【キミのココロを教えて】 ――今も、瞼に焼き付いている。
自分の名前を呼ぶ彼女の顔。慣れないブラックコーヒーに眉を顰める顔。可愛らしい花柄の浴衣を着たきみの姿。文化祭で台本を任され、ジュリエットのセリフを呟くきみの横顔。
そして何よりも……自分に手をかけた時の、安堵しているような泣いている顔。
『和希さんッ! 和希さん! かずき、さんッ……!』
彼女の声がか細く震えて、何度も何度も、俺の名前を呼んでくれた。
本当は、その声に応えたかった。手を伸ばして、涙に濡れた頬を撫でて「大丈夫だよ」と、告げたかったのに、俺の体は言うことを聞いてくれなくて。
自分の体と魂がゆっくりと分裂していく。意識はあるのに体が動いてくれなくて、ただ彼女の目を見つめることしか出来ない。
『……レナ』
そっと彼女の名前を呼ぶのと同時に、俺の意識はブラックアウトした。
……ここで、俺の人生は終わるはずだった。そう、終わっているはずだった。
なのに、気がついたら俺は小さなペンダントに閉じ込められていたんだ。理由は分からないが、どうやら死ぬ直前に『ココロケット』に魂を移していたらしい。
自分で何かをした訳では無いが、『ココロケット』は魂の依り代だ。長い間共にすごした鍵でもあるため、俺が何かしたという訳ではく、もしかしたら『ココロケット』自体が持ち主である俺を守るために魂を移した……のだろう。多分。
そんなことをぽつぽつと考えていると、視界がクリアになる。今の俺は『ココロケット』と同期しているため、『ココロケット』の見てる世界が俺にも見えている訳だ。
とは言え、あの長矩が俺の『ココロケット』を放置しているわけが無いだろう。多分、厳重にどこかにしまわれているはずだ。何度も長矩を裏切るようなことをしてきたが、それでも俺は『アリアーヌ』の幹部だ。迂闊にどこかに置いていくはずがない。
そう、思っていたのに。
『っと……よし、これで大丈夫……かな?』
視界に写りこんできたのは、ずっと焦がれていた彼女。長い髪を三つ編みにして、丸い眼鏡をかけた彼女は『アンジェ・スクイーレル』ではなく、ただ一人の『胡桃沢レナ』なのだろう。
「レナ……」
そっと、あの時呼べなかった名前を呼ぶ。普段は彼女との距離を守るために『胡桃沢さん』と言っていたが、本当はずっとレナと呼びたかった。
(……ああ、ズルいな。俺)
『ココロケット』は外側からの情報を得ることはできるが、反対に俺から彼女に向けて何かを発信する事が出来ない。だから、こうしてレナと呼んでも、決して彼女には届かないのだ。
それをいいことに、こうして彼女の名前を口ずさむ。俺が『胡桃沢さん』と呼ぶ度に悲しそうな顔をしている彼女を、何度も何度も……もう、数え切れないほど見てきたのに。
彼女の名前を呼べたと言うほんの少しの幸福と、それを上回る罪悪感。それでも、彼女の名前を呼べることが嬉しい。
俯いてしまった顔をあげて、再び彼女の方を見る。彼女は時間割表を確認しながら、鞄に教科書を詰めていく。
『ええと……あ、体育あるからジャージ忘れないようにしなきゃ』
リスが描かれたトートバッグにジャージを詰めている彼女を見て、俺はようやく違和感にきづいた。
「……ん?」
どうして、俺はここにいるんだ?
レナと俺は互いに敵対する立場だ。肉体は滅んだかもしれないが、魂が残っている現状を長矩が許す訳が無い。なのに、どうしてレナが『ココロケット』を持っているんだ……?
