚いている。
    「学生証の提示をお願いします」
     数秒遅れて隣のカウンターでなされる全くおなじやりとりだって、私にとっては生死を決める投票よりも滑稽だった。

     六限目の体育でミジが足を挫いた瞬間も、放課後病院に行くと聞いたときも、不安でいっぱいだった胸に、一縷の安堵が差したのは、「ミジと映画」というカレンダーからの通知が届いたときだった。今日の放課後は、ミジが観たがっていた映画に行く予定になっていた。なぜか男子二人も一緒に。
     どういう流れか知らないけれど、ミジとイヴァンがダブルデートと銘打って計画を立て、それぞれの恋人である私とティルが巻き込まれることになった。もし二人きりで映画に行ったとあとから聞かされたら、きっとイヴァンのことを本気で憎んでしまっていただろうから、巻き込んでくれていいのだけれど。
     早速作られたグループチャットは基本的にミジとイヴァンのメッセージで進行し、私と彼は肯定の返事を返す間もなく、とりあえず予定を提示していた。
     気が付けば日取りが決まり、鑑賞後に立ち寄るカフェの候補も複数出ていた。ミジは昨晩電話したときも、今朝どころか昼休みもずっと楽しみにしていたというのに、まさかこんなことになるなんて。
     風邪が流行っているから、万一のことを考えチケットは当日とることにしていたおかげで、この予定はまだ取り消せる。
     というか、ミジがいなくなった時点で無効になるだろう。
     私一人なら、彼らと行動をともにする理由はない。せめても延期だろうと思っていた。
     ミジを励ますためにお菓子を渡そうとどの店に寄るか考えていると、ミジから『三人で行っていいから!』『感想きかせてね!』というメッセージが届いた。四人で予定を合わせるのに苦労したから、ミジなりに気を遣って送ってくれたメッセージなんだろう。
     心苦しいけれど、その気遣いを多少無碍にすることになっても、ここで即座に「延期しよう」と言い出せればよかったのに、イヴァンが先に『分かった。お大事に』なんて返事をするものだから、引っ込みがつかなくなってしまった。
     最悪だ。あの人は前々から、私にちょっかいをかけることを好んでいる節がある。
     私とティル。彼にとって構うのが楽しい二人が揃った機会を逃さない狡猾さに、こめかみの血管が震えるのを感じた。いっそ教室から出たあと階段から落ちて故意に怪我でもしてしまおうかと考える。
     ホームルームが終わると同時に、ティルが教員に呼び出されたときは、頭を抱えそうになった。イヴァンは「先に行ってよっか」と笑って廊下に出る。骨を折ることになってもいいから足を踏み外そうと思っていたけれど、彼が隣を歩くせいでそれも叶わない。私の体が傾いたら、彼はきっと身を呈してでも守ってくるのだろう。そういう役目に酔っていそうだ、これは偏見だけれど。
     昇降口で靴を履き替えていると、ひとりの女子生徒がイヴァンに駆け寄ってきた。話したいことがある、という言葉を聞いた瞬間に校舎から駆け出した。私がいない方がいい、という気遣い以上に、彼から離れるチャンスだと思った。映画館まで一緒に移動する必要はない。
     電車に乗り込み、ようやく深く息を吐き出す。今日は一段と冷えるというのに額が汗ばんでいた。ハンカチで押さえていると、汗以上にじとりとした視線が肌の上をすべるのを感じた。ハンカチをしまうついでにちらりと車内を見渡すと、何人かと視線が絡まりかける。
     こみあげる吐き気から気を逸らすために、文庫本を取り出してページを開いた。文章ではなく、栞を見つめる。ミジが誕生日にくれたもの。目や指先で触れるだけで、呼吸が落ち着く。ミジが隣にいれば、こんな視線気にならないのに。
     ティルが恋人だと公言するイヴァンに想いを告げる子がいるように、他人の感情を自分の都合のいいように押さえつけることなんてできないのだと、当たり前のことを歯がゆく思う。
     ふいに、ティルの顔が思い浮かんだ。そういえばガーデンにいた頃、彼がミジを笑わせるたびに、私はむくれて、ミジを困らせていた。

     電車を降りる前に映画館への道順を確認すると、駅からの連絡通路があるようだった。これならミジも迷わないなと思ったところで、彼女が来ないことを思い出す。
