Afternoon Bath Time むかしむかしあるところに、雪の国というその名の通り雪に覆われた国がありました。魔法が盛んなその国は、雪が降り続く冬も魔法の技術で皆楽しく暮らしていましたが── ついにそんな雪の国にも、冬の終わりが訪れました。
これは雪が舞う中、ランガ王子の元へ嫁入りをしたシンデレキ姫が迎えた、春の始まりの日。
◇◇◇◇◇
走るたびに、バシャバシャバシャと水溜りを踏みつけた足音が鳴る。
「シンデレキ、こっち!」
「おう!」
先導する声に応えて走りながら、降り続ける雨で張り付いた前髪を掻き上げた。いつもしているヘアバンドも、結んだおさげにもじっとりと水が染み込んでしまって少し重たい。はぁと息を整えてから、シンデレキは腕に持ったガラスのスケートボードを抱え直して、前を走るランガの背中を追いかけた。
その日はいつもと変わらない昼下がりだった。シンデレキはランガと、息抜きを兼ねて裏庭でスケートをしていて── しばらく経って気がついたら、晴れていたはずの空に分厚い雲が掛かっていた。
ああまた雪か、なんてもうすっかり慣れた雲の色にシンデレキはすぐに視線をスケートに戻したけれど、隣のランガの表情はやけに険しい。
「……今日はもう戻った方がいいかも」
「え。雪でも滑れるだろ?」
「いや、この感じは雪じゃなくて……」
空を見上げたランガの形の良い眉がぎゅっと寄る。初めて見る表情に、なんだなんだとシンデレキは空ではなく夫の顔をじっと見つめた。
── すると頬にぴちゃりと冷たいものが触れ、伝って落ちていく。
「雨だ」
「雨……?ってこれすっげー大雨じゃん!」
まるで、故郷の夏の日に突然降り出す夕立のように、その冷たい雨はあっという間に辺りを水滴で埋め尽くしていったのだった。
「シンデレキ、大丈夫?」
「俺は大丈夫だけどさ……」
走って走って、ようやく城の裏口に辿り着いた時には全身はずぶ濡れで、動き易くて気に入っていた紺のワンピースにも泥が跳ねてしまっていた。よく見ればランガのズボンとブーツにも王子様のものとは思えない泥跳ねがついているし、シャツは濡れて背中にぴったりと張り付いている。
しかしながら、雨で濡れた前髪を上げるランガの姿は土砂降りの中でも何故だかキラキラして見えるから不思議だ。いつもは長い前髪に隠れている白い額が見えているからだろうか。
「水も滴る良い王子……」
シンデレキがぽつりと溢した声は彼に届いたのか、届かなかったのか。
「?ほら、早く入ろう」
首を傾げながら、ランガはシンデレキの手を引いた。思わずびくりと触れた指先に肩が震えたのは、そのひんやりとした感触のせいじゃない。
(ランガの手が冷たい……⁉)
白くて冷たそうに見えるけどしっかりと温かい、シンデレキの大好きな手から温度が奪われているという事態に驚いて、思わずこちらの体温を移すように強く握り返してしまった。
「おかえりなさいませ。ランガ様、シンデレキ様」
はっと気がついた時には裏口は開かれ、明るい城内ではたくさんの侍女たちがタオルを持って待ち構えていた。
「シンデレキ様! どうぞこちらへ」
「あ、ありがとうございます……」
気づいた時にはランガとの手が離れて、四方八方からやって来たふわふわのタオルが雨水の染み込んだヘ赤毛を包み込んだ。
城の中は空調の魔法のおかげで暖かい。けれど、濡れた衣服によって奪われた体温は中々戻ろなくて、冷えた体がぶるりと震えて──
「〜〜ックチュ」
何故か隣でこれまた大量のタオルに包み込まれていたランガの方が先にクシャミをした。
(かっわいいクシャミだな〜)
聴き慣れた実家のお義母様のものとはまるで違う。王子様はクシャミも大人しいものなのか。
(……んん? なら俺も実家にいた時みたいなのはしない方がいい?)
