ブラックホールのあかぎれ 物心ついたとき、まずはじめに得たものは失望だった。もう望みなんて持っていないつもりだったのに、まだ喪失感を覚える自分に驚いた。
自分を引き取りに来た女性の顔が、オンシャの妻と同じ顔をしていたのだ。そして彼女の隣に座る男は、人間の形をしているものの、面影も声もオンシャそっくりだった。
歳が二桁になった誕生日に、施設にいたたくさんの子どものなかから俺を選んだ理由を尋ねた。
夫妻は子宝には恵まれなかったから、会社を継ぐ跡取りを見繕いにいくつもの施設を回っていたようで、幼いながらに規則正しく生活し、勉学や運動に対して集中して取り組むことができ結果も残している上に、盗癖があり多少素行に難のある点が、希望の条件に全て合致したという。後者の行為が施設で働いていた人たちにバレていたのは落ち度だったなと歯の裏まで出かかった舌打ちを飲み込んで、なぜそこが評価されたのかと次いで尋ねれば、オンシャは「会社経営は一筋縄ではいかない」とワイングラスを回した。彼がビジネスの場以外で笑っているのを見たのはそれがはじめてだった。
妻――俺にとっての養母が皿洗いに立つと、オンシャは顔を近づけてきた。
不妊治療で疲弊した彼女へ、バレンタインに変わり種の贈り物をあげたかったのだと、潜めた声で告げられる。跡取り用の養子は別に迎えるつもりだったが、俺の容姿と行動がちょうど愛でるための息子と跡取りの息子のどちらも兼用できる水準に達していたから、養子は一人で済んだのだ、と。
オンシャは片方だけ口の端を吊り上げると、俺の唇にグラスを押し当ててきた。明らかに間違っていることだと分かっていつつも、仕方がないので傾けられるがまま飲み干した。一筋、顎を伝って零れたものを、デザートを運びに来たオンシャの妻にバレないよう拭った。
その話を聞いて以降俺は、チョコレートを見ると同情の念が沸くし、食べる前に指先が震えてしまう。愛しい者への贈り物。美しく上質でさえあればよく、即座に消費される物。季節を問わず存在しているものの、一時期にだけ異様にもてはやされて、その旬は短い。
オンシャは俺に対し、一般的な親がするように愛のようなものを与えてくれることはないけれど、食うに困ることがないどころか他の家庭と比べても潤沢すぎるほどに金や物を与えてくれる。オンシャの妻も、気まぐれに俺の顔を見つめたり撫でたりといったじゃれ合いをしてくることがあるけれど、基本的に不干渉でいてくれる。人生が変わっても親の愛というものを知ることはなく、家のなかでの立ち位置も相変わらずペットに近かったが、会社を継ぐことが決まっている以上、とりあえずステージの上で殺されるようなことはなさそうだった。
成績に対する要求の厳しさは変わらないけれど、あの頃と違い、勉強と体作りと、適度な運動だけでいいらしい。音楽をやらなくてよくなってはじめて、俺は自分が音楽を好きだったことに気付いた。皮肉なことだった。もっと早く気付いていたら、あの世界でティルと仲良くできたかもしれないのに。
ページを捲れば先週習ったところに差し掛かった。人間の細胞は一日に一兆個以上も分裂や死亡を繰り返しているらしいが、運命の新陳代謝はそう早くないらしい。おかげでまたティルと出会えたんだけど。
「あなたは神を信じていますか」
この世界の神様はメトロノームを模した形をしていない。もしかしたらそんな神様もいるのかもしれないけれど、今のところ見たことはない。俺が生まれた国は、様々な人間が様々な神を信仰していて、アナクトのように信仰する対象を定められてはいない。
ティル同様、高校に入ってミジやスアにも再会したけれど、誰もなにも覚えていないから、一切は俺が見ていた夢なんじゃないかと思うことがある。試しにアナクトやセゲインという語を検索してみたけれど、それをハンドルネームとしているSNSアカウントがヒットするだけで、そのどれもが造語であり、単語としての意味すら持っていなかった。あの星はいまもどこかに存在しているんだろうか。それとも消滅したんだろうか。
「あなたはいま幸せでしょうか」
またページを捲れば、今日の授業で習った単元に到達した。タンパク質とアミノ酸の話だ。
コラーゲンは肌に塗っても意味がないのだと、ほとんど怒鳴り声で力説していた教師の剣幕の方が、授業よりよっぽど印象に残っている。医薬部外品は別として、化粧品は真皮には届かない、届かせてはいけないと法律で決まっているらしい。だから美容なんて無意味、そんなものに力を入れる前にまず勉学に励めと、そんな、テストに出ない語りばかりが思い出される。あの先生、婚約指輪まで買ったのに彼女にフラれたらしいよ、そんな噂の囁き声で授業後の教室は満たされていた。