     映画館に着くと、ロビーの空いている席に座った。不本意だけれど、彼らを待つことにした。先にひとりで行動して、それを後でイヴァンの口から意地悪な言葉でミジにバラされたくない。
     開場五分前になってようやく劇場に姿を見せたのは、ティルひとりだった。
     彼は私を見つけると曖昧な足取りで駆け寄ってきては、あたりを見渡してから何も言わず隣に浅く腰掛けた。私とは反対側に身体を寄せて、少しでも距離を取ろうとしている。
     それと同時に、メッセージが届く。
    『ごめん』『家の用事でいけなくなった』
     謝罪している紺色のうさぎのスタンプが続く。イヴァンからだ。
     小学校で習う文字だけで構成されているはずの文章を三十秒以上も理解できず、理解してもなお脳みそがぐにゃりと歪められたように思考がまとまらなかった。
     そもそも予定を合わせるのに苦労したのも、この男が家の都合とやら――会社の跡取り息子として会食に出席しなきゃいけない日が多いからというのが一番の原因だったというのに。
     おそるおそるティルの方を向くと、彼も長い前髪の隙間からこちらを見ていた。
    「どう、……その、今日、このまま解散にしても」
    「私は、ミジが感想を聞きたいっていうから観る」
    「そうか」
    「あなたは、別に……」
    「気になってたし、来ちまったから観るつもり……」
    「そう」
     私は立ち上がり、チケット売り場に向かった。
    「学生一枚ですね」
     私がチケットを買っていると、彼は隣のカウンターの前に立った。良かった。一緒に買うとなったら、どこの席がいいかとか、そんなことを探り合わなければならない。
     もうすぐ開場だというのに、席は全然埋まっていなかった。平日だということを差し引いても、かなりマイナーな映画なのかもしれない。前列で観たかったけれど、何となく彼は前の方の席を選びそうな気がして、一番後ろの列の席を指定した。学生証を提示して、料金を支払い、チケットを受け取る。
     隣に視線をやっても、彼はこちらを見なかった。
     一緒に行動する理由はない。お互い。
     チケットを個別に買った時点でそれは共通認識だろうと言い聞かせて、私は逃げるようにトイレへと向かった。
     手を拭いてから、鏡の前で前髪を直して、リップを塗り直す。ミジに見てもらえないなら外見なんてどうでもいいのだけれど、これからミジに感想を語って聞かせるための映画を観ると思うと、まるで映画を観ている私の姿まで彼女に伝わってしまう気がして、ついしつこく整えてしまう。
     トイレを出てから、一応劇場を見渡してみたけど、彼の姿はどこにもなかった。先に行ったのだろうと安堵して、ポケットに入れたチケットを取り出し、入場ゲートに並んだ。
     座席まで歩いていくと、ひとつあけた隣の席に、彼が座っていた。それなりの音量で予告編が流れ続けているというのに彼はヘッドホンをつけていて、映像にも私にも見向きもしない。イヴァンよりよほど無関心だ、私にも世界にも。
     ありがたいな、と思いながらスカートを押さえつつ席に座ると、彼はようやく私に気付いたようで、小さく跳ね上がる。そんなに驚かなくてもという怪訝を、ミジより素直で大袈裟な反応を可笑しく思う気持ちが上回る。
    「え、あ……俺……」
     私も彼も、望んで近い席を選んだわけじゃない。どちらかといえば遠ざかることを願ってさえいたはずだ。
    「……うしろの席が好きなの?」
    「え? あ、そうなんだ、初めて知った」
    「ああいや、えっと、そういうことじゃなくて」
     私が疑問として投げかけた言葉を、突然の宣誓だと受け取ったらしい。
    「なんとなく、あなたは前の方の席を選ぶ気がしていたから、意外で」
     そう言ってから、感じ悪かったなと気付く。こんなの、避けるためにうしろの席を選んだと言っているのと変わらない。
    「ライブはそうだけど、映画は後ろからの方が全体を観たいから。画面の構図とか」
     そんなこと考えたこともなかった。できるだけ前の席で、観たいものだけを観ていたい、そう思っていた。