タオルで髪を拭きながら、シンデレキは思案する。
冷静になって考えてみれば、お姫様としてはその方がいいに決まっている。でも生まれてこの方くしゃみの音の堪え方なんて教わったことがない。思いつく限りでも、シャドウお義母様から言われた「もう! クシャミする時はハンカチで口と鼻を覆いなさい!」だけだ。
(音、音ってどうしたらいいんだよ! まだ妃教育でそこ習ってねーぞ侍従長!)
頭の中で大層慌てながらぼんやりとした黒髪の男のことを思い浮かべていたシンデレキは、自分の体が冷え切っていることを忘れていた。
ふっと気を抜いた瞬間、鼻がむずむずとして堪えきれずに
「ハ〜〜ックシッ!」
と大きな声が裏口のエントランスに響き渡る。なんとか濡れた袖で口と鼻は覆ったけれど、声までは押さえきれなかった。そろりとシンデレキが目を開ければ、いつの間にここまで近くに来ていたのか、ランガが顔を覗き込んでいた。
青い瞳がぱちぱちと瞬いて、羞恥から頬を染めたシンデレキを見つめた。
「レキってクシャミもユニークだね」
「……ユニークって言うな」
あぁもう恥ずかしい。
タオルで顔を包んで隠そうとするシンデレキの手を、ランガの白い指が掴んだ。さっきは雨に濡れて冷えていたはずなのに、しっかり温かくなったそれに思わずその瞳を見つめ返せば、ゆっくりと微笑まれる。
ランガは慣れた足取りでシンデレキの手を握ったまま、廊下の奥へと歩き始めた。
「お湯の準備は?」
「整っております」
「ありがとう。じゃあ早く行こう」
「行くって……どこに」
「お風呂。俺もレキも冷えちゃったし」
「え」
てっきりそれぞれの部屋に戻っていつものバスルームで汚れを落とすのかな〜〜と考えていたシンデレキの想像は、突然の夫からのお風呂発言で砕かれた。
曲がったことのない廊下へ入り、その先でガチャリと大扉が開かれて、さらに内扉の中へ導かれるとそこはもう誰もいない脱衣所だった。
きっとその向こうは浴室なのだろう。ふわりと漂う温かな湯の気配に、シンデレキの胸が高鳴った。
そんなシンデレキの夕焼け色の瞳がキラキラと輝き始めたのに気がついて、ランガはゆっくりと脱衣所と浴室を繋ぐ扉を開ける。
──すると、一気に白い湯気が流れ込んできた。
「王子専用の大浴場。広過ぎるし、俺もあんまり使ったことないけど……せっかくだからレキと一緒に入りたいなって」
今日の雨は思わぬハプニングではあったけれど、結婚してからいつか一緒にお風呂に入りたいなぁと思っていたランガは今だ! とここぞとばかりにチャンスを掴みに行ったのだった。
けれど、そんな王子の思いに気づいていてはいないのだろう。当のシンデレキは瞳を輝かせながらただ真っ直ぐに── 浴室の中を見つめていた。
「すっげえ広い……!」
まるで大きな公園の噴水広場のような、絵物語でしか見たことのない、まるで泳げそうなぐらい広くて立派な浴槽にシンデレキの口からは驚きの声しか出ない。
ランガにお風呂と言われた時は確かにドキっとしたのに、今シンデレキの胸の中にあるのは未知の風呂に対するワクワク感だけだった。
「早く入ろーぜ! ランガ!」
先ほどまであった恥じらいはどこへやら。シンデレキは濡れてまとわりついていた衣服をテキパキと脱ぎ捨てる。
その姿に思わず目を見開くランガの視線には気づいていないのか、気にしていないのか。
(……下着、ピンクだ)
エプロンドレスを脱ぎ下着に手を掛ける様子まで思わずじっと見てしまってからハッとして、もたもたと自分も服を脱ぎ始めた。
しかし王子様であるランガは服の脱ぎ着には慣れておらず、濡れたシャツのボタンに手こずっている間に、シンデレキは
「先行くぞー!」
とさっさと浴室へと入っていってしまった。