化粧品の開発だって研究者が関わっているんだから、無意味なわけないのに。自暴自棄になったのであろう教師の言動に呆れたものの、俺の最期も他の誰かからみればあんな感じだったのかもしれない。
俺の養母がそうであるように、あの教師の彼女だった人も毎日丁寧に顔や手に化粧水やクリームを擦り込んでいたのだろうか。養母に関しては、その成果なのか同年代の人間と比べて明らかに皺が少ない。
反して、さっきから俺の目の前で十五分以上も滔々と語り続けているこの人は、きっと養母より十以上も若い、下手をすれば俺の方が年齢が近いのだろうが、ひどく老け込んで見える。
まなざしは稚児のように幼いのに、目の周りや口角に刻まれた細かい皺が、彼女の年齢を必要以上に重ねて見せている。
「大丈夫ですよ、かならず幸せになれますから」
話し続けるだけだったその人は、ついに俺の手の甲にかさついた手のひらを触れ合わせてきた。そのせいで、復習のために開いていた生物の教科書が閉じられる。
世界は終わりを迎えることが決まっているから、神様である先生とやらを信じて次の幸せのために耐えましょう、とかなんとか。
ゆくすえを知りながらも研鑽を積んで、ステージの上で娯楽として呆気なく殺された経験が俺にあることを、この人は知らない。
世界が終わらなくとも、人間はいつか死ぬ。それが何年後だろうと、何秒後だろうと、幸せを諦めたりなんてできないのをよく思い知っている。
諦めたふりを何度も重ねて、積もった矛盾はどれだけ喉の内側が傷つこうとも飲み込んで、日々をやり過ごして。結局、飲み込み続けたつもりのそれらがすべて逆流してきて、最期の一分すらやり過ごせずに、自分でもわけが分からなくなってしまった。
「ええ、ええ、よく分かっています。不安でしょうけど、それも一緒に分かち合いましょう。そして幸せになりましょうね!」
その人の声に、フォークで皿をひっかいた時のような、耳障りな甲高い音が混ざり始める。そろそろ通報する素振りでも見せようかなとポケットに触れたところで、後ろから現れた女性が、「すみませんね」と笑って、その人の肩を抱き、引き摺るように連れ去っていく。
「もう! 話し方があるでしょう。何度も教えてますけど、あなたのやり方じゃ聞いてもらえないんですよ。はあ、あんな若いイケメン引き込めたら私も先生もみーんな大喜びだったのに」
「神への信仰を前に、どんな方であるかは関係ないわ」
「これだからあなたと組まされるのは嫌なのよ」
「ねぇ、あなた! 必ず先生の所へいらっしゃってくださいな! そして今度こそ、今度こそ幸せになりましょうね!」
まだすべての会話が聞き取れてしまうほどの距離だというのに、彼女は大声で叫んできた。その言葉は嫌いじゃないから手だけ振り返すことにした。
今度こそ幸せに。なったよ、俺はもう。
「……ああいうの、いちいち相手すんなよ」
「ティルが寝ちゃって暇だったんだもん」
「寝てねーって」
ティルはそう言いつつもヘッドホンを外すとあくびをした。
最近目をつけているバンドが一昨日リリースしたという新譜を、ティルは今日になってもまだ聴いていなかったらしい。いつもなら配信開始の零時から齧り付くように聴き入って、目の下のクマをこれ以上ないほど濃くして登校してくるというのに。
先々週から根詰めて書いていた楽譜がついに完成しそうだったから、それまで頭の中になにも入れたくなかったんだとうだうだ言っていた。楽譜は昨日無事に完成したようで、今日は授業間の休憩時間も昼休みも、ずっとそのアルバムを聴いている。生物教師の噂さえ彼の耳には入っていないだろう。
ティルはヘッドホンをして、そして目を閉じて音楽を聴く。集中しているらしく、誰が話しかけても気付かない有様だけど、その隣に俺がいても怒らない。だから今日一日ずっと、ティルがもたれられるように肩を貸していた。
ティルは一曲を何度も分析しながら聞いているようで、放課後になってもまだ全曲聞き終わっていないと顔を顰めていた。だからコンビニで温かい飲み物を買ってから、すずめしか立ち寄らない公園のベンチに座ることにしたのだった。
「コーヒー、覚めてない?」
「手ぇあっためるために買っただけだから、いい」
「それなら俺を頼ってくれればいいのに」
「隣にいんのに両手繋ぐってか?」
「うん」
「だせー」
「それ、どうするの」