意味がわからなくて混乱していると、レナの顔が近づいてくる。美しい、若緑のような瞳に射抜かれて、俺の本心を見抜かれたような気がして、ドキリとしてしまう。
彼女は俺を……正確には『ココロケット』を持ち上げたかと思うと、そのまま首にかける。どうやら、『ココロケット』にチェーンか何かを通してペンダントにしているらしい。
チャリ、と音を立てて彼女の胸元で揺れる。レナは寂しそうな目をしながら、そっと『ココロケット 俺』を撫でた。
『……いってきますね、和希さん』
「……ッ!」
彼女は――レナは、これが俺だと知っている。知っているんだ。
ほんの一瞬だけ、彼女は何も知らないと思い込んでいた。長矩が管理するのをやめて、俺を捨てて、たまたま彼女が拾ったんじゃないか……。
そんな、ありえないことを期待していたが、彼女はしっかり俺だと認識していて、そして大切にしてくれている。
「……レナ」
色んな気持ちを込めて、彼女の名前を呼んだ。ほんの少し前までは彼女に自分の声が届かなくて良かったと思っていたのに、今はそれがもどかしい。
ちゃんと面と向かって、彼女の名前を呼びたい。きみの体を抱きしめて、震える彼女の肩を引き寄せながら「レナ」と、ちゃんといいたいのに。
そう思っているのに、今は何も伝えられない。ただ、寂しそうにしている彼女を見つめることしか出来ない。
彼女はギュ、と一度強く瞼を閉じたかと思うと、すぐに開く。その瞳には、もう寂しさは無かった。
『……よし、準備できた! いってきます』
「……行ってらっしゃい、レナ」
思い返してみれば、学生としての彼女をちゃんと見たのはこれが初めてかもしれない。
これまでレナと会う時は彼女が店に来るか、敵として影から見るかのどちらかだった。制服で店に来ることも多かったけれど、後輩と一緒にいる事ばかりだったため、年相応には見えなかったのもあるだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、彼女の名前を呼ぶ声がする。ポニーテールを揺らしながら走ってきた彼女は、どうやらレナの友人らしい。
『おはよ!』
『おはよう、あみちゃん』
ニコニコと友人と話しながら、二人は教室に向かう。カフェで働いていたから分かるけれど、この年頃の女の子の話題はくるくると目まぐるしく変わるものだ。
授業のこと、宿題のこと、体育のこと、先生の話、クラスの噂話、お昼はどうするか、次の休みは空いているのか……などなど。
よくそんなに話題が尽きないものだと聞いていると、どうやら教室についたようだ。彼女は友人と別れ、そのまま席に着く。
彼女の席は窓際の一番後ろだ。窓の外を見れば木々が紅葉しており、すっかり秋が深まっている。
(……今は、いつなんだろうか)
文化祭が終わった頃だかろうから、十月……くらいなのだろう。『ココロケット』に閉じ込められ、魂だけになっている俺は気温や匂いを感じることは出来ず、何かに触れても分からない。
だから、彼女が感じていること全てを理解できない。
「レ……」
彼女の名前を呼ぼうとした時、ホームルームのチャイムが鳴った。これが終わったら授業が始まるのだろう。
教室に入ってきた担任の教師は『卒業の日が近づいてきましたね』なんて、話している。
(……卒業、か)
彼女は――レナは、卒業したらどうするのだろうか。
思い返してみれば、俺は彼女は進路のことを話しているのを聞いたことがない。
俺自身、彼女に深入りするつもりは無かった。だから、あえて彼女の未来について聞こうともしなかったのだ。
……レナは、どんな大人になるだろうか。
彼女は優しく、頭も良い。人の痛みや傷に寄り添えることの出来る人だ。きっと、どんな進路を選んでも幸せになれるだろう。
けど、その未来に俺はいない。
(……いつか、この子も誰かと恋をするのだろうか)
俺が『アリアーヌ』の幹部だと知られるまで、彼女は真っ直ぐに俺に恋慕を伝えてきてくれた。けれど、すぐにそれも忘れられてしまうだろう。
未来をくれと言った訳でも、彼女の想いに応えた訳でもない。そんな俺を、いつまでも好きになってくれとは言えないし、伝えられない。
……レナは、美しい子だ。きっと、俺なんかよりも素晴らしい人と結ばれるだろう。
そう考えた途端、胸がチクリと痛くなる。これは、嫉妬だ。見知らぬ男への、醜い嫉妬。