「待ってよレキ〜〜!」
「はぁ〜〜! すっげぇ……!」
白い湯気の中、広い浴室とふわりと花の香りの漂う場内にシンデレキは目を輝かせる。
プールのような浴槽に今すぐ飛び込みたい気持ちでいっぱいだけれど、湯に入るのは体を洗ってからだと一旦自分に言い聞かせて、足早にシャワーの方向へと向かった。
蛇口を捻り、すでに準備されていた石鹸類で髪と体を洗っていく。
そして、またもや置いてけぼりをくらっているランガはシャワーを浴びるシンデレキをぼうっと見つめていた。
骨ばった肩となだらかな背中に長い赤毛が広がって、泡が細い腰を伝って落ちていく。腰に巻いたタオルに湯が染み込んで張り付いているのをじっくり見てしまってから、はっとして目を逸らした。
熱くなり始めた頭を冷まそうと、手のひらで額を抑えてはぁと息を吐く。お風呂はそういう場所じゃないっていうのは分かっているけれど、それでも好きな人が裸で近くにいるのは落ち着かない。
シンデレキの裸を見るのは初めてじゃないけど、こんなに明るい場所でなんて見たことないし── 今の状況を、シンデレキが特に意識していないことが、ランガを余計にどぎまぎさせていた。
(……レキはドキドキしないのかな)
チラリとシャワーの音がする方へ目を向ければ、髪と体を洗い終えたシンデレキとバチっと目が合ってしまった。悪いことをしたわけじゃないのに、何となくバツが悪くて視線を彷徨わせれると、夕焼け色の瞳がパチパチと無邪気に瞬く。
「ランガ、お前も体洗えよ。風呂冷め……ないと思うけど、早く入ろうぜ」
「う、うん」
シンデレキはランガの気持ちと視線にも気づいていないようで、まるでスケートに誘う時のようにごく自然にそう言って、さっさとタオルで髪をまとめてしまう。
広がっていた赤毛が落ち着いたのがちょっと惜しい気がして息を吐くと、そんなランガの様子にシンデレキはポンっと掌を打った。
「あぁ……お前、一人で風呂入るのに慣れてないんだっけ!」
「え」
「ちょっと待ってろ!」
湿気の中で少し潤んだ夕焼け色が細められる。シンデレキは一人で納得したように頷いて、足早に脱衣所へ向かってしまった。
「……別に、できないわけじゃないんだけどな」
慣れていないのは確かだけど。それに、自分の体を洗うよりも濡れたシンデレキの体ばかり見てしまっていたとは思うけれど。
「お待たせ!」
ランガが溜息を吐いている間に、シンデレキはランガの体を洗うためのスポンジを片手に戻ってきた。安らぐ香りの石鹸をつけて何度か握り込めば、すぐにフワフワの泡がシンデレキの手に溢れる。
── そしてそれはそのまま、ランガの腕へと触れた。
スポンジの柔らかさとシャボンのぬめり、してシンデレキの体温の温かさに思わずランガの体はビクリと震える。
「レキ⁉」
「ほら、ちょっとくすぐったいのは我慢な」
背中側から抱き込むように密着してスポンジで体を擦られて、心臓がドキドキとうるさく音を立てる。
(レキがわからない……!)
新婚初夜はあんなに恥ずかしがっていたのに、どうして今は平気なんだろう。いつもは「あんま見るなよ」って頬を赤くして言うのに。どうして今は明るい浴室でタオル一枚なのに、こんなに大胆なんだろう。
背中を洗い終え、すでに前に回り込んで胸の辺りを洗っているシンデレキを、ランガはジトっと見つめた。いつもはぴょんぴょん跳ねてる赤毛が大人しい。いっそ無邪気にすら見えるその顔に、言いようのない思いがふつふつと込み上げてくる。
(俺はレキに触られてドキドキしてるのに……)
しかし一方で、泡まみれのシンデレキはというと、初めて明るい場所で見るランガの体に
(思った以上に鍛えられてんな〜!!)
