許嫁を忘れないアウラ♂の話。 スイの里は地上での争いから離れ、海底に安住の土地を得ることで血を繋ぐことを選んだ。閉鎖的な里では恋人達の逢引の場所など限られており男女を見下ろしていた。人目を忍んだ逢瀬は濃密であった。形の違う角を何度も擦り合わせ、笑みを浮かべる。
陸の生き物には角はなく、唇で愛情を確かめ合うらしい。私達アウラにはその文化はなかった。何故唇があるのに角を擦り合わせるのかはいくつかの説があるというがお互いの角が邪魔をするからではなく、アウラにとっての角は誇りであり、そこに触れていいものは己が許した相手のみだという説が有力であると父は語る。
水底の里という閉鎖空間で選ばれることの意味は大きく、生涯この相手しか愛さない誓いにも呪いにも思えた。
私には許嫁がいる。まだ片手で数えられる程度の歳の娘だった。
「シノノメ、なにをみているのですか」
何を見ているのかと好奇心だったのだろう、部屋に入ってきた娘は小さな体を襖の隙間から滑り込ませ、近づいてきた。歳もまだ十にもならない娘だった。
まだ、恋も知りもしない無垢という塊にどう接したものかと考える。
私の視線の先を追うように窓の下を覗き込んだ後に目を見開いて固まってしまうのが分かった。少し刺激が強かった。袖で目元を隠してやり、肩を抱いて窓から離れる。幼い娘は連れられるがままだった。
部屋から出て廊下を歩いていると、手を伸ばされたので繋ぐことにした。
まだ成長しきっていない小さな手だった。
「シノノメ、あれは……」
一体何をしていたの。ユウギリの歳であれの意味を知るのは少し早い気もした。
しかし、娯楽の少ないこの里では子供達はいつも里の外へ遊びに行く。きっと陸の人間の営みを目にすることもあるだろうと考えた。
下へ降りる為の階段に腰掛け、いつも持ち歩いている書をユウギリに見せるように広げる。まず我らアウラの身体の構造から説明せねば、と指先で字をなぞれば数分の内はふむふむと可愛らしく頷くユウギリも次第に船をこぎ始める。子供は自由だと思いながら小さな身体を抱き上げた。
「……わたしたちもいつか、あれをするの」
ぽつりとか細い声が届いた。
ユウギリの瞳が見上げてくる。
来ることが決まっている未来を尋ねられた時、どう答えるべきか頭を悩ませた。
私は、この里唯一の医者の子である。私は将来この子ら守っていかなくてはいけない。それはどんな例外なく、傷を負えば手当てをし、病気になれば薬を煎じ、熱が下がるように手を尽くしていかなくてはならない。それが私の一生だと思っていた。
紅玉姫は父の知識が途絶えることを恐れている。陸では争いが繰り返され、安住の土地を求めた結果この里を築いた。外界との接触を極力避ける為には全てこの海の中で完結させる必要があった。
許嫁、という肩書きに何かを強いられることはなかった。
私自身もこの娘に何かを強いることはない。出来ることなら、誓いも呪いも掛ける前に解放してやれたらと思うばかりだ。
彼女の問いに何と答えるべきかと考えていたとき、空洞に淡い痺れが広がった。それは鼓膜の奥を擽るような甘さを含みながら、心地のいい反響のようにも感じた。
聞いたこともない音に目を瞬かせる。沈み込んだ意識を強制的に引き上げられる。ユウギリの顔が近くにあった。まだ、幼く柔らかくて小さな角が私の角に触れ合った音だと気づくのには時間を要した。
「……っ…!?」
絞り出した言葉と共にユウギリは悪戯が成功した子供のようににんまりと笑った。
「ずっといっしょにいてね、シノノメ」
子供は時に鋭く相手の内面を見透かす。
子供は恐ろしい。貪欲に、なんの恐れもなくそれを願うことが許される。願いを叶えるためならどんな手段でもとってしまえる短絡さを持っている。将来、本当に選んだ者に与えられる栄誉をこうも簡単には明け渡してしまえることが恐ろしかった。
柔らかい空洞に響くはまだ出来上がってない未熟な音がした。
反響は短く、ユウギリは満足げに頬を緩めた。
私は、元々スイの里の生まれではなかった。赤子の時に今の両親に引き取られ、治療師の才があると分かれば医の道を学ぶ為に育てられたに過ぎない。愛情がなかったわけではなかったが陸への憧れがあるかと聞かれれば答えることが出来なかった。
ユウギリは腕の中から降りて走って行く。ふりかえったとき梅の花が縫われた裾がひらりと舞った。
数年後、陸へ遊びにいくことを許された歳になった彼女の横顔を見送った。
部屋に広げられた医術の本を読みあさりながら、父の後をついて紫水宮へ通う日々を送る。
ある日、陸へ行った彼女の擦り切れるほどの激情を知ることとなった。
いつかはこの里も、あの国のようにきっとこの海も帝国におかされてしまう。
立ち上がらねば、守らなくてはいけないのに何故立ち上がろうとはしないのだ。
悲痛な叫びを向けられ、私は声を失ったかのように口を閉ざしていた。
ころころと泡沫ののぼる音に消えるユウギリの叫びを受け止めようと必死だった。陸のことなど気にしなくて良いのではないか。お前はここで静かに暮らしたらどうだ。止めどなく溢れだす感情がユウギリの眼差しを遮るように覆っていく。
その美しい瞳を袖で隠した時のようにきっと目を逸らせると思っていた。ユウギリの奥歯がギリッと鳴った。涙に濡れた瞳が分かってくれと訴えるのが痛々しい程に伝わってきた。あの日、ユウギリは事実を受け止めようと尋ねてきたではないか。逸らしてはいけないのだ、全ての不安を、将来やってくるかも知れない嵐に備えないのは愚かだと訴える瞳から逃げてはいけないのだ。
しかし、私の行動は一歩遅かった。
ユウギリはもういいと吐き捨てるように横を去っていく。引き留めなくてはいけない気持ちと言葉を紡ぎ出すにはこの声帯は音を発することに慣れてないことをこれ程悔やんだときはなかった。
彼女の眼差しは銛の先を突きつけたかのように鋭利さをたずさえていた。明確な拒絶。ユウギリは里から出ていく。私の元を去って行く。
親も故郷も全てを置いて、陸へいった。
十年、いやもっと前だろう。あの焔のような激情を宿した娘の瞳は今も前だけを見ているのだろうか。海底から時折陸に上がり、外の様子を探るも未だに成果は得られない。
一年前の反乱からユウギリがいるであろう忍の里は壊滅寸前まで追い込まれたと噂を耳にした時には絶望した。しかし、私はあの娘が生きていることを信じている。
信じなければいけない。
あの日、誓って、呪われてしまった私はお前以外を番にするつもりはない。
カリッ、と指先で硬質な角を引っ掻き、柔らかな音を今でも探している。