アンネクスポードアンラック 平和な一日。
荒野の喧騒から隔離された、方舟の中。不意に大あくびを漏らしてしましそうな、贅沢で、退屈な時間。一杯のコーヒーと、ドアと共に床を滑っていくリーベリの女。
「うん?」
平穏な空気を蹴破って現れた女に、ヘレナは目を丸くした。ワンテンポ遅れて、宙を舞ったタンブラーが音を立てて同じように床を滑る。
「ったぁ……」
「あなた、大丈夫?」
「うぅ、ありがとう。大丈夫、よくあることだからね。それに――うん、コーヒーがこぼれてない! やっぱり今日のあたしはツイてるよ」
差し伸べた手が、力強く握り返される。たおやかな見た目の割に、その手の平からは決して一朝一夕では身に付かない技術者の証が感じ取れた。
「ふふ、そうかもね。もしかして、普段からこんな楽しいコトしてるの?」
「えっと……今日は定期検診のついでに道具のメンテナンスを頼みに来てたんだけど、道に迷っちゃって、しかもなんでか通路のドアも開かなくなって、引いてダメなら押してみようかなって」
「へぇ。なるほどね」
羽根についた埃を落としながら、女はぽつぽつと語り出す。言葉通りに受け取った結果が先程の珍事であるなら、この子は普段から相当愉快な人生を歩んでいるのだろう。俄然興味が湧いてきたヘレナは、思わず口の端を緩めた。
「ねぇ、あなたはロドスのオペレーター?」
「うん、一応『ポンシラス』で登録はしてるよ。定期検診の時以外はあんまりここには来ないんだけどね。今は、故郷の景色を作るのに精一杯だから」
「素敵な夢ね」
「でしょ? だだっ広いだけだった土地が、あたしが建てた家やお店と一緒に、段々とみんなの故郷になっていくんだ。こんな大きいプロジェクトに携われるなんて、あたしはツイてるなぁって今でも思ってるよ――でも、とりあえずこのドアのことは報告しないとだね」
一瞬だけ気まずそうな表情を作ったポンシラスは、ドアだったものを助け起こすと、手慣れた動きで端末を立ち上げた。壊すのにも、直すのにも慣れているといったところか。
「よし、報告完了。あとはメンテナンスか。そうだ、お姉さんは」
「ヘレナよ」
「ヘレナさんは、この基地のことに詳しい人? もし良かったら、工房まで案内してくれないかなー、なんて。ほら、あたしは不運ってわけじゃないんだけど、あんまり土地勘がないというか」
「勿論、道案内はできるわ。ただ、今日は工房は開いてないわよ」
「えっ」
「艦内のメンテナンスと新しい源石エンジンの開発が重なってて、点検も予約済みか登録されてる武器しか受け付けない、って言ってたわね。大丈夫、あなたの道具がロドス製なら、お願いすれば見てもらえると思うわ」
元気づけるように付け加える。しかし、ポンシラスは浮かない顔のままだ。
「このハンマー、おじいのなんだ。あたしが駆け出しのころからずっとずっと一緒だったから……うん、しょうがないよね。たまには、ツイてない日もあるって」
「そう、ツイてない日もあるわね。ただ、それは今日じゃない。まだ、諦めるのは早いよ」
運命という名の駄獣に翻弄される、健気な若者。そんな駄獣の躾け方を教えてあげるのも、年長者の勤めだ。
「あたしにいい考えがあるの」
◇
ブリッジエリアに、ゆるい風が吹き抜ける。終わってみれば、今日も退屈しない一日だったと言える。
「ヘレナさん、ほんとにありがとう! あんなやり方、あたしひとりじゃ思い付かなかったよ」
「あなたの腕前が優れてたってだけよ。エンジニア部の人に、嘘はついてないでしょ」
急遽艦内メンテナンスに参加することになったポンシラスは、ぴかぴかに整備されたハンマーでその力を遺憾無く発揮した。ヘレナなりに多少誇張したつもりだったが、杞憂にすらならなかったようだ。
「それは、そうだね。あたしも、あたしの技術でみんなを助けれて嬉しかった。おまけにヘレナさんみたいなカッコいい人にも会えたし、やっぱり」
「『あたしってツイて』た?」
「うん!」
晴れやかな顔で笑ったポンシラスの頭に乗っかった帽子が、すごい勢いで羽獣に攫われていく。
「へっ?」
「ふ、ふふ、あはっ」
余りの緩急に、ヘレナは堪えきれずに笑ってしまう。本当に、愉快な子だ。
「ねえ、ポンシラス。今の仕事がひと段落ついてからでいいから、あたしの依頼を受けてくれない?」
「もちろん、ヘレナさんにはいっぱいお世話になったしね。ちなみに、どんな仕事なの?」
二つ返事で了承してくれるポンシラスに、ヘレナは確信する。この子なら、絶対に力になってくれると。
作って。壊して。荒野には何もなくて、ただ、そこには新しい故郷があって。
理不尽を跳ね除けて、前を向く心。開拓者たちと共に駄獣の背に乗ったお嬢様と、いつかきっと、二人が手を取り合う未来を思い描いて。
「故郷の景色を、作る仕事よ」