     そういえばティルは音楽だけじゃなく、絵も得意だったなと思い出す。
     本人は趣味程度の落書きと言ってしまうけれど、この人の描く絵がそんな言葉におさまらないものであることを知っている。
     半年前、ミジは彼に描いてもらったという肖像画を嬉しそうに見せてきた。それはラフスケッチのような絵だったけれど、悔しいくらいにとっても可愛かった。
     私が人生をひとつ経ても、ふたつめを渡っていようとも、ずっと言葉にすることのできていないミジの好きなところを、この人は鉛筆一本でさらさらと描き表してしまう。
    「俺のこと、軽薄だって思ってる?」
    「え?」
    「…………」
     意味が分からない。軽薄や思慮深いだとか思えるほど、彼のことなんて知らない。私が彼のことを知らないことを、彼も知っていると思っていた。ガーデンでも、高校でも、この人とはずっと関わりがない。ふたりきりで話すなんて、たぶん今日が初めてだ。
     ティルは聞き直してくることなく、ホルダーに置いていたジュースを手に取った。ポップコーンがないことを、ちょっとだけ意外だなと思う。これも、偏見だけれど。
     私もジュースくらい買えばよかったなとほんのすこし後悔しつつ、マフラーとコートをたたむうち、そうだ、と思いつく。ミジにもイヴァンにも尋ねられなかったことを、彼となら話せるかもしれない。
    「あの」
    「えっ、あ、なに」
    「ミジは勝ったの?」
    「え?」
    「どこまで進んだのかなって。ミジが」
    「進んだ?」
    「エイリアン、ステージ……」
     その名前を口にするのははじめてのことかもしれない。今世どころか、前世でも言ったことはない気がする。心臓の底から喉まではするりと昇ってきたくせに、いざ声にすると、口の中に砂を撒かれたようなざらつきが残る。
    「……俺も知らない。ミジは……、」
     ティルは一度言葉を切ると、ストローを噛んだ。薄闇のなかでもみてとれるほどくっきりと浮き出ている喉仏は、微動だにしない。
    「……えっと」
    「俺は、最期に見たのが、ミジの泣いてる顔だった」
    「ミジとあなたも一緒にステージに上がったの?」
    「いや」
    「どういうこと?」
    「どう言ったらいいか……」
     彼はジュースの蓋を爪で引っ掻いた。せわしないまばたきに合わせて、意外と長い睫毛が震えている。
    「決勝で、……」
    「え?」
    「…………」
    「ミジと、あなたが?」
    「だから違うって」
    「…………」
    「イヴァンが死んで、俺が死んで、あとのことは、知らない」
    「ミジは最終ステージに立ったの?」
    「それも違う」
     要領を得ない返答にじれったくなって身を乗り出そうとしたとき、ティルが頭を押さえているのを見て、唇を噛んだ。
     本当は、ミジとふたりですればいい――そうすべき会話だ。
     私はミジに、聞けないでいる。去年卒業した先輩と仲が良かったのも、きっと私が死んだあとになにかあったんだと、気付いているのに。彼女に気安く肩を組むことを許しているミジに不満を抱きつつ、高校生活という青春に興じているフリをずるずると続け、心の隅に押しやっている。
     そんな自己嫌悪の苛立ちを、無関係といっていいティルにぶつけてしまった。
    「ごめんなさい……」
    「いや、俺も悪かった。……ミジがお前に伝えてないことなら、俺が勝手に話したくない」
    「それは」
     話してほしい。どんなことでも。ミジのしたこと、すべて。
     ミジが隠そうとしていることがあるなら、それも私は知ってしまいたい。だけど、知らないままでいてあげることの方が、愛してることになるんだろうか。
    「あなたは、イヴァンと一緒にステージに立った?」
     鼓膜を揺らした呻きのようなものが、ティルの返事だったのか、予告編から流れた音声だったのか、分からない。ただ、彼がまだ髪をぐしゃりと掴んだままでいるのを見て、咄嗟にカバンに入れていたチョコレートを差し出した。
    「……これ」
    「ミジにあげるつもりなんだろ」