と興味津々で触りまくっていた。
何度か夜を共にしたけれど、毎回恥ずかしさと緊張でいっぱいいっぱいになっていたので、こうして落ち着いてランガの体に触れられるのは、シンデレキにとって願ってもないチャンスだったのだ。
そして、触った感覚だけで想像していたよりも分厚くてガッシリとしているランガの体に、これは洗ってるだけだし! と心の中で言い訳をしながらもしっかりとシンデレキもドキドキしていた。
口には出さないけれどお互いにドキドキし合っている似たもの同士。ゴシゴシと仲良く体を洗いながらも、じっとりとした熱が二人を包む。
── その中で先に口を開いたのはランガだった。
「……シンデレキ」
「っ!どうした?」
じっくり触っていたのがバレたかと、シンデレキは肩を震わせて顔を上げた。動いた拍子に白い泡が跳ねて頬に付き、ゆっくりと赤く上気した頬を伝って落ちていく。
その様子を熱を含んだ青い瞳はじっとりと見つめ、泡のついた逞しい腕がシンデレキの肩を掴んだ。その手のひらの熱さに、ひゃっと小さく声が漏れる。
「……それより下触られると、ちょっとまずい」
「え⁉ あ……ごめ……」
堪えたような声にようやく冷静になったシンデレキは、ここから自分がどこを洗おうとしていたのか気がついて── すでに赤くなっていた頬をさらに朱に染めた。
「……一応、人払いはしてるけど」
肩を掴んでいた指が滑って頬を撫でる。長い指がタオルからはみ出て垂れた赤毛を弄んだ。
ランガの指の感触と言葉の意味に、シンデレキの体はのぼせたように熱くなる。無遠慮に目の前の体に触れている時から、じくりじくりと熱が灯りそうになっていた下腹が疼いた。
「でも、ゆっくりお湯に浸かりたいよね?」
しかし、薄い唇からほろっと落とされた言葉が、熱に流されそうになっていたシンデレキを押し留めた。
あぁ、そうだ。今は、そうじゃなくて。
「きょ、きょうは……普通に入ろう。次は……まぁ」
ぼそぼそと告げた言葉に、青い瞳が欲を鎮めて爛々と輝く。
「次も楽しみだな」
「のぼせない程度にだからな!」
新婚な二人は顔を赤らめながら笑い合い── それより今は目の前の風呂だ! とシンデレキは思いっきり蛇口を捻って、お互いの頭を冷やすようにシャワー浴びた。
二人揃ってそろりと透明な湯に足を入れて、温かさに身を委ねる。
やっぱり広い湯船の中で手足を伸ばしてお湯に肩まで浸かるのは格別だ。シャワーだけでも結構温まっていたけど、体の芯からじっくりと染み込んでくるような温もりに、ランガはふぅと息をつく。
そして、気持ちいいなと声をかけようと隣を見れば、シンデレキは瞳を閉じて脱力しきっていた。
(……ユニークな顔)
あれだけ目を輝せていたから、そりゃあ好きなんだとは思っていたけれど。こうして大浴場に案内して正解だった。
「広いお風呂、本当に好きなんだな」
「……実家だとあんまり湯船にお湯張るって文化なかったから、特別感あるっていうか……南の国の風呂は体を温めるより、汗を流すって感じだったから」
シンデレキの故郷と雪の国。文化の違いは知識として知っていたけれど、普段の生活から異なるのかとランガは興味深く眉を上げた。
「シンデレキが雪の国のお風呂を好きになってくれて嬉しい。シンデレキが来てからはずっと雪だったもんね」
「そう!やっぱ寒いからさぁ……お湯であったまるって気持ちいいよ」
肩までお湯に浸かりながらぼんやりと浴室の天井近くの窓を見上げれば、空は先ほどと変わらない色。まだまだ降り続く雨を眺めながら、シンデレキは口を開く。
「……俺、ここに来てから雨って初めてかも」
ランガの言う通り、この国に来てからはずっと雪に囲まれている毎日だった。ずっと冬が続くわけではないと妃教育の中で教わってはいたけれど。
「春が近づいてるってことなんだ。長い長い雪の季節が終わる兆しだから……雪の国では雨はめでたい日だって言われてる」
