0日目
「人殺してもうたわ。どないしよ」
とある冬の夜。かき消されそうなほどちいさな声で、簓は零に笑いかけた。その右手に、血で濡れた包丁を持って。
「あー……とりあえず家ん中入れ」
玄関先でやる話じゃねえだろ。
そう問えば、簓はへらりと笑った。
芸人らしからぬ、下手くそな笑みだった。
「で?どいつを殺ったんだよ」
「……知らん。名前も分からん女や。仕事終わって、後ろから呼び止められた思たらいきなり包丁出されて、ゴタゴタやっとる内に、俺の、俺が包丁、女の腹に刺して、そんで、そう血が、ばーって」
「もういい、充分だ」
要するにストーカー女に刺されそうになって応戦した結果、逆に刺し殺しちまったってところだろう。ガタガタと小刻みに震え始めた簓の話を静止しながら、零は煙草に火をつけた。常ならば、禁煙者のまえで煙草吸わんとって、なんてふざけた口調で言ってくるが、その気力すらないのか、簓は何一つ言ってこない。
(ま、当たり前っちゃ当たり前か)
というより、零が目の前で煙草を吸っている事すら、今の簓には正しく理解できていないのだろう。
「盧笙へは連絡したのか」
「出来る訳ないやろ。あいつにこないな事言えんわ。それに、」
く、と膝の上で拳を握って、簓ははっきりと呟いた。
「押し潰される」
きっと、最初は信じない。笑えん冗談は止めろや、なんて説教まがいのツッコミをしてきて、何も反応できない簓を見て次第に絶望したかのような表情になるに違いない。そうして、いつものように怒鳴り散らす声ではなく、静かに、淡々とこう言ってくるのだ。
『……ほんまに言っとるんか、簓』
あぁなるほど、確かにこれは心にくるか。
盧笙ほどの善性は、人殺した直後にはキツすぎる。
「……とりあえず風呂入ってきな」
「え」
「血生臭えんだよ。ほら行った行った」
何か言いたげそうな簓の背中を押しながら、半ば無理矢理風呂場へと押し込む。と、ほぼ同時に零の携帯がピリリと鳴った。それはどついたれ本舗用でも詐欺用の携帯でもない。この携帯の電話番号を知っているのはただ一人。はぁ、とため息を吐きながら、零は電話をとった。
「……俺だ」
===
一体、俺は何してるんや。
お湯でさっぱりとした身体を拭きながら、簓はぼんやりと考える。
この手で、人を殺した。
ーーーーーーー本当に?
シャワーにより先程までと両手と顔を濡らしていた赤い液体はどこにもなく、手の震えもいつの間にか止まっていた。
本当に、俺は殺したんか。
死体はあそこにあるのか。
実はないのでは、ないか。
例えば、テレビのドッキリでした、とか。
例えば、自分の幻覚だったんじゃないか、とか。
そんな訳、ないのに。
「ぅ、……っ」
たった数時間前の事なのに、もうすでに夢か幻であったんじゃないかと思ってしまう自分に吐き気がする。
何かを吐き出したいのに、一日中何も食べていないせいで黄色味を帯びた胃液しか出ない。ふと洗面台の鏡を見やると、そこには青白く今にも死にそうな顔をした自分がそこにいた。
はは、これではまるで自分が殺された者の亡霊みたいではないか。
笑えぬ冗談を思い浮かべながら、簓は再び背を丸めてえずいた。ひとしきり胃液を吐き出した後、ふと洗面所の横を見ると新品であろうバスタオルとパンツ、それに服が何点が置いてあった。好きなやつを着れということだろう。しばし逡巡した後、オレンジのスウェットと黒のスキニーを着る事にした。
何で俺のサイズの服が置いてあるんや、なんて野暮な質問か。
髪をタオルでごしごしと拭きながら居間へと戻ると、簓は零の変わり様に目を見開く事になった。いつもの派手な洋服はどこへやら、灰色のタートルネックにブラウンのチェスターコート、パンツは黒のスラックスと随分と地味な格好であった。
さらに一番驚いたのは顔だ。
髭も傷もなくなっている。
色の違う美しかった双眸は、眼鏡の奥で不自然なほどの真っ青に染まっていた。
「零、お前それ何や」
「何って変装に決まってんだろ。簡易だが、やんねえよりはマシだろうさ」
そう言って目の前で笑う零は、まるで知らない人のようで。これで、簡易と言うんか。きっとこの男が本気を出せば、誰も見つけ出す事など出来ひんな。なんて、的外れな感想が思い浮かんだ。
「その服だけじゃ寒いだろ。これも着とけ」
「うぶ」
「あとこれも被っとけ。簓くんの髪は目立ちすぎるからな」
ぽい、と投げられたのは黒いスタジャンにニット帽、それと白いマスクだった。零の変装と、簓の重装備。これから零が何をしようとしているかなんて、問うまでもなかった。
「……なんで、ここまでしてくれるんや」
「ん?」
「零、なんか目的あって俺らに近付いたんやろ。今の俺はアンタの思惑通りに動いてないはずや。切り捨てた方がええんやないのか」
零は何も言い返さない。
「それとも、」
人工的な青の瞳では何を考えてるか分からない。
零の左目、俺の髪色と同じで好きやったのに。
「これすら、アンタの掌の上なんか?」
「違えよ。約束する」
即答だった。いつもの嘘と本当をごちゃまぜにした喋り方ではなく、これは本心だと心から信じられる言い方だった。とんとん、と煙草の灰を灰皿へ落としながら零は話を続ける。
「簓くんは強いからなぁ。ハナから自首するつもりなら自分の足だけで行ってただろ。だがお前さんはここに来た」
何年も手を汚しながら生きてきた男のところに。そんなもの、目的なんて分かりきっているではないか。それで良い。利用できるものはとことん利用するべきだ。零は簓にバレぬように息を吐く。
「安心しろ。何があっても、俺はお前の味方だからよ」
笑ってそう言ってやれば、ようやっと簓の瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ始めた。綺麗だな、と思う。簓はよく盧笙のことを純粋すぎると囃し立てているが、零からすれば簓だって同じようなものだった。
いつまでも続くわけのない逃避行。
本来ならば机上の空論で終わるべきであったのに。
それができる頭脳があった。
それができる行動力があった。
それができる財力があった。
それができる、二人であった。
最終日+n
あの時、簓が零の家を訪ねた時、零は一つ勘違いしていた事がある。簓は逃亡など望んでいなかった。
自殺するつもりだった。
本当は、零の顔を見て、すぐに死にに行く予定だったのだ。零が誤解して、失踪を手伝うと言ってくれた時にすぐ拒否するべきであった。なのに、
『何があっても、俺はお前の味方だからよ』
この言葉で、全てが揺らいだ。
考えてしまったのだ。あり得ない未来を。
零は悪くない、俺の罪やと簓が警察に訴えても、犯罪に巻き込まれた事による精神の混濁だと診断されるだけだった。 ありとあらゆる証拠があった。零があの女を殺したという、あるはずがない証拠が。
違う、違う違う違う!!
こんな未来を望んでなんかいない。
俺は庇って欲しくてあの時家に行った訳やない。
ただ、ただ、ただ、
『簓』
最期に、好きな人の顔が見たかっただけなのに。