     その通りだ。私の持ち歩くお菓子は、すべてミジのために常備しているもの。
    「……うん」
    「あまいもの、苦手なんだ。気持ちだけもらっとく」
    「…………」
    「気ィ遣ってるわけじゃなくて、ほんとに。イヴァンに確認してもらってもいい」
    「……分かった」
    「ありがとな」
     劇場内が一層暗くなった。もうティルの挙動は伺えない。私も息を潜めるように、席に身体を沈ませた。

     映画を観終わると、早く帰りたいという気持ちと、ミジになんて伝えようということで頭がいっぱいで、いつもより駅が混んでいることにも気付かなかった。
     まだ夢から覚めきっていないような気持ちで地下鉄のホームに降り立ったところでようやく、耳慣れないアナウンスに意識を引き戻される。
    「本日、雪の影響により電車が大幅に遅延しています」
     そうなんだ。外の景色がどうなっているかなんて、まるで知らなかった。
     うしろから、どんどんと人が押し寄せてくる。その波に揉まれるまま、四方八方に流される。人に挟まれて浮いているように、自分の足で立っている実感がなかった。
    「スア、悪い」
    「えっ」
     手首に圧迫感を覚えたあと、次いでほのかな熱が伝わってくる。途方もない力にぐいぐいと引っ張られてゆく。ホームの端を漂うだけだった私は、いつのまにかホームドアの前に成された列に溶け込んでいた。
    「…………」
     見上げれば、銀色の光を反射する髪の毛は、思ったより高い位置にある。
    「えっと」
    「乗るぞ」
     滑り込んできた電車に、彼は私を押し込む。既に乗っている人たちに押し返されながらも、手を挙げてなんとかつり革を掴んだ。ホッと息を吐き出せるほどの隙間はなく、浅く呼吸を繰り返していると、彼も隣で吊革を掴んでいて、また「悪ぃ」と呟く。
    「あのままじゃ帰れそうになかったから、勝手に」
    「ううん、ありがとう」
     きっと彼の言うとおりだ。私ひとりなら、あのホームの隅で何十分でも人の波が引くのをただじっと待っていただろう。
     電車はぎこちなく走り始める。人が詰まりすぎていて重量がかかっているせいか、いつもより遅いように感じた。
     車内は不自然なほど静まり返っていて、だけど騒然とした怒りで満たされている。
     それでもミジなら、きっと彼となにか会話をするんだろう。たとえ彼でなくても、誰とだって。
     ティルはもぞもぞと携帯を取り出しなにかを打ち込むと、画面を私に見せてきた。私個人とのメッセージ画面に、吹き出しがひとつ浮かんでいる。
     彼とこれまで個人でのやりとりをしたことはない。することもないと思っていた。
    『映画どう思った』
     画面の向こうにある彼の顔が妙に歪んでいる気がして、もしかして同じ気持ちなのだろうかと、考える。
     腕を動かす隙間すらないなかで、なんとかポケットから携帯を取り出した。そのあいだに彼はもうひとつ、メッセージを送ってきていた。
    『ミジになんて言ったらいいか迷ってる』
    『いい感想は言わないで』
    『俺もそう思った』
     映画は、心温まるようなタイトルやキャッチコピーに反して、貧困のなかで生きる母と娘のストーリーだった。状況は悪化の一途をたどるのみで、きっとミジが観たら落ち込んでしまうだろう。少なくとも、私はそうだった。まだ胸のあたりがじくじくと痛む。心臓をスコップで抉り取られたような気持ちになったし、たぶんその跡は一晩では埋まらない。
     だけど映像は美しかった。構図とか、光の使い方とか、そういうのを知らないまま観たことを後悔したくらい。壮大な自然やきらびやかな宝飾品が映されるわけでもないのに、切り取られた寂れた田舎町の景色に、何度も息をのんだ。
    『悪かったってわけじゃないけど』『でもあんま良いこと言って、イヴァンと二人で行くなんて言い出したら嫌だし』
    『それは本当に嫌』
     私がそう返信した途端、ティルは二の腕に顔を埋めた。頭髪が小刻みに揺れている。同じように震えている指先で、高笑いしているスタンプを送ってきた。