「持って帰って、明日の朝あっためて飲む」
「缶のままレンジに入れちゃだめだよ」
「殴られてえのか」
ティルはずっと手で包んでいた缶をバッグに入れると、立ち上がった。
「帰るか。そろそろ」
「……ん」
ティルは、右手を差し出してきた。コーヒーもすっかり冷めているだろうし、さっきまでずっと繋ぎ合っていた左手と違ってかじかんでしまったから、温めたいのだろう。俺は左手で握り返して、ベンチから立ち上がる。
鳥のフンがついたままの公園の時計を見上げれば、まだ五時前を指していた。冬は暗くなるのが早いせいでなんとなく分かれるのも早くなるから嫌だな、そう思って前を向けば、ぐるぐると巻き付けて後ろで雑に結んでいるマフラーの先が、ぴょこぴょこと揺れていて、それだけでなんだかすべてがどうでもよくなってしまう。
大きく一歩踏み出して、ティルの隣に並んだ。
「ティル、好きだよ。大好き」
これまでは名前までしか呼べなかった。その先の言葉は伝えてはいけなかった。すべてを壊さないために。
だけどいまは伝えることができる。許されている。それが嬉しくて、一日に何度も何度も、おまじないのように唱えてしまう。
今度こそ幸せになりましょうねなんて、わざわざ言われるまでもない。この世界で誰よりも、俺が一番そう思っている。
「俺も好きだよ、イヴァン」
半年前、ティルから付き合ってほしいと告げられた。消え入りそうな声で、すきなんだ、という言葉も続いた。
ティルのことを好きでい続けている俺に返答の選択肢なんてなくて、頷くかわりに震えの止まらない腕で抱きしめた。タチの悪いイタズラではないらしく、ティルは俺の背に力強く腕を回してくれた。
通りに出て、信号が変わるのを待つ。スーツを着た人は携帯で仕事らしき通話をしていて、俺たちの学校のものとは違う制服を纏った女子高生たちはちらちらと俺の顔を見て、犬を連れた小学生らしき少女とその母親は手を繋いで夕食の話をしている。ぼんやりと眺めているうちにも、俺たちの後ろや横にいろんなひとが並んでゆく。
俺は一番取り出しやすいポケットに入れているハンドクリームを取り出した。
「ティル」
「……ん」
ティルももう、抵抗せず手を出してくれるようになった。ハンドクリームをティルの手の上に出し、俺が撫でるようにして塗ってあげる。
この世界でも作曲の才能があって、あの世界と違ってギターを取り上げられることのないティルは、眠るときと食事をするときと授業以外、ずっとギターを弾いている。そのせいで年中荒れている手に、こうしてハンドクリームを塗りこむ役目を得た。
真皮には届かない、表皮にしか効かないのかもしれないものを、何度も何度も塗り込む。今度こそ幸せになったのだと、自分の傷口を覆い隠すように。
いまの俺がどんなにしあわせになったって、前世の俺にその幸福は届かない。傷口は乾くことすらなくじくじくと膿み続けて、治ることはない。
ティルはたぶん、あのときのことは覚えていない。何度か探るような質問を投げかけてみたけれど、隠しているような素振りもなく、首をかしげていた。
だからふとした瞬間に、ティルのことを騙しているような気分になる。もし俺がしたことを思い出したら、ティルはきっと迷わず俺の手を振りほどくだろう。彼が俺なんかに向けてくれる好意は、所詮この世界限定のものだ。それもいつ心変わりするか分からない。
死ぬまでずっと切望していた想いが叶ったというのに、いざそうなってみれば、俺はティルの言葉を信じきれないでいる。
もし俺があの世界での記憶なんて持っていなかったら、ティルのなにもかもを信じ込んで、愚かしいほどあっさりと全身を喜びに浸していただろう。
だけどミジがいなくなったときの憔悴した様を一番近くで見て、そして触れたのは俺だ。浸るべき感傷に浸らせてあげることを許さず、その思いを踏みにじるように唇を奪った。
気持ちが報われないのをティルのせいにして、ティルの前で被害者ぶって、それでティルを傷つけて彼のことを本当の被害者にして。加害者になることで安心したつもりになって。
そういう夢をみた、というずるい形でもいいから、彼が忘れたままでいてくれている記憶がどんなものか語ってしまえば、いっそ俺も楽になれるのに。そう思いつつも、隠し続けることを選んでいる。利益を裏に隠した幸福を説くさっきの人たち。偽りの神への信仰を人間に強要したセゲインたち。彼女たちのしていることと、俺のしていることはそう変わらない。
ティルの両手にクリームを塗り終え、自分の手についた残りを擦り合わせているときだった。