ランガの言葉に、シンデレキは驚いたように目を見開いた。
「雨がなぁ……」
シンデレキにとって雨の日は大好きなスケートができない日だったから、めでたいと言われるとつい首を傾げてしまう。
でも 確かに、故郷でも冬の終わりの時期は雨が多かったっけ。そういえばあの日も、まだ少し冷える春の始まりの日だった。
── ふと、シンデレキの鼻の奥に雨と泥の匂いが蘇る。
「……そういえば昔、雨の日にさぁ」
思い出したのは、ランガに出会うよりもずっと昔の話。お父様が亡くなってからしばらく経った頃。
遊びに行ってきなさいとお義母様に言われて、お姉様二人と一緒にスケートに出かけた時だった。突然強い雨が降ってきて、走って帰ろうとしたらシンデレキだけ転んで足を挫いてしまった。姉二人も幼くて小さくて、それでも動けない末っ子を置いていくことはできずに困り果てていた。
いや、動けないながらもチェリーもミヤも「お前のせいでお気に入りのワンピースが台無しだ」「帰ったらおやつもらうからね!」などと好き勝手言っていたけど。
「何してんのアンタたち! さっさと帰るわよ」
今思えば、雨の中三人とも帰ってこないのを心配して探してたのかな。やや溶けかけた化粧のシャドウお義母様はそう言うと、全員まとめて抱えて屋敷に連れて帰ってくれた。それで、全員雨で濡れてドロドロだったから、四人でそんなに大きくない湯船に狭い狭いと文句を言いながら入ったっけ。
「……狭くて、熱かったなぁあの風呂」
あ、と気づいた時には緩んだ口は過去の話をぽろぽろ話してしまっていた。
面白くもない話だっただろうに、隣のランガはシンデレキを穏やかな目で見つめていた。
「レキの家族ってやっぱりユニークで……仲良いよね」
「そうかぁ? 大声の絶えない家って感じではあったけど……」
「だってレキ今、楽しかったなぁ〜って顔してたよ」
故郷の空と海に似た青い瞳に見つめられると、そんな気がしてくるから不思議だ。家族とのなんてことない思い出が、少しだけ色づいて特別なものに変わる。
視線が甘くてむず痒くて湯の中で身を捩ると、ランガの手がそっと触れて指が絡まった。
「ねぇレキ。今日のことも、いつかレキが楽しかった!って思い出す日にして欲しい」
ランガにとって今日は、シンデレキと初めて一緒にお風呂に入って、体を洗ってもらって、ドキドキしてぬくぬくしたサイコーの日だから。
覚えておいて欲しいと伝えるように、体を近づけて肩を触れ合わせたランガに、シンデレキは重なっていた手をぎゅうと強く握り返した。ランガからの想いをしっかりと返すように。
「……こんなにすっげえワクワクした日、忘れられるわけないだろ」
「レキ……!」
「でも、俺はこれからもお前とこうするつもりだから……思い出が多すぎて、いつの日のことだかわかんなくなるかもな」
シンデレキはいたずらっぽく笑うと、ぱしゃりと音を立てて距離を詰め、その油断しきった唇に自分のものを合わせた。あたたかく潤んだ感触が心地良い、揶揄うような軽いキス。
けれどそれは、顔を赤くしたランガを煽るには充分だった。
「ぜったいぜったい、俺が忘れないから!」
「はは。頼りにしてるよ」
湯の中でぎゅうぎゅうと抱き合えば水面が波立つ。戯れあいながら惹かれ合うように、もう一度唇が重なった。啄むような水音が、浴室内に小さく響く。
「……あったかいな」
ランガは、温かくて明るいシンデレキとその赤い髪に指を絡める。
窓を叩く雨粒と共に、雪の国の王子は春の訪れを感じていた。
◇◇◇◇◇
「うおぁ!」
バシャン!と水面が大きな音を立てる。
水飛沫が顔にかかり、よろけながらも腕に力を込めて、湯船の中にずり下がりそうになった体を慌てて支えた。
「……夢⁉」
いつぶりだろうか。またもやはちゃめちゃに甘くリアリティのある夢を見てしまって、濡れた手で額を擦る。