    『それはどっちへの嫉妬?』
     既読の文字はメッセージの横にすぐ立ち並ぶのに、返事はなかなか打ち込まれない。
     不躾かと思いながらも彼の横顔を見上げると、彼は眉間に皺を寄せることなく、ただまっすぐに言葉を探しているようだった。彼のことなんて何も知らないから、私がそういう表情だと思いたいだけかもしれない。
    『違う。嫉妬とかじゃない』『いや そうかも』
     どっちだよ。
    『あいつがミジと仲良いのはなんか悔しい』
    『ミジのことすき?』
    『もちろんミジが笑ってたらうれしい』『けど』
     表情を伺うのが怖くなって、瞼を伏せ、彼の手元だけを見つめる。
    『好きじゃない、とは言えない』『んだけど』
     そこで彼の親指はぴたりと動かなくなった。キーボードの上を彷徨っては立ち止まり、やがて画面には、指の腹ではなく項垂れた額が擦りつけられる。
     それでも私は、もういいよなんて言えずに、ただ彼の言葉を待ち続けた。彼がミジのことをどんな気持ちで見ているのか、彼の言葉で教えてほしかった。イヴァンと付き合っているという事実だけではまだ、満足も納得もできていなかったんだと、自分の気持ちなのに思い知らされる。
    『イヴァンが好きだよ』『ミジと比べてってことじゃなくて』『軽薄だって思うか俺のこと』
     さっき言われたときは分からなかったけれど、そういうことかと今になって気付く。
    『別に』
    『じゃあどう思ってる』
     今度は私が指を止める番だった。どうとも思っていない、と返そうとしたけれど、たぶんそれは違う。
    『気を悪くしないでほしい』『きっと上手く言えない』『ちょっと待って』
     彼の方に首を傾けて確認をとると、彼は少し唇を尖らせたまま、頷いた。
     ひとつずつ文字を打ち込んでいく。大して長くもない文章を、何度も何度も直して。これが紙なら、黒くくすんでぐしゃぐしゃになっている。だけど結局、できあがったものはとても短くて。
     さっき彼に、言葉にすることを強要してしまったのを、今になって申し訳なく思った。気を悪くしないでほしいなんて、ずるい予防線を先に張ってしまったことも。
    『前は少し怖いと思ってた』『ミジとずっと一緒にいたかったから、もしかしたらあなたがいつか壊してしまうんじゃないかって』
     ティルはまだ私の言葉を待ってる。待ってくれている。もう終わりなのか、まだ言いたいことがあるのか、自分でももうよく分からない。
     ちょうど、電車が停まった。扉が開くと同時に、ティルの前に座っていた人が降りていく。ティルは視線で、座れと促してきた。気を抜けば膝が曲がりそうなほど人がギュウギュウに詰まった車内では、誰もが血眼で空席を切望している。遠慮して変な間ができれば周りからどんな目で見られるか分からなくて、大人しく座ることにした。
    「ありがとう」
     顔を上げて彼の目を見ながら、小さく会釈する。彼は唇をきゅっと持ち上げ、笑みには満たない表情で頷いた。画面ではギターを弾いているキャラクターのスタンプが送られてきている。
     また何度かメッセージを打ち込んでみたものの、送る前にすべて消してしまった。自分から待ってほしいと言っておきながら、もう言葉が出てこなかった。
     ガーデンを卒業する前、イヴァンに言われたことを思い出す。
    『ひどいこと言った』『イヴァンにも身勝手だって言われたし、そうなんだと思う』『ごめんなさい』
    「は?」
     ポンと響いた声が彼のものだと気付くのに、数秒かかった。彼は口をぽっかりと開け、瞬きをしてから、視線を上げて、直接私の目を見た。
    「……まじで?」
     私が頷くと、彼は舌打ちをした。
     ティルの隣に立つ男性が、彼のことを睨む。傍から見たら、私たちはどう見えてるんだろう。
     彼は低く掠れた声が混ざるほど大きくため息をつきながら、荒々しく画面を叩いた。
    『それは殴っていい』『明日俺が羽交い締めにしてやるから』
     想定外の言葉に、吹き出してしまった。口を押さえるけれど、僅かな息が指の隙間から漏れてしまう。手の甲に唇を押し当てて、喉奥を鳴らす声が引くのを待ってから、返事をする。