マフラーを掴まれると同時に、ティルの顔がすぐ目の前に現れる。唇がぬるりと湿り気を帯びた。
三秒ほどして、周囲から固唾をのむ音や、こそこそと話す声が聞こえ始める。それからようやく、ティルはかかとを地面に下ろした。
行為の意味も分からずしたとはいえ、あの時より、
「あん時より随分観客は少ねえはずなのに、恥ずいな」
ティルは目を細めつつも、逸らしたそうに震える瞳で俺のことを見上げてくる。
「いつから」
「さあな。でも、わりと最近。付き合った後だよ」
止まっていた時間が動き出したように、直立していた人々は俺たちに肩をぶつけていく。
「あのときのお前とこうしたいって気持ちはなかったし、キ……スを拒んだのも、それも本心だった。あんときはな」
ティルは俺のマフラーから手を離し、白い息を吐きだした。
「でも今は、お前と付き合ったこと後悔してないし、それは先に死んだお前に同情してるわけでもない。でもどうせお前はどう言ったって信じられねえだろうから、」
俺が余計なことを言うのはティル曰くいつものことらしいので、きっとそれを挟ませないよう矢継ぎ早に繰り出されていた言葉が、そこでようやく途切れる。
でも。だって。だけど。それでもさ。
どれを滑り込ませようか悩んだ数瞬の間に、握られた両手の強さに驚いて唇を引き結ぶ。ティルが触れているのは手だというのに、まるで喉が締め上げられているように、言葉も矛盾も呼吸もなにもかもが堰き止められる。
「お前が信じられるようになるまで離す気はねぇよ」
ティルと違って荒れていないはずの手に、ティルの体温がひどく滲みてくる。痛い。
「次はティルだけが俺のこと好きだったりして」
「んなもん、絶対振り向かせるわ」
「ミジのこと振り向かせられなかったのに?」
「るせー! お前のことは、ッできただろ!」
「俺の方が最初からティルのこと好きだよ、いつも」
「…………」
「照れちゃった?」
「引いてる」
「俺の気持ちの大きさに?」
「いや、それをわざわざ言ってくることに。そういうとこは嫌いだ、いまもむかしも」
「なんかさあ、夢みてるみたい」
「あくびは寝る前にするもんだろ」
「俺、泣いてる?」
「今日は雨降ってねーから、そうなんじゃね」
「だって夢みたいで」
「その夢はいつ覚めんだよ」
「……百年後?」
「……まあ、寿命伸びてるらしいし。百十七まで生きてやるよ」
「馬鹿みたい」
ティルの言葉はどれも出来の悪い冗談みたいに都合が良くて、だけど浅はかな俺は、それがティルの口から唱えられるだけでやっぱり信じてしまいたくなる。
視界の端で青が点滅する。走りだそうとするティルの手を掴んだ。クリームを塗ったばかりですべるから、爪が食い込むまで強く。
「っ、オイ、信号……」
「ティルも俺と一緒にいたいでしょ」
少なくとも今世は。自嘲めいたその言葉は飲み込んだ。そんな言葉で自分を傷つけて満足しなくてもいい、それこそ、少なくとも今世は。
「ああ、いたいよ。もちろん」
歩行者用の信号がまた赤を灯す。ティルは踏み出した足を戻して俺の隣に並んでくれた。
「さっき本当は、その、まだ帰りたくなくて」
「ファミレス寄ってくか。それとその、明日も空いてるか」
「うん」
「……あのさ、」
「ん?」
「その、したら、信じてくれるか?」
ティルは俺の両手を包んだままだった手を解き、指を絡めてくる。
「……ティル、気安くそういうこと言うの良くないよ」
「本気で言ってんだよ、だから明日、」
「もう取り消せないけど、いい?」
額をくっつけて尋ねれば、ティルは寒さに色を奪われていたはずの頬をかっと染めた。背伸びをしたかと思えば、唇ではなく鼻に噛みついてくる。
「だってもう半年も経つだろ⁉」
「え? 本当に本気で言ってたの?」
「は?」
「からかってみただけだったんだけど」
「ばっ……⁉」
今の俺たちがどんなに幸せになろうとも、あの頃の俺たちは自分の望む通りには幸せになれない。幸福を分けてやることも、届けてやることもできない。
「あーもう、やっぱり信じてねえじゃん」
「うん?」
だけどいま感じているこれは紛れもなく深い傷を埋めてありあまるほどの幸福で。
「さっきはぐらかされたけどさ、絶対お前に信じさせるから、俺のこと。もちろん、都合いいこと言ってんのは自分でも分かってる」
「そう。じゃあ……頑張れ?」
「お前さあ……」
ティルにとってもそうであってほしいと願いたいけれど、俺の神様は疑うことも祈ることも認めてくれず、ただ信じることしか許してくれないらしい。