(……俺は、彼女に思いを伝えられるような人間じゃないのにな)
ハッ、と浅く息を吐いて、自嘲する。
窓の外は、すっかり秋めいていた。
長い、長い一日が終わり、レナは帰宅のための準備をしていた。今朝声をかけてきた少女が『レナ、放課後遊ぼ〜』と誘っていたものの、彼女は首を左右に振る。
『ごめんね、今日用事があって』
『そっか。また例のお店?』
『……うん』
こくり、と頷くレナの顔は、どこか陰りを帯びていた。一体、彼女の顔をこれほどまでに曇らせる例の店とは、なんなのだろうか。
内心イラついていると、少女は困ったように微笑む。
『ん〜? あんまり詳しくないけれど、無理しちゃダメだからね』
『うん。大丈夫だよ、平気だから』
そう言って、彼女は少女と分かれる。今朝登校する時とは違う道を、彼女は歩いていた。
(……もしかして)
レナが進む方向を見て、何だか嫌な予感がした。気のせいだと自分に言い聞かせているものの、視界はどんどん見慣れていく。
彼女が向かっていたのは、あの店――『喫茶一ノ瀬』だ。俺が働いていた店。
(……何も言わずにいなくなったから、きっとマスターは怒っているだろうな)
優しく、温和なマスターだが、ひと月近く無断欠勤している自分に怒っているだろう。クビにだってなっているはずだ。
そんなことを考えていると、彼女は一呼吸置いてから店に入った。チリン、とベルの音がなり、マスターが彼女を見据えた。
『……いらっしゃい、レナさん』
『こんにちは、マスターさん』
どこか重たい空気をまといながら、二人は対面する。
(……おかしい)
レナも、マスターもこんな感じじゃなかった。二人とも、もっと穏やかで温和で……。こんな、チリチリとした空気を纏っているわけが無い。
マスターは持っていたカップを置き、レナの方を見つめる。その目には、呆れと期待が入り交じった不思議な感情が浮かんでいた。
『……何度頼まれても、これ以上は待てませんよ』
『でもっ……!』
『私とて、和希の事を心配してますし、あなた同様、彼のことを大切に思っています。けれど、それと同じくらい私は、この店も守りたいのです。いつ帰ってくるか分からない男を、私は待てないんですよ』
「…………」
マスターの言葉に、俺は何も言えなかった。握りしめた手のひらに爪が刺さり、痛みを訴える。
彼の言う通りだ。いくら可愛がってくれたと言っても、ある日突然いなくなった従業員の面倒をいつまでも見てくれるわけが無い。
マスターにだって、守るべき家族や生活があるのだから、仕方の無いことだろう。
けれど、レナは違った。
『……確かに、和希さんは勝手にいなくなりました。でも、絶対、ぜったいに、帰ってくるんです!』
そう言って、彼女は『ココロケット』を握りしめてくる。外からの感触は伝わってこないはずなのに、何故か痛いほど抱きしめられているような気さえした。
『だから……どうか、どうか、もう少しだけ、待っててくれませんか……?』
震える声で彼女はそう懇願する。そんなレナを見て、マスターはゆっくりと首を左右に振った。マスターからの拒絶を見て、彼女はくちびるを噛み締める。
きっと、このやり取りも何度もやっている事なのだろう。
(……もう、やめていいのに)
俺が、俺の居場所を失うのはただの自己責任だ。俺が選んだ未来の結果だ。
彼女の貴重な時間を、こんなことに使って欲しくない。ただでさえパピヨンエンジェルとして戦っているのだ。戦いのない日くらいは、学生らしく過ごして欲しいのに。
そう言いたいのに、彼女には俺の声が届かない。
『……また、来ます』
硬い声で返事をした彼女は、ぺこりと頭を下げてそのまま店を出る。無意識の内なのだろう、彼女は首から下げている『ココロケット』を握りしめてしまい、視界が真っ暗になった。
……『ココロケット』を隠されてしまうと、俺は何も見れなくなってしまう。だから、今彼女がどんな顔をしているのか、どんな風に考えているのか分からない。
「……レナ」
何も気にしなくていい。俺は自分で選んで今の俺になったんだ。もう君が、傷つくようなことはしなくていい。俺を忘れて、幸せになってくれ。
そんな、名前のつかない思いを込めて、彼女の名前を呼ぶ。当然だが、俺の声は彼女には届かない。
それが、酷くもどかしい。
「レナ」
どうか、俺にもキミのココロを教えてくれないか?
了.