    『いいよ』
    『それどっち』
    『しなくていい。殴るの、痛そうだから』
    『じゃあなんか奢らせろ』
    『それむしろ喜びそう』
    『そうかも』
     私の偏見でしかないなと思ったのに。ティルが肯定したことに、また口元を覆った。
    『そういえば』『ポップコーン、食べると思ってた』
     つい送ってしまった言葉に、彼はやはり眉を顰めた。やってしまったと、ひなたに踏み出しかけていた心が、また影の中に引っ込む。気を緩めすぎてしまった。座席も、イヴァンに対する怒りの共有も、私が与えてもらっただけだというのに。
    『俺が?』
    『うん』『勝手に、ごめん』
    『いや』『よく言われる』『あんま食えねーんだ 恥ずかしいけど』
     よく言われる、って。ポップコーン食べそうってことかな。量を食べそうってことかな。どっちにしても、ちょっとおもしろい。
    『そうなんだ』
     会話が途切れたところで、疲れきった声のアナウンスが次の到着駅を告げた。
    『次で降りるから』『席譲ってくれてありがとう』
     電車が停まるのと同時に腰を上げると、ティルも一緒にドアをくぐった。最寄り駅が一緒だったなんて、知らなかった。
     電車を降りると、本当に雪が降っていた。人間の体温と匂いが混ざり合って息苦しかった車内からようやく這い出ることができたというのに、寒さで内臓まで凍り付いたみたいな、別の息苦しさに包まれる。
     改札を抜ければ彼はマフラーを引き上げ、目元まで顔を埋めた。両手をダウンのポケットに突っ込んで、肩を震わせている。
    「一応聞くけど、送っていくか。気は遣わなくていい」
    「ううん、すぐそこだから大丈夫。気を遣ってるわけじゃない」
     自分の言葉に驚いてしまったのを、マフラーを巻き直すフリで誤魔化した。いらない、とだけ言えばよかったのに。今までだったら、そうしただろうに。
     すでに冷えてしまった耳をマフラーで覆い直し、なんとなく会釈をした。
    「んじゃ」
     彼は赤い鼻をすすりながら、ぶっきらぼうに片手を上げる。
    「また明日、ティル」
     彼の名前を口にしたのは、前世でも今世でもこれがはじめてかもしれない。

     次の日の朝、視界の端に彼を捉えて顔を上げたとき、私は既に電車に揺られて三駅を過ぎていた。
    「え」
    「あ」
     昨日、同じ駅で降りたはずなのに。
    「どういうこと」
     思わず声を出して尋ねてしまった。少なくない数の視線が、彼に集まってしまう。
     ティルは違う車両に移動しようとしていた足を止め、頬を掻きながら諦めたように私の前に立った。
    「俺の隣にいたオッサンが、ずっとスアのこと見てたんだよ。しかも同じ駅で降りたから……」
     庇おうとしてくれたことはうれしいし、ありがたい。私に言わなかったのも、怖がらせないためだったんだろう。だけど。
     これみよがしに携帯を取り出した。読んでいた本を栞も挟まずに閉じてしまったと気付いたのは、メッセージを送ったあとだった。
    『やっぱりイヴァンじゃなくてあなたのこと殴らせて』
     イヴァンの言葉に踏み荒らされた跡は、まだずっと心に残ったまま。だけど、恨み続けるほどの気持ちもない。
     でも今、ティルとはもう少し気を遣わない間柄でありたいと思っている。昨日のたった数時間だけで、単純にも、彼を信じてみてもいいのかもしれないと淡い期待が芽生え始めている。まだとても好意には程遠い、粉雪にも埋もれてしまいそうな小さな芽だけれど。
     ティルは何かを察したように携帯を取り出した。そして驚いた顔で私を見つめて、慌てて首を横に振る。
    「なんでだよ……」
     前髪のかきあげられた彼の顔には、昨日よりも笑みに近いものが浮かんでいる気がした。
     ミジがこの人を気にしていたのも、イヴァンが変わらずこの人を好きなのも、今なら少しだけわかる気がして、綻んでしまった口元を携帯でそっと隠した。
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