「暦! 大丈夫⁉」
そしてふぅと息を吐いたのも束の間、次の瞬間にはバンッと音を立てて風呂場のドアが勢いよく開いていた。
「あ……ランガ……」
そこに立っていたのは同居人であり、数十分前帰宅した時「お風呂にする? ご飯にする?」と優しく聞いてくれた愛すべき恋人でもあるランガだった。
こいつそういう新婚ネタ話があるって知らねーんだろうなぁと思いつつ「風呂……」と力無く答えたのは記憶に新しい。
「れ〜き〜……またネオチ?しかけてただろ!」
「一瞬! 一瞬だって!てかほんとお前、躊躇無く開けるよな……」
「もしものことあったらって思うだろ」
青い瞳がジト〜と暦を見つめる。すっかりお互い大人になって。ランガも背が伸びて体も顔つきもしっかりがっしりしてきたのに、こういう表情をすると子供っぽい。
「ですよね……」
これについては以前、同じようにくたくたに疲れていた日に風呂に入って寝落ちしかけて、ランガが気づかなければ溺れかけていたという前科があるから強く言えない。ていうか十割で暦が悪いので、ランガの言うことに頷くしかない。
仕事が忙しくても、恋人に心配をかけるのはダメだ。心を込めてごめん、と伝えたけれど、ランガの目つきは剣呑なままだった。
「疲れてる時は湯船禁止にする?」
「……それは……まだ寒ぃし……」
「うーん……じゃあ」
ランガは少し考えた後、少し伸びた髪を縛っていたヘアゴムを取ると、風呂場から出ていった。湯船の中からじゃ見えないところでゴソゴソと音が── ていうか絶対に服を脱いでいる音がして、ほんの一分も経たないうちにランガは戻ってきた。
全裸で。
「心配だから俺も一緒に入る」
「なんでそうなるんだよ!」
さっきまで見ていた夢の中の光景が頭の中に蘇る。いや、うちの風呂はあんなに広くないけど。広くないからこそ、色々近いしくっついてしまうから問題なんだけど!
「見張りだよ。沖縄にいたころはよく一緒に入っただろ」
「実家と一緒にすんなって!ここ狭い……!」
この部屋は一応家族用ではあるけど、風呂場については大の男二人で入ってのびのびなんて出来ない。足も伸ばせて子供も遊べる家族風呂として設計されていた実家のものとはまるで違う。
なのにランガは手早く体を洗うと出ようとする暦を押さえて、強引に湯船まで入ってきた。
「狭えよ……」
「がまん」
お湯の水面が上がるのはともかく、身動きが取りづらいほどギチギチになりながら、ランガの足の間に入る形で後ろから抱き込まれた。
「体重かけていいよ」
「……おー」
耳元で聞こえる声が甘ったるい。狭いし逃げられないけど、優しい声と手の感触にああ甘やかされているなと感じて、なんだか背中の辺りがむずむずしてしてしまう。
(昔は俺が世話焼いてたのにな……)
今でも甘えてくる時はしっかり甘えん坊だけど、こうして自分に対してごく自然に世話を焼いたりできるようになったところにランガの成長を感じて── 嬉しいけど、少しだけ悔しい。どんどんいい男になりやがって、なんて惚気を胸に秘めながら、ランガの言葉通りにその分厚い胸板に体を預けた。
「暦の体、あったかい」
「……お前も」
夢の中での甘ったるいやりとりを思い返すと少し頬が熱くなるけれど── やっぱり、ランガの体温は安心する。
「やっぱり今度からお湯入れるなら一緒に入ろう。節約にもなるし」
背中も洗えるよ、と大きな手が湯の中で腹の上を滑る。そこ背中じゃねーぞ、なんてツッコミつつも肌に触れる指の感触が気持ちよくて、のぼせかけてる頭はこくりと頷いてしまった。
「……まぁでも、いいかもな」
「暦……!ほんと……⁉」
「でも狭いもんな〜〜」
「れ〜〜きぃ〜〜」
狭い湯船の中で他愛のないことで戯れる。すぐ近くに聴こえる声も肌に馴染む体温が心地よくて── もう少しこのままでいいかと、暦はふっと息を吐いた。